『海と山椒魚』

バルコニーの排水口に、蛾の死骸が横たわっていた。それは見覚えのある骸だった。昨晩、不意に室に入ってきて難儀して格闘した蛾だった。五センチ程の、それなりに存在感のある大きさで、夜の水遣りで網戸を開けた際に入って来て、その大きさなりの羽音と派手な動きで室を飛び回った。掃除機で吸入してしまおうかとも考えたが可哀想だと思い、トイレットペーパーを恐れの分量だけ大仰に厚く重ねたものを手に取り、包み取って戸外へ離すことに決めたものの、暴れて何度も逃げられる。その度に、落ち着くまで、傍に佇んで待つ。その大きさと動きに大いに翻弄されながら、何度目かで遂に上から押さえることに成功し、そこからゆっくりと全体を適切に緩く掴もうとする———と、恐怖と緊張によって強張った手は誤り、結果的に片翅のみを摘んだ形になってしまった。残されたもう一方の翅を使って、薄紙越しの指先で全霊を賭してもがいているその音、感触全てで硬直してしまい、わずかな逡巡ののち、小走りで網戸へ向かい、空いた左手で開けたと同時にちり紙ごと外に投げ放った。我ながら粗暴な感覚はあった。すぐに夜闇に紛れて見えなくなったが、敢えて確認もしなかった。それが一晩を経って、砕心虚しくこうして骸を横たえている。
噛み付くわけではない。鋭利な針も無い。その鱗粉には毒があった可能性も万に一つはあったやもしれぬが、元より素手で触る積はない。であれば、あれほど忌避する謂れは微塵も無い。その恐怖の正体が無意味である事に自覚的であるが故、自らの行為の現実態へのにえとして立ち顕れた死骸に、その艶を失った真っ黒な複眼に何百、何千と映る、図々しくも悼ましい顔をして覗き込んでいる自分の醜い姿に射すくめられた様に動きが止まる。何ら身銭を切ることもなく、安らかであれやと祈りを送りながら。
虫と我。
何の意味もなく殺された者と、それを自覚する殺した者。蛾にどれほどのとががあったいうのだろう。そして再び無意味な恐れの為に、見て見ぬ様に、そのままに捨ておいた。

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