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郷愁とはとるに足らない記憶のかけらの蓄積である

『アメリカの鱒釣り』について何か気のきいたことを書くというのは苦労がつきまとう。その行為はたいてい徒労に終わる。それは、雨の月曜の朝、ズル休みしたカフェの窓からウインドウ越しに人々の様子を眺めながら、ただ、ひたすらぼーつとする行為に似ている。どこまでも非生産的といえる。
読書感想文としてもっともふさわしくない一冊だと断言しょう。夏休み明け、教授に言われることだろう。「難しい題材をあえて選んだことは認めるが、君のこの見解はまるで空虚だ」と。

かって、ある知人に、この本を何度も読み返して表紙がぼろぼろになって、いつのまにそれはなくなり、どこに行くのも手放さず、読み終わるとこれを枕がわりに使うほどのやつがいた。
ぼくは聞いたものだ。「それのどこがそんなに面白いんだ」
その知人は、こう答えた。
「いや、何の気なしに面白い。いや、オレのほうこそ、これのどこが面白いか教えてほしい」
これは半世紀前の本当の話だ。いや、今も私はこの知人と同じことを思う。
これのどこが面白いのか誰か教えてほしいと。

これのいちばんイケない書評は、ここに収められている不可思議な行き場のない作品群を歴史分析、アメリカ文化などをまじえ、冷静に客観的に語る。説明することだろう。なぜなら、それをすればするほどこの作品群から離れていくような気がする。地区開発、整備、カウンター奥の古いボトルの瓶を空けた途端その大事な気体が蒸発するように。

それを説明するために、ひとつだけその愚行をあえておかすと。
このなかに、『ポルトワインの鱒死』という作品があるのだが。
引用すると、鱒がポルトワインを呑んで命を落とすのは、自然の秩序に反していると、はじまる・・・。

鱒が汚染によって殺されたり、人糞溢れる川で窒息死する、それだって、かまわない。老衰で死ぬ鱒もいるし、(中略)これらはすべて、自然の死の秩序に従っている。しかし、鱒がポルトワインを呑んだために死ぬとなると、これはちと話が違う。

1496年版『聖オルバンズの書』にも、書かれていない。そのようなことは、H・C・カットクリフの著、1910年版『チョーク川の附副次的戦術』にも見当たらない。ビアトリス・クック著、1955年版『真実は魚釣りより奇なり』にもない。リチャード・フランク著、1694年版『北国回想』にもない。W・C・プライム著、1873版『我は釣人』にもない。ジム・クイック著、1957年版『鱒釣りと毛鈳』にもない。ジョン・タヴァーナ著、1600年版『魚と果実に関する実験』にもない。ロデリック・L・ヘイグ=ブラウン著、1946年版『川は眠らぬ』にもない。ビアトリス・クック著、1949年版『魚が我らを分かつまで』にもない。E・W・ハーディング著、1931年版『毛鈳釣りと鱒の立場』にもない。チャールズ・キングススレイ著、1859年版『チョーク川研究』にもない。ロバート・トレイバー著、1960年版『鱒狂い』もない。

『アメリカの鱒釣り』(ポルトワインの鱒死)リチャード・ブローティガン 藤本和子訳

そして、この後、10冊、このような歴代の本タイトルがあげられ、そのどこを探しても、ポルトワインを呑んで死んだ鱒のことは書かれていない、見当たらない。と、続くのだ・・・。

私は、ただただ、これら偏狂的ともいえる執着で集められた、ブローティガンによって読まれたであろう鱒釣りに関しての本書、それが、『アメリカの鱒釣り』を語るうえで、どれほど重要な意味があるのかと思う。
ちなみに私は、それを充分に知り尽くしたうえで、ここの掲げられた本書タイトルを日本語文であるがネットで検索してみたのだ。すると、どうあろうか気持ちよくすべてはじかれたのである。もちろん、英文ではないのが、(藤本和子さんによるあとがきによると、これらあげられた書物はブローティガンによると実在するものらしい)少なくとも、これら本書はここ日本では認知されていないということになる。これこそは、実に、大いなる徒労である。

さて、ポルトワインを呑んで死んだ鱒の話のオチなのだが。
「おい、てめえ、ろくでしなし」とやつは言った。「塩とってくれ」
そんな粗暴な男、死刑執行人たる男、と、語り部であるブローティガンは鱒の釣り場に向かうのだ。そして、その男は横腹に大きな虹の縞をつけている見事な鱒を釣り上げる。そして、言うのだ。

「殺す前に、まず死に接近する苦痛を柔らげてやろうじゃないか。こいつは一杯やりたがってるからな」
やつポケットからポルトワインの瓶をとり出すと、栓をはずして鱒の口の中になみなみと注いだ。
鱒は痙攣をおこした。
地震にあった望遠鏡さながら、鱒のからだがはげしく震えた。人間なみの歯を生やしているのかと思うほど、歯をガチガチと鳴らした。
やつは、白い岩に、頭を低くして鱒を横たえた。すると、わずかなワインがその口からちょろちょろと流れ出て、岩肌にしみをつけた。
鱒はもう、じっと動かない。
「しあわせに死んだなあ」とやつがいった。
「これこそ無名のアル中に捧げるおれの詩だ。ほら、見ろよ!」

