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仏教の【利他】と【慈愛】
プロフィールにも書いていますが
わたしは無宗教。
神仏は信じず、宗教者を哲学者だと思っています。
優れた教えは取り入れています。
さて、仏教には『利他』という教えがあります。
【自分の利益ばかり追うのではなく
他の人が得するにはどうしたらいいか】という考え方です。
わたしたちはひとりひとりが個々に存在していると思いがちですが、実際には皆どこかで繋がっていて互いに依存し合い、影響しあって生きています。
そこで最も気を付けなければならないことは
『思いやる気持ちを送る相手を限定してしまう事』です。
肉親や恋人、友達。
このような関係の人たちに思いやりを送り大切にすることは尊い行為に感じられますが、そこには「愛着」が生まれます。
愛着にはもちろんいい意味も含まれていますが対象を離したくないとか失いたくないという
「執着」も生まれてしまいます。
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「執着」は煩悩の一つです。
相手の為を思っているように見えますが、実は自分のために行動してしまってることなのです。
自分を守りたいとか評価してもらいたいという欲が見えますよね?
そして、承認欲求も、そのひとつですよね。
誰もがそれを持ち合わせ、しかしそれを軽くすることが必要ですよね。
無くなりは、しないから。
優先順位が他の人ではなく自分になってしまっていると、他の人に過剰に期待するようになってしまうのです。
これでは本当のしあわせにはなれませんよね。
執着は心に住み続け心の平穏を妨害し続けます。
それを防ぐのは【テイカー(自分の利益を優先させる人)】にならず
【ギバー(惜しみなく与える人)】になるのです。
自分の見返りなど全く期待せず、ただ純粋に人の為になる事の行動。これは【慈愛】ですね。
【慈愛】と言えばマザー・テレサがそうでした。尊敬してます。
逆に見返りを求めて行動する人の周りには、その行動を利用しようとする人たちが集まります。
新興宗教も『他者に優しくすれば、自分に徳が返ってくる』など。
これは
慈愛では、ありませんね。
さて、わたしたちはどうでしょうか?自分を振り返ってみましょう。
わたしもそうしています。
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拙い徒然を読んでくださり、ありがとうございます。
画像はお借りしています。