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小説の余韻を味わいに。彦根へ行きました

彦根といえばこの小説

みなさんはこの作品をご存じですか?

『奸婦にあらず』諸田玲子/著、2006年

奸婦(かんぷ)=悪婦。毒婦。悪賢い女。いったい誰のことでしょう。

私は小説『奸婦にあらず』に夢中になりました。好きな場面に付箋を貼り、繰り返し読んでもなお残る余韻…これはもう、話の舞台を訪れるしかありませんでした。

『奸婦にあらず』の舞台、彦根へ

ひこにゃんは「井伊の赤備え」として知られた赤かぶと姿。強い。ゆるいけど強い

彦根駅に降りました!駅構内はひこにゃん&石田三成が推されています。

駅通路の窓に「大一大万大吉」という石田三成の旗印。佐和山が見えました

豊臣家の家臣である石田三成(1560‐1600)の佐和山城址は、彦根駅のすぐ近くにあります。光成とひこにゃんは今や彦根駅の二大スターです。

そして私の目的は『奸婦にあらず』の登場人物たちです。まずは彦根藩13代藩主、井伊直弼(1815‐1860)を追いました。

江戸時代、近江国彦根藩を治めた井伊家

滋賀県はかつて近江国と言われ、琵琶湖の東の大部分は彦根藩の領地でした。藩主をつとめたのが井伊氏です。

彦根城天守(国宝)

彦根における井伊家の始まりは、井伊直政(1561‐1602)が関ヶ原の合戦の功労賞として徳川家康から彦根の地を拝領したことでした。
井伊家は江戸幕府の筆頭家老として将軍家を支え、大老職を4人輩出。最盛期の彦根藩領地は、石高35万石にのぼります。

初代藩主:井伊直政(1561‐1602)

戦国時代に家康の下で働いた「徳川四天王」の一人です。関ヶ原の合戦で敗退した石田三成の後、井伊直政は彦根にある佐和山城に入りました。
2代目井伊直継の代では、佐和山から近い彦根山へと城の移転が決まります。こうして今に残る彦根城が普請されました。

13代藩主:井伊直弼(1815‐1860)

幕末史に欠かせない人物ですね。
井伊直弼は、黒船来航に揺れる幕政において、大老職に就きました。直弼は将軍の継嗣問題と日本の開国を押し進め、反対勢力を厳罰処分するという強硬策に出ます。
それが尊王攘夷派の強い反発を呼び、1860年、江戸城への登城中に暗殺されました(桜田門外の変)。

参考:桜田門外の変の現場へ(東京都千代田区)

桜田門とは江戸城(現在の皇居)に作られた城門です。現在、桜田門の向かい側には警視庁があります。ここで悪さはできませんね。

皇居前、桜田門。振り返ると警視庁が見えます

彦根藩井伊家の上屋敷は、この桜田門から300mほどの場所にありました。
1860年3月24日。井伊直弼はここで水戸浪士らにより襲撃されたのです。

彦根城下で井伊直弼の青年期を思う

若き日の直弼が詠んだ歌
世の中をよそに見つつも 埋もれ木の埋もれておらむ 心なき身は

(訳:土に埋もれた木のように、世捨て人の暮らしをしている私であるが、心まで埋もれてはいない!)

埋木舎(うもれぎのや)へ

歴史上よく知られる大老・井伊直弼。しかし青春時代の彼は、将来の見通しもないままに城下の屋敷「埋木舎」で暮らし、質素な日々を送っていました。

直弼が名付けた屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」
埋木舎前は柳がそよぐ清々しい通り。直弼は柳を好んだそうです
目の前に彦根城の中堀が広がります

「部屋住み」身分であった直弼

井伊直弼の生まれは、出世とは遠いものでした。
彼は前彦根藩主の14男庶子で、跡継ぎの予備として生きる「部屋住み」でした。他藩への婿養子話もありましたが、その縁談は弟に決まってしまいます。直弼は18才から32才まで埋木舎で暮らしました。

埋木舎には茶室もあります

しかし彼の強みはそのような境遇でも腐らずに生きたことです。
自ら名付けた屋敷「埋木舎」で、学問・居合・和歌・茶の湯と文武諸芸に励み、道はいずれも奥義をきわめました。
そんな直弼32歳の時、次期藩主の兄が亡くなってしまいます。とうとう直弼が江戸に呼ばれるのです。

『奸婦にあらず』諸田玲子/著、2006年

この小説は、埋木舎時代の井伊直弼を支え、心を通わせ、後に幕府の大老にまで上りつめた彼のために命がけで働いた者たちの生きざまが描かれています。

村山たか(1809‐1876)と多賀大社

直弼とともに描かれる主人公は、村山たか。たか女、可寿江(かずえ)とも言われます。実在の人物です。

たか女は彦根城の南東にある多賀大社で育ちました。
多賀大社は「お多賀さん」の名で親しまれる大社(神社)です。戦国から近世にかけては神仏習合が進み寺も建立され、伊勢神宮と並んで参詣者でにぎわう場所でした。

