藤森照信による建築講演会「村野藤吾と八ヶ岳美術館」の講演録
2024年4月29日(月・祝)、茅野市出身の建築家・藤森照信氏による講演会「村野藤吾と八ヶ岳美術館」が開催されました。
当館を設計した建築家である村野藤吾の足跡を、藤森先生ご自身の感覚も交えながらお話ししていただきました。
お話の文字起こしを公開させていただきます。なお、ブログに公開するにあたり藤森先生直々に加筆修正していただいています。
講演の様子は原村教育委員会生涯学習課のYouTubeからも映像をご覧いただけます。
以下からご覧ください。↓
村野藤吾の生い立ち
藤森照信が見た村野藤吾
村野さんはお会いしてインタビューしたこともあるんですが一筋縄ではいかない方だった。あまり本心を言わない。ちらっと周辺のことは漏らすけど肝心なことになると黙っちゃうというタイプの人でした。
最初に、村野さんの生まれ育ちについて、話しておきます。村野さんの最晩年に一度だけ小さな展覧会が神戸であった。村野さんの展覧会はこれまでもちゃんとしたものは開かれたことがない。建築家の展覧会って、今から30年、40年くらい前まではなかったんです。外国の超有名な人の展覧会ってのはありましたけど、日本の建築家の展覧会ってのはほとんどない時代ですが、村野さんについては最晩年に関西の作品だけの本当に小さな展覧会が開かれた。
そこに私も行ったんですが、そうしたら村野さんがケースの中をじっくり見始めて、印象深かったのは二つです。ある建物の前できょとんとされて、「俺はこんなものやってない」って言われたらですね、事務所の人がちょっと耳打ちされたんで「あーそうかそうか」。何かの事情で名前を貸すような形でやらざるを得なかった仕事があったんだと思います。もう一つは、戦争中の展示まで来たんです。そうしたら、突然、嗚咽をもらされて、倒れそうになった。案内していた馬場璋造さんが、老齢だから脳に異変が起きたんじゃないかって慌てて支えたんですよ。そうしたらいやいや、って立ち直って、涙を流されながら、「あの頃の自分がかわいそうだ」と言った。どこのシーンかと言うと、小さな本の前。それはね、岩波文庫の『資本論』で、克明に注がつけてあってボロボロなんですよ。ページが足りないから自分で紙を足していっぱい書いている。その前で「あの頃の自分は仕事がなかった。思い出して、涙が出てしまった」ということをおっしゃられた。
若かりし村野
あとでご子息に聞いたら、戦争中本当に仕事がなかった。普通の建築家は軍の仕事とか、直接軍と関係なくても軍需生産のための工場の仕事はあった。村野さんはもちろん工場をやらせればちゃんとできた人なんですけれども、「お前のように美術的な建築ばっかやるやつには、遣る仕事はない」と言われて、しょうがなしに、食っていかなくちゃいけないから、近くに田んぼを借りて、田んぼを作って、雨が降れば『資本論』に注をつけていた。ご子息に聞くと、学校から帰ってくるとお父さんは、晴れた日は大体、田んぼで草をとったり、いろいろしていたということです。戦後もですね、すぐはなかなか仕事がなくて、現場で手に入れてきたトタン板でバケツを作ったり、銅板がいくつかあったらしくてそれで模型の電車を作ったって言うんです。誰が買ったのかわかりませんけどちゃんと売れて、そういうことをしながら食いつないだ、ということです。
もう一つご子息が言われていたのは、「父はかわいそうな人だった」。理由はですね「友達というのが一人もいなかった。寄ってくる人は仕事が欲しくて来ているだけで、自分がその人といると気持ちよく話せるみたいな友達ってのはいなかった。かわいそうな人でした」と。
