人間失格
機会があり、太宰治「人間失格」(以下「本書」という)を初めて読んだのでその感想を書いていきたい。
読後感としては「複雑」という一言に尽きる。
抑々、この話は太宰治の自叙伝的位置付けなのだろうか。というのも、行きずりの女と入水自殺を図る場面は、どうにも太宰本人の最期と重なって仕方がない。玉川上水での入水自殺が本書脱稿の一ヶ月後だったようなので尚更そのように見えてしまう。
上述のとおり本書を「複雑」と評したのは、主人公たる大庭葉蔵の内面(人間性とでもいうべきか)に対して同情や同族嫌悪めいた情を抱いて、それらが綯交ぜになったからである。
彼の「行動」という思考の発露だけを見れば、クズやダメ人間といった評価もできよう。学校を辞め、父親の脛を齧り、齧る脛がなくなれば質通いを始める始末で、また特に思想に染まっている風でもないのに社会運動(共産主義系の地下活動)に身を投じたり、上述のとおりカフェの女給と入水自殺を図ったことで、自殺幇助の科で逮捕されたりと、枚挙に暇がない。
ただ、私は彼の行動よりもその後ろにあるであろう背景や心情に関心を寄せた。
個人差はあれども、現代社会の片隅に生きる私には、それらが「歪み」に見えたのである。
その「歪み」はどこから生じたのであろうか。やはり彼の幼少期にあるのではないか。幼い頃から家族をはじめとした周囲の人に対して違和感を抱いていたこと、女中や下男から「哀しい事」を教わらざるを得なかったことに端を発しているのであろう。
当初こそ、周囲に対して抱いていた違和感や他者の醜悪さへの姑息療法として「道化」を演じていたわけだが、いつしかそれが自身の本性と溶け合って境界が曖昧になる。故に生き苦しさを抱えてしまったのであろうと思う。
しかし、姑息療法は飽くまでも姑息療法であり、それをどこまで延長しても事の本質に手が届くことはない。それが本書においては、「代償行為」として彼の行動に表れていたと見ている。
社会運動に身を置こうが、女に流されようが、酒や薬物に頼ろうが、彼の本願が満たされることはない。ただ、それが生き苦しさに対する彼なりの足掻き踠きであったのだろうと思わなくもない。
展望が見込めず、前途に何等の希望を見出だせずという状況であれば、安易な緩和策であることを理解しながら、私も代償行為という現実逃避を以って絶望との手打ちとし、楽になりたいと考えてしまう。故に「同情」する。
一方で、私の現状も似たようなものであり、その人間性故に自らの人生に手詰まりを起こし、打開策を欲しているわけだが、ともすれば私も彼のように代償行為に走りかねない、いや既に代償行為の只中なのやもしれない。紙一重の世界を行ったり来たり、理解できないわけもなく、恰も自身を見ているようで、それが「同族嫌悪」という情に繋がったのであろう。
だからこそ自戒の念を込めて言いたい。
代償行為の先にあるのは、ただ只管に満たされず渇きに苦しむ自身と、終わることのない妥協の連続である。
自己満足すらできない人生は、果たしてそれでも人生と呼べるのだろうか。
誰もが生まれながらにして「歪み」を抱えているわけではない。人間関係において生じる居心地の悪い環境、いじめや暴力といった外的要因によって歪むのである。甚だ理不尽である。生き苦しさを押し付けておきながら、それを克服するのは「各自で頑張れ」というわけで、これが理不尽の正体だと思っている。
ただ、これもまた現実であるため、綺麗事やもしれないが、せめて人事を尽くして人生という舞台を去りたいものである。妥協は妥協でも自己満足を追求した結果としての妥協を胸に抱いて自身に別れを告げたい。
とまぁ、本書を読んで然様な雑感を抱いた。
彼は本書において精神病棟に入ることになり初めて自身のことを「人間失格」と評した。時代背景もあってのことであろうが、翻せばこれまでの堕落した人生にあっても未だ彼は「人間」の範疇に自身が収まっていると判じているように読めた。
「堕落も人間の本質である」と。
今の私は未だ「人間」であろうか。