『アメリカの鱒釣り』(ポルトワインの鱒死)リチャード・ブローティガン 藤本和子訳

この悪趣味の極みともいうべき、これを通勤電車で読んでいる貴方は、きっと、引いていることだろう。
もう一度、繰り返すが、これのどこが面白いのか誰か教えてほしい。(笑)

だが、その前に、実に私はこのようなシーンにかって何度か遭遇している。いや、まったく同じようなことを経験しているのだ。
ちなみに、釣った魚に、酒を呑ます。これで、検索してみた。すると、どうだろう、こんな記事を見つけることができたのだ。

富山県砺波市の伝統行事で厄年を迎えた25,42才の男性が厄払いとして、鯉にお神酒を呑ませて川に放流するという記事。
神前に供えられた鯉が長時間の神事後も生きていたため、その生命力にあやかって放流したのがその起源とされ、1816年から200年以上続く伝統行事であるという。

つまり、1910年の米で、H・C・カットクリフなる人物が『チョーク川の附副次的戦術』を著す100年前に、日本ではそんな行事が行われていたことになる。それを、ブローティガンさんは知っていたのだろうか。それとも、鱒釣りには興味があっても、鯉釣りには無関心だったのだろうか。
いや、どこそこ大学の教授に言われるに違いない「君のこの見解はまるで空虚だ」と。

いや、これではない。これとは本来の意味、レベルが違う。
酒を呑みながら釣りをする粗暴な男、そんな人間たちを私は幾度ともなく見てきた。そして、そう。そんな男たちは、釣ったその魚の口に自分が呑んでいる酒を笑いながら流し込むのだ。そう、良かれと思ってだ。
もちろん、魚は人に比べてアルコールを分散する能力はなく死にいたる。
それは鱒でも鯉でも変わらない。

自身の心の故郷、郷愁のようなもの”アメリカ鱒”に対し、ある種、面白半分に虐待を加える粗暴な輩、それに対する怒りは、なぜか、ポルトワインを呑んで死んだ鱒に対する事実、それが稀有な事例であることを歴史的文献をあげることに変化するのだ。それが、怒り、抗議といったものから羅列すればするほど遠のいていく。もはや、ブラックユーモアを通り越して不毛である。

このようにこの作品は、市井の人間に対し、憤り、怒り、同情などとは完全に無縁である。むしろ、同化している。が、もがきもしない。ある種、アメリカの鱒釣り、そのなんたるが静かなる川のごとく流れるような諦観に満ちている。
人は幻想的な想いを求めるとき、そこには、何かの諦めがあるのではないだろうか。ここではない、何処か・・・。

なにか、人がぼーつとする時、それには郷愁のようなものが付きまとっていないだろうか。過去にあった、しょうもないチンケな出来事、そう、幼少の頃、釣った魚の口に自分が呑んでいるカップ酒を笑いながら流し込む男の姿を・・・。とくに思い出深いわけでもない光景が。そうしたものがなぜか、過去の記憶に絡み合い、自身の奥底、郷愁の一部となって形作っている。むしろ、穏やかな記憶というものはそうしたものの蓄積で成り立ってはいまいか。我々は消去できるデータの世界で生きている。それが当たり前だ。だが、それはどうやっても脳の海馬から消し去ることはできないのだ。

そして、やがて、その自身の郷愁は、その魚釣りの無頼の輩の行動を許すことになる。ある意味、可笑しみをこめた形として。

”雨の月曜の朝、ズル休みしたカフェの窓からウインドウ越しに人々の様子を眺めながら、ただ、ひたすらぼーつとする行為に似ている。”
きっと、ウインドウ越しの人々の様子とは別に、その脳内に映るであろう、記憶とは、過去にあった、しょうもないチンケな出来事なのだ。
だが、それに、しばし、人は酔いしれる。時を忘れて・・・。

『聖オルバンズの書』『チョーク川の附副次的戦術』『真実は魚釣りより奇なり』『北国回想』『我は釣人』『鱒釣りと毛鈳』『魚と果実に関する実験』『川は眠らぬ』『魚が我らを分かつまで』『毛鈳釣りと鱒の立場』『チョーク川研究』『鱒狂い』・・・。嗚呼、ここに挙げられた書物、そのタイトルのなんと魅力的なことよ。

「いや、何の気なしに面白い。いや、オレのほうこそ、これのどこが面白いか教えてほしい」この見解は見事正しい。
そして、ズル休みしたカフェで、ただ、ひたすらぼーつとする行為を愛するぼくや貴方の為にこの小説はある。

『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン 藤本和子訳

古書ベリッシマ (stores.jp)

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