なぜ村野藤吾がそういう孤独な、晩年にも書いてるんですが、ずっと、「孤独だ」と。なぜそうなったかというのは、育ちに関係がありまして、唐津の実家は没落した家だった。育てられないので、生まれてすぐ漁師の家に里子に出されます。そこで漁師の乳母にかわいがられて育つ。要するに貧しい漁師の子として育ったんです。そのままずっと育てばおそらく漁師になったと思います。ところが、小学校に行かないんです。当時の貧しい漁師は学校に子どもを行かせないということがあった。学校に上がらずに漁師の手伝いをして育っていたら、突然、本当のお父さんが現れる。両親は子供を漁師に預けて、八幡製鉄の労働者になっていたんですね。一応生活ができるようになって、預けて6年か7年して“藤吉”がそろそろ小学生になっているはずだからと、連絡をとったら学校に行っていないことがわかる。それはあんまりだということで、自分が引き取って、彼は育つわけです。
両親のことはあまり彼は語らないですけれど、自分を育ててくれた乳母の愛情はちゃんと語っている。本当のお母さんだと思って愛されていたのに、小学校の微妙な歳のときに引き離されて実の親のもとで育つ。その辺から彼の孤独感と言いますか、心を許す友達が現れないという状態が始まったんじゃないかと思います。村野さんの本名は藤吉といい、木下藤吉郎を意識して育ての親が付けたのかもしれない。新建築社を創業した吉岡さんは、”トーキチ、トーキチ”と呼んでいました。
それで村野さんはですね、当然その貧しい、簡単に言うと底辺の労働者の子として小学校、中学時代を過ごすが、その辺のことは語っていない。長谷川堯さんにいろんなことを喋っているんですけどその辺のことは語っていない。だからよくわからないんです。ちょこっと私にも喋ったことがあるんですけど、八幡製鉄で底辺の労働者に混じって働いたからそういう人たちの苦しさは身に染みて知っている、とのことでした。それが生涯『資本論』に注をつけ続けることにつながるわけです。
突然彼の経歴は早稲田の学生として現れる。早稲田に入りますが、お金はどうやったんだろう。もちろん大学は学費があるわけですし、誰かが村野藤吉をサポートしたとか、奨学金の話も聞かないんです。謎になっています。彼は初期の早稲田で勉強して、卒業後、渡辺節という人の事務所に入ります。彼が学生時代に何を考えていたか、まあ建築について、あるいはその渡辺節の事務所に入ってからも何を考えていたのかということは、大正8年に書いた有名な論文で分かります。関西の雑誌に書いたんですけども『様式の上にあれ』という、相当激しい文章です。様式というのはゴシックとかクラシックとかバロックとかロココとか、日本で言うと書院造とかお寺とか神社とか、いろいろ歴史的に成立したスタイルというものが建築にはある。どの国にもあります。それを基本に設計をするのが建築家だと思われていた時代でした。それが世界的に言うと明治の末くらい、日本だと大正期くらいから歴史的な様式を批判する運動が始まります。そうした反歴史主義を日本で最初に宣言したのが『様式の上にあれ』を書いた村野さんだったのです。東大の『分離派宣言』より1年前のことです。歴史的様式というものがどういうものかということを説明します。
建築史と村野藤吾
村野が批判した歴史主義とは
これは諏訪の重要文化財の歴史様式の代表作の〈片倉館〉です。森山松之助という村野藤吾より一世代上の方が昭和の初期に作ったもので、基本はゴシックです。垂直の動きを強調するいろいろな造形がついているのがわかります。スタイルごとに造型に特徴がありまして、これはゴシック風の造型になっている。様式は簡単に言うとルールなんです。造型のルール、定型なんです。定型基本にそれを独自にいろいろ変えながらやる、というのが歴史主義時代の設計です。純粋なゴシックではなくて、いろいろ変えております。様式があるのともう一つ、装飾がついていますね。へりとか。もう一つ、材料、材感をすごく大事にしています。これはスクラッチタイルという、自然素材を感じさせる材感です。コンクリートや鉄を使っても表面には出さない。大きなガラスも表面には出しません。もちろん使いますけども大ガラスというのは使わない。①歴史的な定型 ②装飾 ③石や煉瓦に通ずる素材。この三つが歴史主義の特徴です。
