四ツ谷駅をまっすぐ東へ。戦前に文化人が住んだ町、番町
東京都千代田区には、明治〜昭和初期の文化人の住まいが集合している町があります。番町です。
江戸時代、お城の西を守る「大番組」という旗本を住まわせたことから、番町と呼びました。
JR四ツ谷駅から歩く
私の地元の同級生は夫が上智大学OBだったので、ここで結婚式をあげました。
チャペル式の写真が、彼女の母親からうちの母親を通し、独身の私にまわってきた。回覧板か。
JR四ツ谷駅の麹町口から歩きましょう。
この出口は、駅前の車寄せスペースもこじんまり、穏やかな雰囲気です。人混みが苦手な私には、とてもありがたい。
六番町「番町文人通り」を歩く
番町といえば内田百閒
有名な『三畳御殿』跡地へ
終戦後、内田百閒が、松木邸の小屋の後に落ち着いた住居です。 3畳間が連続した間取りのため「三畳御殿」と呼ばれました。
当時の写真と見比べると、三畳御殿の玄関へ導かれる区画は今もそのままの形で残っているようです。
ここを訪れてそれを知ったとき、ファンの心は熱く満たされました。千代田区、ありがとう。
○映画『まあだだよ』(黒澤明/監督、1993年)
内田百閒の話です。
DVDジャケットは、百閒先生の松木邸内小屋住まいの様子ですね。夫婦はここに3年間住んでいたそうです。小屋はとにかく狭く、人が居られるスペースは2畳ほどだったらしい。戦中戦後とはいえ、ここに夫婦で3年暮らしました。
強いなあ。普通なら耐えられないと思う。
こういうところに百閒の性格が見えますね。「命があって、住めれば、それでよい」ということか。
彼は東京の日本郵船に勤めていました。嘱託社員として、社内の文章指導などをしていたのです。
百閒は帝大のドイツ文学科を卒業、若い頃には夏目漱石の山房に集う、漱石の弟子でもありました。お琴も嗜む。小鳥が大好き。家には愛鳥の鳥籠がぎっしりです。
空襲で家を焼かれ避難するときにも、気に入った小鳥を選んで持ち出しました。
戦後になると、紀行文として、東京から電車に乗って大阪まで行き、帰って来るだけを書いた作品『第一阿房列車』などを発表します。
この『阿房列車』シリーズこそ、内田百閒の魅力が満載です。
まず書き出してから電車に乗るまでが、長い。なかなか電車に乗りません。
この作品は、交通費がないので知り合いから借金をする話がほとんどを占めています。
電車に乗るという行動自体を書いた話です。
内田百閒は、元祖「乗り鉄」でもありました。
◯『東京焼尽』内田百閒/著
百閒の戦中日記です。戦中戦後の番町暮らしがよくわかります。
空襲で家を焼かれたが、疎開することなく六番町で暮らし続けた百閒。市ヶ谷駅から省線電車(のちの国鉄、JR)で通勤していました。
東京の日々は空襲の危険と、とにかく物資不足です。食生活がままならない。
それでも酒!飯がなくても酒!隣から借りても酒!の百閒先生です。
日記を読む限り、酒と命さえあればなんだか嬉しそう。彼のユーモアと潔さ、リアリズムに力をもらえます。
番町文人通りへ
四ツ谷駅から六番町を通り抜けて大妻通りへとつながる番町文人通りは、多くの文化人が住んでいた所です。
藤田嗣治(1886−1968)
レオナール・フジタの絵画がたどり着いた裸婦の肌色は「すばらしき乳白色」としてパリで絶賛されました。
しかしヨーロッパでは良かったものの、日本画壇の評価はいまいちでした。
確かに明治時代が喜ぶ「ザ・西洋のアカデミック絵画」ではありません。のっぺりとして、陰影はほどほど、輪郭の細さとか。日本画の要素がバリバリ入って描かれたパリの裸婦。
今見れば、それがいいのにね。
そのためでしょうか、彼は日本を描いた名作をあまり残していません。
しかし、ものすごいのが一点あるのです。
それがあるのは秋田県。
藤田嗣治の大作が秋田県立美術館に収蔵されています。かなり大きな作品です。秋田へ行ったらぜひ見てほしい。あのレオナール・フジタが描く秋田の四季。
大胆な描きぶり。壁画のように展示されています。
『秋田の行事』藤田嗣治、1937年(昭和12)
パリで大人気のフジタですが、日本での評価はいまいちでした。
そんな中、秋田の資産家・平野政吉(1895(明治28)-1989(平成元)年)はフジタの作品に惹きつけられます。
1936(昭和11)年、藤田の妻であるマドレーヌが亡くなってしまう。藤田と平野は、彼女の鎮魂のための美術館を建設することを表明しました。
藤田は作品を平野へ多数寄贈し、「秋田の全貌」を描く作品にも取りかかります。
それは縦3.6m×横20mの大作となりました。
作品が完成した1937年、中国では盧溝橋事件が発生。日本は太平洋戦争へ突入。平野の美術館建設は頓挫してしまいます。
資産家の平野家でしたが、敗戦後は新政府の農地改革などにより、美術館プランをすすめることは困難な状態になりました。
そして1967(昭和42)年、秋田県との連携をもとに、ようやく秋田県立美術館として開館することができました。
『秋田の行事』藤田嗣治、1937年、油彩・キャンバス、365cm×2050cm
秋田県立美術館の顔ともいえる作品です。
あっちの端からこっちの端まで、まるで体育館のような広いスペースに展示されています。
美術館は、秋田駅前のメイン通り、久保田城址である美しい千秋公園の向かいにあります。ぜひ見てみてください。
この頃の藤田嗣治について山田五郎さんが詳しく説明してくれている。ありがとう!
『【藤田嗣治の巨大壁画】日本に捨てられたのに日本を描く!?フジタが秋田に残した巨大壁画の謎に迫る!【日本回帰・秋田県民必見】』
ここを歩けば次々と、有名人の旧居跡に当たります。
○『破壊』島崎藤村/著、1906年(明治39)
文学史上では知っていたこの作品を、私がきちんと読んだのは30歳を過ぎてからでした。読んで、最後に泣いてしまった。
主人公は教師である丑松。
彼はかわいい教え子たちに、自分が被差別部落の出身であることを告白します。それはこれまでの人生で彼がずっと隠していた事でした。
2022年に再映画化されています
文豪の住まい跡が次々と
与謝野晶子(1878−1935)
私たち女性の輝く星です。歌人与謝野晶子はここに住んでいました。
女性は受け身の欲望だけを示し男性に従うのが当然という時代に、能動的な恋と命の情熱を歌に詠んだ人です。
与謝野夫妻はここで4年間暮らしました。
番町文人通りの終点にあったのは
番町文人通りの終点です。大妻通りが見えてきました。
駐日ローマ法王庁大使館。
そのようなものが日本にあったの?ここに来てそれを初めて知りました。
本日の結論。外へ出て、リアルな偶然を楽しもう!
ネットサーフィンだけしていてはこんな喜びは味わえませんね。
おまけ
春の桜シーズンには人混みを恐れて訪れない場所ですが、真夏には来ました。
参考文献
○『藤田嗣治:腕一本で世界に挑む (別冊太陽 日本のこころ) 』平凡社、1997年
○サイト 麹町界隈わがまち文学館
○『東京焼尽』内田百閒/著
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?