見出し画像

ジャズに魅せられし青年たちの成長物語、古今東西、これは単なる偶然か

歴史は繰り返すというが、ジャズと純粋な青年という巡り合わせの歴史もまたしかり。

「ジャズ・カントリー」ナット・ヘントフ(米1964年)

主人公のトムはまだ16の高校生だが、ジャズに憧れトランペットがそこそこ吹けるようになった。彼は黒人のジャズ、ブルースを体現し、自分に足りないものは何かと、人種差別が色濃く残る時代の黒人コミュニティへと飛び込んでいく。

ナット・ヘントフは1952年頃からジャズ雑誌「ダウン・ビート」に評論を書いていたジャズ・ライター。この「ジャズ・カントリー」は苦労知らずジャズに憧れる白人のお坊ちゃんを主人公にすることで、白人青年が当時の黒人社会を体現するという重いテーマを、軽やかさ爽やかさをもった青年小説に変えていく。

ちなみにアメリカで人種差別撤廃を掲げた「公民権法」が米で成立されたのは本書が出版される前年のこと。それだけ、この時代はアメリカが人種問題で大きく揺れていたということ。

「青年は荒野をめざす」五木寛之(1967年)

こちらも、同じジャズに憧れる二十歳の青年ジュン(北淳一郎)がバックひとつにトランペットを携えて、自分に足りないものとは、ジャズとは、ナホトカ航路、モスクワ、北欧、パリへと自分発見の旅へと出る。青春ロード・ノベルティでもある。


「青年は荒野をめざす」雑誌「平凡パンチ」に連載開始が1967年3月~10月にかけてのこと。「ジャズ・カントリー」が木島始の訳によって晶文社から発刊されたのが1969年。よって、日本語版ということであれば「青年は荒野をめざす」のほうが先になる。
もし、五木寛之氏が「ジャズ・カントリー」にインスパイアされたとしても五木氏は米の原書を読んでいたということになる。

当時、この小説は日本の若者たちの間で話題を生む。ジャズファンだけではなく、海外の地を踏みたいと願うバックパッカーたちを巻き込んで大ヒットとなる。売り上げの細かい数字はちと見あらたらなかったが、ちなみに、本書が出版が昭和42年12月15日(1967年)私の手元にある本書は、昭和45年5月30日(1970年)23刷である。ということは、約3年間にわたって売れ続けたということである。これは間違いなく当時のベストセラー本だったのだ。

「BLUE GIANTE」石塚真一(2013~2016年ビックコミック連載)

これは、私なんかがあえて説明するようなものではないだろう。皆さんのほうがご存じだからあえて解説しない。今年2023年になって、なんと映画化される。つまり、うたい文句の”音が聴こえてくるようなジャズ・コミック”に実際、音がついてしまったわけだが、映画化にあたり、きっと、作者の胸にも様々な思いが駆け巡ったのではないだろうか。

こうして、三作品をざっと紹介したわけだが、これらの小説、コミックが、ジャズと青年という共通点ばかりではなく、影響か、偶然か、いくつかの符号を持っていることに気づく。

まず、三作品とも青年に共通するのが、どの主人公も純粋無垢な青年である。裕福な暮らしとはいえるものではないが、今だ、世の汚らわしきものを見ていない、経験していない。ある意味、苦労知らず、ある意味、真っ新なノートそのものである。そして、その性格が、その性格だからこその、物語上に重要な要素をもたらすことになる。

「ジャズ・カントリー」のトムのその性格だからこそ、当時の黒人コミュニティにすんなりと入っていけた、受けいられた。「青年は荒野をめざす」のジュンは純粋な性格ゆえに旅の行き先々ですれ違う人々との間に、驚き、共感、時に軋轢を生む、その成長物語である。「BLUE GIANTE」の宮本大の純粋無垢な性格は、一度決めたら突き進む、そのそれは、日本の少年漫画の歴史、主人公の性格その王道ともいえるものだろう。

ここで私は思ったりする。もしかしたらジャズを好きになるという素質、資質には、実にこの純粋無垢な性格が求められるのではないだろうかと。

そもそも、19世紀から20世紀にかけてアフリカ系コミュニティで生まれ、西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせによって発展した音楽。まず、これを体系的に頭、理論で理解することは難しいような気がする。どんなに雄弁な言葉、説明でそれを語ろうとしても、語れば語るほど、その本質から離れていくような気がする。
マイルス・デイヴィスのトランペットがカッコいい。ビル・エヴァンスの耽美的なピアノがたまらない。だが、実際には、それらは言葉、理論では決して説明できないものであるはずだ。つまり、そこにある決定的な何か、サムシングについては、その決定的な結論というものは存在しないということになる。それが、例え、どんなに著名な音楽教授や社会学者の理論であったとしてもだ。そう、ジャズには答えがないのだ。

「ジャズ・カントリー」のナット・ヘントフがジャズ評論を書くにあたって多くに人種の壁を感じていたことは想像を難しくない。白人のオマエに何が分かるという。彼自身が大きなジレンマを抱えていたとしても。だからこそ、彼は、純粋無垢な白人青年トムを黒人コミュニティのなかに飛び込ませたのだ。自身の代わりとして。
そして、もしかしたら、「BLUE GIANTE」の作者、石塚真一氏は、理論、知識が先行するこのジャズという音楽、世界に、いっそのこと、ただただジャズが好きな純粋な若者を飛び込ませてみようと思ったのが、この人気コミックの着想のはじまりではなかったか。

答えのない音楽、答えのない世界、それを理解するのはどうするか、それは、身をもって体験するしかないだろう。そう、「ジャズ・カントリー」トムや、「青年は荒野をめざす」のジュンや、「BLUE GIANTE」の大のように。
そして、ジャズの聴き方とは、純粋無垢になってただ聴き続けるだけなのか知れない。無心になって聴き続けた結果、それぞれが、ふと感じた、何か、思い、複雑なニュアンスそれが答えだというしかない。そして、それに答えあわせはない。そもそもが正解などないのだから。

私は、ウザがられるかも知れないがジャズ・コミック「BLUE GIANTE」でジャズを好きになった、好きになろうとしている方々を好ましく思う。リスペクトしたい。彼らもまたこれら作品の主人公のように入学時の真っ白いノートを携えたリスナーたちだからだ。

最後にもうひとつの符号、共通点、ひとつ。
「青年は荒野をめざす」ジャズ・トランぺッターは目指すジュンはナホトカ航路をえてモスクワへ向かう。
1974年、日本を代表するジャズ・トリオ、山下洋輔トリオもまたの弾丸ツアーでソビエトを経由してドイツの音楽祭へと向かった。
そういえば「BLUE GIANTE SUPREME」宮本大が単身乗り込んだのもドイツだった。
その初代、山下洋輔トリオのメンバー編成が、中村誠一・テナー・サックス、山下洋輔・ピアノ、森山威男・ドラムというベース・レス・トリオ。ジャズとしては、かなりめずらしい特異な編成。
だが、なんと、その編成は「BLUE GIANTE」東京編の宮本大・テナー・サックス、沢辺雪祈・ピアノ、玉田俊二・ドラムという”JASS”と同じ編成なのだ。これは、単なる偶然か。

歴史は繰り返すというが、ジャスと純粋な青年という巡り合わせの歴史もまたしかり。
「ジャズ・カントリー」「青年は荒野をめざす」の約50年後に、新たな青年たちがジャズとめぐり逢い、それもまた人気、ヒット作となる。これもまた、単なる偶然だろうか・・・。

古書ベリッシマ (stores.jp)

いいなと思ったら応援しよう!