これは中です。ブロックがあって装飾がついており、端部に装飾をつけるというのが歴史主義の特徴です。端部をそのままストンと切ったり、そのまま天井につなげたり、そういうことはしません。分節を、アーティキュレーションと言いますけど、分節してそこに造型をつけるというのが歴史主義の特徴です。
村野さんは歴史主義はやらん、嫌だ、って言い、じゃあどういう建築に憧れていたかというと、当時ヨーロッパで出現していたセセッションといわれるスタイルで、卒業設計もセセッションでやっています。セセッションの実例をお見せします。
セセッションへの共感
セセッションはウィーンが中心で、〈セセッション館〉という建物です。歴史主義を若干引き継いでいるところもあって、軒にこうぴゅーっと線を通すのは歴史主義由来です。だけどゴシックとかロマネスクとかクラシックの様式は入れていない。装飾は入っています。
次はオットー・ワグナーの〈マジョリカハウス〉という、装飾をテーマにした作品です。
装飾は、歴史主義の中でも使われますが独特のところがありまして、取り付く場所を選ばないという性格があります。
これが典型ですけども、軒とかそういうとこ全部に花が咲くわけです。これはタイルで作られています。こういう装飾性、こういうものに村野さんは若い頃から憧れていた。今見ても本当に素晴らしいものです。ただ装飾的造型は本当に難しい。
丹下健三さんは村野さんのことを強く意識している人で、いろんな言葉が残っているんです。例えば村野藤吾が唐破風を連ねることを大阪でやるんですが、「村野さんだからできることで、普通の人は絶対やっちゃいかん」と、その通りです。ちゃんと訓練すればいいんだけども普通の人がやると本当にみっともないものになります。丹下さんが倉敷の庁舎のインテリアをやっているときに、どうしても気に入らないんですよね。やってもやっても気に入らない。それでついに怒り出して、「お前たち、村野藤吾を見てこい!」と言って、みんなで見に行ったけど、どう学んでいいかわからなかったって、それこそ急に学べるものでもない。
次はセセッションの代表作の、ウィーンの〈郵便貯金局〉で、素晴らしいものです。
表面の小さな出っ張りは石を留めてるんですが、これをちゃんと装飾としても使っているわけです。見事なものです。窓も、隅の収まり、微妙なことをやって、ちゃんと収めています。全体をマッスとして把握する。マッスとは塊として建築全体をとらえる、塊としてとらえますから表面に、一続きの表面ができます。サーフェイスっていいます。全体の塊と、表面は全体をずーっと連続しているわけです。歴史主義はこれをぶちぶちいろんな要素で切っていったわけです。そのサーフェイスとマッスの感覚が、歴史主義を超えたセセッションの脱歴史主義的なところなんですが、村野さんに大きな影響を与えることになります。
軒の上にちょこっと造型を付加する、村野さんもちょこっとやるんですがそれが上手なんです。変にならないんです。ちょこっとやるのは本当に難しい。大体思い付きみたいになっちゃうんですけども。この建物〔八ヶ岳美術館〕でも雨どいのところを見てください。なかなか上手なことをやっております。インテリアでは、布を使ったときに布のスタート点をどうするか、難しいんです。カーテンの下みたいになっちゃって変になる。それをなくすために二つの出っ張りをつけている。一つだと、重くなる。二つつけて、そこから布をスタートさせる。セセッションから学んでいくわけです。
これは中で、本当に素晴らしい。ガラスブロックも村野さんがずっと好んだものです。
これは階段です。村野さんも、残念ながらこの建物〔八ヶ岳美術館〕には階段はないんですが、見たら登りたくなるような階段を作る人でした。
渡辺節事務所時代(大ビル)