古くから大社には、密偵(坊人)を使った独自の情報網がありました。坊人が集めてきた情報をふるいにかけ、役立つものは権力者へ与える。必要に応じて勢力間の橋渡しも行い、かわりに大社は庇護を受ける。そうやって時代の権力と絶妙な関係を保ちながら生き抜いてきたのです。
ときは幕末。
今の多賀大社が見ているものは、朝廷、幕府、彦根藩井伊家でした。

多賀大社。彦根城から7㎞南東にあります

井伊家を探る密命が、本気の恋になる

たか女は、大社の密偵として育てられた女性でした。井伊家を探るという命を受け、直弼のいる埋木舎へ送り込まれます。
この時の井伊直弼は22歳。部屋住みとはいえ、学問や自己鍛錬に打ち込む実直な青年でした。一方で容姿と諸芸に優れ、公子である直弼にも臆せず気の利いた話題を弾ませる28歳のたか女。
もちろん彼女には男を惹く術もあったでしょう。しかし二人は埋木舎でよしみを通じるうちに、本気の恋に落ちたのです。

数年後、直弼は彦根藩の嗣子として江戸へ下りますが、たか女は密偵として京の動きを幕府(直弼)へ知らせ、最後まで彼を支えました。

小説の舞台はあちこちに

『奸婦にあらず』のゆかりの地は、彦根駅周辺に数多くあります。彦根城、埋木舎、大洞弁財天、清凉寺、天寧寺などです。

彦根城から天寧寺までぐるっと行けます
レンタサイクルで巡るとちょうどいい距離です

『奸婦にあらず』前半のハイライト、天寧寺

佐和山に連なる里根山の中腹にあるのが天寧寺です。急坂を息を切らせながら上って行くと、境内の羅漢堂に迎えられました。

天寧寺の五百羅漢堂

あの三人がここに集う名場面!

三人とは、井伊直弼、村山たか女、長野義言(よしとき)
長野義言は、直弼に取り立てられて彦根藩家臣となった人物です。

小説の前半、彦根藩の行く先に心を寄せる三人が天寧寺に集い、五百羅漢様を詣でます。
この時の井伊直弼は、未来の出世がまだ見えぬ部屋住み身分でした。たか女と長野義言は、公には言えないものの有力者の血筋に生まれ、密偵の宿命を背負って生きています。
三人は各々に孤独を抱える身でした。そんな彼らが天寧寺で心を開いて語り合い、志を共にしたのです。
志とはいったい?政治の中心で名を上げることでしょうか。愛する人の出世を、わが知恵と心身を尽くして支えることでしょうか。

心を一つにする者たちを静かに見守っていたのが、五百羅漢像でした。

羅漢堂入口

羅漢堂へ。入口からそっとのぞきます。
すると…!堂内の壁一面にぎっしりと羅漢様が。数えきれない仏様から一斉に視線を注がれるのです。
私は思わず背筋が冷えました。しかしだんだんと見ているうちに、どの羅漢様にも個性とあたたかみがあり、中にはユーモアたっぷりの表情で身振り手振りをするお姿もあることがわかります。いつの間にか私は羅漢像に魅せられてしまいました。

パンフレットより
圧倒されました

外に出ると、眼下に広がるのは彦根の城下町です。目線の先には彦根城。向こうもこちらを見ています。お城とお寺は、対になって、東西の高台から町を見守っているようです。

天寧寺からは彦根城が見えました

井伊家の、私的な寺。それが天寧寺

井伊直政から脈々と受け継がれてきた私的な寺、宗徳寺は天寧寺となり、直中、直弼を受入れ支えていく寺としての役目を担うことになったのである。

天寧寺パンフレットより

1860年「桜田門外の変」で急死した井伊直弼は、当時の事情から病死とされました。彼の遺品は急ぎ彦根へ持ち帰られ、この天寧寺境内に埋められたのです。

井伊直弼供養塔には、事件当時の遺品が収められています

歴代藩主が心を癒す私的な寺。それが天寧寺なのだそうです。
境内には長野義言の墓と村山たか女の碑もあります。

左から長野義言の墓、村山たか女の碑、井伊直弼供養塔があります。奥へ入ると
たか女の碑がありました

小説『奸婦にあらず』、読んでみて下さい!

村山たかと井伊直弼の一途な恋に始まり、幕末彦根藩の命運をえがいた『奸婦にあらず』。歴史の大事件である桜田門外の変を知ってはいても、読み進むうちに次はどうなるの?と目が離せなくなる作品です。

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