脱歴史主義を主張し、その主張に則ったセセッションに共感して学生時代を送り、セセッションの卒業設計をして、大阪の渡辺節の事務所に入ります。渡辺節は、歴史主義の最高レベルの人です。渡辺さんが早稲田に優秀なやつを誰か送ってくれと。それで村野藤吾が渡辺節のところへ行くんですけども、歴史主義は嫌いだと本気で思っているわけです。でも、毎日、歴史的様式をやらされるわけです。今日辞めようか明日辞めようかと思いながら毎日を過ごしていた。だけど、いやだいやだと思いながらも一生懸命働いてはいたんです。村野さんによりますと、そのうち歴史様式が面白くなったそうです。面白くなってからの作品を紹介します。
今は残ってませんけど、これはロマネスクでやった〈大ビル1号館〉です。特徴は軒先がでこぼこしてます。ここに鬼とかいろんな像が刻んである。ロマネスクは、化物とか変な動物とかいっぱいつけるのが特徴です。キリスト教が最初に作り上げたスタイルがロマネスクなんです。しかし各地方は、キリスト教以前の宗教をみんな持っているわけです。職人たちとか。やがてキリスト教に改宗はするんだけど、改宗以前に建築に使われていたいろんな妖怪とか性的な図像とかそういうものをロマネスクにはつけるんです。次のゴシックの時代になるとそういうのを洗い流して、最後に残ったのが、ゴシックの軒先で、下を見ている怪獣なんかです。ロマネスクはもっと大量についていまして、村野さんがやった中に、なんと豚がいる。このくらい〔藤森照信先生の胴体ほどの大きさ〕でかい豚の顔がある。ロマネスクでは豚は使わない。「何で豚やったんですか」って聞いたら、「かわいいでしょ」っていう返答でした。
入り口の辺りにずっと怪獣がついています。典型的な怪獣もいます。
羊をちょっと変形して、羊のような鳥のような。十二支じゃないけど、いろんな動物がついております。
〈大ビル二号館〉ではゴシックをやります。垂直性のゴシックです。
ゴシックは垂直です。村野さんはこういうことをやりながら装飾の魅力を感じるようになるわけです。
それと材感ですね。この深い材感の素晴らしさ、歴史主義建築が持っている、全部じゃないですけど、ある部分を着実に身に着けていくことになります。
そして村野は、昭和四年、渡辺節の許から独立しますが、独立後のやや特異な歩みを理解するためには、世界の脱歴史主義の流れがどう収束したかについて知っておく必要があります。
脱歴史主義からモダニズムへ:日本のモダニズム建築
脱歴史主義の動きは、19世紀のアール・ヌーヴォーに始まり、若き村野が魅せられたセセッションにいたり、さらにドイツとオランダの表現派を経て、1919年のバウハウスにいたって完了し、バウハウスによって20世紀のモダニズムが確立し、今にいたります。
村野を追い抜くようにして確立したモダニズムの日本での実作を紹介します。
これは山口文象の〈黒部川第二発電所の小屋平ダム〉です。まず白い。それから大ガラス。白いタイルを貼るのは日本のモダニズムだけが好んだやり方で、世界的には極く稀です。ヨーロッパでは白いモルタルを塗りますね。
中は、横長連続窓といって、村野さんはこういう窓は嫌、「俺はやらん」と言って窓は必ず縦に空ける。八ヶ岳美術館内を見るとわかりますけど全部縦です。縦に空けるというのは村野さんの特徴。横長連続窓というのがモダニズムの基本です。
これは日本のモダニズムの代表作で、山田守の設計の〈逓信病院〉です。当時、世界のトップレベルでした。これだけのモダニズム建築を作る人は、ヨーロッパのドイツのグループ、フランスのグループ、そして日本に少数いました。その少数の中でも、日本のモダニズムはトップ集団に入っていまして、ニューヨークで大きなモダニズムの展覧会が開かれたときに、山田守は招かれて、出品しております。横長連続窓と白タイルを貼っています。これが昭和初期の日本の、世界でもトップレベルのモダニズムですけども、学生時代の丹下健三さんが何て言ったかというと「衛生陶器」と言った。便器みたいだと。「俺は絶対こんなことはしない」。丹下さんは白いタイルを貼るっていうことは絶対にやらない。彼は必ず打ち放したコンクリートでいくわけです。戦前の世界でも稀に見るレベルのものが日本では作られていたわけです。
次は〈土浦亀城邸〉です。
やはり白い箱に大ガラス。これが戦前のいわゆるモダンなグループのやっていたことなんです。
これが中でやはりこれはなかなか素晴らしい。
次はレーモンドという人の〈川崎邸〉という作品です。
レーモンドは世界で2番目に打ち放しをやった方です。フランスのペレがやりましてそれを参考にしてレーモンドはやります。あと5,6年遅れてコルビュジエがやる。レーモンドはここで、ペレもやらなかった湾曲を試みている。壊される前に実物を私は見てますけど、なかなか素晴らしい湾曲でした。
次は前川國男のモダニズムで、前川ファンには申し訳ないんだけど何か、冴えないんですよね。コルビュジエは白のモルタルを塗っていたんです。前川さんもモルタルを塗って、途中からコルビュジエは打ち放しに変わる。
横長連続窓で、中は素晴らしい。
戦前ブルーノ・タウトが日本へ来て、青森の田舎を歩いていたらひょっこり、コルビュジエのような建物が出てきてびっくりしたという話があります。
以上見てもらって分かるように、脱歴史主義の流れは、30年して1926年〈バウハウス校舎〉をシンボルとして、白い箱に大ガラスのモダニズムに到達しました。セセッション段階で脱歴史主義の流れに加わろうとしたが叶わず、歴史主義に日々を送っていた村野を、置き去りにして流れはモダニズムに到達してしまった。脱歴史主義を村野に一年遅れて宣告した東大の分離派建築会は、同じセセッションからスタートしながら、バウハウスを訪れ、速やかにモダニズムに転身し始めました。やがて山田守や山口文象や土浦亀城といった傑作を世に問うに違いないでしょう。
置き去りにされた村野さんは悔しかったと思います。昭和4年の独立後、もしかしたら自分も加わったかもしれないモダニズムが日々強まる日本の建築会で、どう生きてゆけばいいのか。とりわけ、日本と世界の建築界の大勢となるに違いないモダニズムに対し(日本では昭和10年を境に大勢になりますが、世界では第二次世界大戦後になります)、どう対処すればいいのか。村野さんは、決定的に重要なことは必ず言語化し、昭和8年(1931年)、モダニズムに対し、次のように啖呵を切っています。
「ちゃ!馬鹿にしてらあ。あの薄っぺらな銀行に大切な金が預けられるけぇ!」
村野藤吾の代表作集
北国銀行武蔵ヶ辻支店
独立後の作品をいくつか紹介します
まず〈北国銀行武蔵ヶ辻支店〉です。これを見ると、ゴシックをもとにしたドイツ表現派風だということがわかります。本当のゴシックとはだいぶ違うということがわかりますよね。ちょっと様式を感じるけども全体のマッスとかサーフェイスというのは、モダニズム起源です。
窓周りの納まりのポイントはちょっと下げていることです。歴史主義は出すが、村野さんは下げる。すると、窓の縁に細くシャープな影がつくんです。こういう処理がちゃんとできる人でした。
この壁を初めて見たとき、ただの壁だなと思っていたんですが、長く見ているとなんか変なんです。目地が変。わからないと思いますけど、影が強いんですよ。なんと、目地が斜めに切ってある。びっくりしましてね。
その前に、村野さんがタイルを独特の使い方をするなと思ったのは、独立後すぐにやった〈大丸舎監の家〉が神戸にあった。私はそれを見ている。タイルが貼ってあるんだけど、下駄っていうタイルの裏の出っ張りの方が表に見えている。会社のマークも見える。村野さんに聞いたら、届いたタイルを見たら裏側の方がよかったから、裏を貼ったって言う。そんな人、世界にいません(笑)。
この目地も村野さんに聞いたんです。「ああいう風にした〔斜めに切る〕方が影が濃くなるから」って言う。そこまでちゃんと細かくディテールを考える。タイルの寸法も普通ではないんですが、全体は普通のタイルに比べればモダンなんです。横長の、横に流れる力があって、縦のゴシックのアーチとちょうど交差するように考えていたわけです。こういうところに村野さんが、普通のモダニズムとも違うやり方を始めていたということがわかります。
宇部市渡辺翁記念館
戦前の代表作をお見せします。
雪が降っている時の写真です。〈渡辺翁記念館〉という、宇部セメントの創業者を記念した市民会館ですけども、写真のへりのさらに横に柱が4本立っているんです。これは意外かもしれませんが、ル・コルビュジエの〈ソビエトパレス〉という計画案を下敷きにして、村野さんが作ったものです。プランを見るとわかります。〈ソビエトパレス〉のプランを下敷きにしていると。この仕上げはドイツ表現派から学んだやり方で、村野さんだけの独特のやり方をしています。
これが当時の仕上げです。今この建物に行きますと、修理されて、今の高度な機械で焼いたタイルを使いますから、窯変が出ないんです。修理前は窯変が出ていて微妙に違う。タイルの味わいが素晴らしかった。なんかこうちょっと虹色みたいな、少しずつ微妙に変わる。村野さんはこういう微妙なタイルのテクスチャーを何で学んでいたかというと、意外に帯なんです。帯地。村野さんは昼休みに時間が空くと、そごうデパートに行って、一番新しい帯を出させて、触りながらいいなあいいなあって言っていた。修理前は、絹の帯地の輝きが、出ていたんです。同じような焼き方ができなくて、積み方だけは再現していますけど、ちょっと残念です。
ウィーンのセセッションで紹介したけど彼はずっとガラスブロックが好きで、やっております。透明なガラスに存在感をもたらすということですね。
これ天井ですが当時の村野さんはナチスドイツに惹かれていました。ナチスドイツは、今と違ったように当時はとらえられていて、貧しい労働者を救う、国家社会主義を唱えていました。国家が中心になって社会主義をやっていくという。貧しい人たちの生活水準を上げるということもヒトラーはやったんです。一番有名なのはフォルクスワーゲンで、普通の市民でも車に乗れるようにということで、ヒトラーが命じて作らせるわけですけども。住宅も、国民住宅というのを作らせています。貧しい人たちのことをちゃんと考えるということをヒトラーは口では結構言ったんです。それの影響を村野さんは受けて、ナチスへの共感を示していた。自分が貧しい底辺の労働者の生活を経たということが、こういうところにつながったのではないかと思います。底辺の問題で言うと村野さんは最晩年まで、大阪のミナミの地区の難波って言われているところの都市計画を、誰に頼まれたわけでもないのにやり続けていました。自分の事務所もそういうところにありました。ずっと『資本論』の注釈をし続け、実現する当てもないまま、大阪の貧しい人たちの住宅をどうするかということを考え続けていたわけです。そういう村野さんと、芸術的な才能を発揮し、有名企業の本社や大邸宅を手がける村野さんとがどういう関係になっていたかはわからないところがあります。
和風建築(佳水園、松寿荘)
歴史主義の対象はもうロマネスクでもなんでもやる。もちろん和風もやるわけです。彼が歴史的な日本の様式で主に取り組んだものは数寄屋建築です。数寄屋にモダニズムの要素を入れて作ってみせる。代表作の佳水園は素晴らしいものです。京都の都ホテルが持っていたんですが確かどこかに買われちゃったんじゃないかな。ちょっと残念になってますけどでも当時のままに残ってます。まず、雨どいがないってわかりますかね。雨どいが村野さんは嫌だった。雨どいが嫌だと言ったって雨は降ってくるわけで。この薄い軒先の内側に雨どいが隠してある。こんなに薄い軒って相当無理を、ぎりぎりまでどこまで無理ができるか、何度も何度も実験をして実現をしているわけです。こういうさらっとした緑とか見事なものです。
次は、もうなくなっちゃった〈出光邸〉です。
出光興産の出光さんですが、ほとんど誰も見ないうちに壊されました。和風としては見事なものでした。一度見せていただきました。
布を壁の仕上げとして使ってました。布を壁に貼ることはあるんですが、これは袋張りしてあって、ペタンとしていないんです、ふわーっとした、だから最初見たとき、なんなんだろうという。近づくと、布がふわーっと袋張り、ふすまがそうですよね、ふすまってのは紙なんだけど何かこう、触るとふわーっとしていますけどああいう袋張りを、ものすごい技術でやってました。
こういう障子の割り方なんて本当に繊細。こういう微妙な分割は村野さん以外はやらない方がいい、村野さんにかなわない(笑)。
これはわりあい普通の感じがしました。
八ヶ岳美術館にも通底する「泥の建築」
サンフランシスコ・デ・アシス教会
村野さんは和風もやります。戦前はロマネスクもゴシックもやりました。わりと晩年に取り組んだのが泥の建築です。〈八ヶ岳美術館〉も実は泥の建築の一つなんです。泥の建築を手がけるにあたり、これはご子息から聞いたんですが、村野さんはアメリカに行った。「泥の建築を見に行く」って。どこに行ったかわからない。ご子息曰く「父が海外に行くときには早稲田の建築学科に電話して、『だれか卒業生で案内してくれる人いないか』って聞くと世界中に早稲田の出身者がいるので、じゃあ何々さんに連絡するかって言って」。メキシコ近くに、アメリカのサンタフェがあるんですが、サンタフェの隣のタオスの町に素晴らしい建築があるのでそれを見に行った。これがその泥の建築、〈サンフランシスコ・デ・アシス教会〉です。
雨が降らないわけじゃないのでたまに降った雨で土が湿り下部が膨れてくるんです。その度に外から泥を押し当てていって、こういう変なものができるんです。
谷村美術館
次は村野さんの、〈谷村美術館〉という、〈八ヶ岳美術館〉よりちょっと後にやった泥の建築です。
谷村美術館の背の部分の変な膨らみはアシス教会で見た泥の背中で、ここが一番面白いと思ったんでしょう。
地面から柱の立ち上りの造形。こういうことはなかなかできることじゃない。
インテリアはぬるぬるした、目地のない、目地がないっていうのが泥の建築の特徴です。目地っていうのは、違う材料がぶつかるときにそれを処理するために線をつけたり何か材料を挟んだりする。
泥のなかに――本当に村野さんがやりたかったとこだと思います――どこにも線が入ってない。
八ヶ岳美術館
最後にこの〈八ヶ岳美術館〉を取り上げます。特徴となるぽこぽこした屋根がありますが、イメージのもとになったのは、アフリカなどに泥の建築がありますが、大体屋根はこうぽっこりぽっこりするんです。もっとこの建物に近いような低いぽっこりぽっこりもあります。それと布を使うこと。袋張りをやりましたし、布地のテクスチャ、特にあの絹の織物テクスチャというのに大変心惹かれていて、何か布の持っている柔らかさと、しかしどこかピンとした感じ、その感じをおそらくやりたかった。ここは泥と、布の造型だと思います。
外観はコンクリートにブロックを貼ってます。ブロックの使用は若い頃からの関心の一つです。
おわりに
世界の20世紀の建築家の中で、モダニズムの一歩前の、言ってしまえば歴史主義とモダニズムの中間的なことをやったってのは、世界で村野さんだけでした。世界でもう二人、ドイツにいますが、村野ほど確信犯ではないし、中間性が明確ではない。歴史主義とモダニズムを、その対立をどう自分の中で解いていくかということについて、実は何も書いていない。しかし、一度だけ喋っている。赤坂離宮の修理をしたあとに、関野克という、私のお爺さんにあたる歴史家の先生が村野さんに聞くんですよね。歴史主義とモダニズムをどういう風に使い分けているんだと。村野さんが見事に答えるんです。「遠目はモダニズム、近目は歴史主義」。遠目というのは全体の形です。マッスやサーフェイスはモダニズムで行く。だけど近づいてみると、歴史主義から学んだものがいろいろある。
以上のように見事に書き、語り、そして作った建築家でした。