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【凸凹考察】鬱と虚無とメタ認知

メンタルクリニックの診察で「鬱というより無…虚無なんですよね」って報告をしたら、ドパミンだよねって意でエビリファイの追加を提案されました。
とりあえずもう少し自己モニタリングしたいってことで保留にしてきたんですが、改めて考えると「鬱」と「虚無」ってなんやねんだし
虚無状態のことを改めて考えていてふと、メタ認知のことを思い出した。

若手の頃、何かの研修で「客観視が上手ですね」と褒められた。
そのスキルにメタ認知と名前があることを知ったのはもっと後だけど、20代前半のころから「自分を俯瞰する」だったり「自分に起きた事象を再考する」ことは習慣というかクセだったと思う。
なお、解離も多かったと思われる時期なので健全な客観性だったかどうかは疑問。
また、通常想像される「メタ認知」は予め事象に絡んだ感情を意識的に切り離して事実に目を向けるという側面があるだろうけど、私の場合ハナっから感情が含まれていない(表面的な事実としての「〇〇が怒っている」などの情報はある)ので、メタ認知スキルが意識的に発揮されているんじゃなくて普通にしてたら結果的に客観視している、が正しい。

この「事象だけ滔々と受け止めて対処していく」自分が引きで見ると鬱にも虚無にも見えるのかもしれない。
ただ、虚無だなって思う契機は視点以外にもあって、モチベーションというかスイッチが入りにくいというか、とにかく起動が遅くて、いつの世代ですか?ってくらいの古いPC並みに時間がかかる。
その後ブーストかけても今度は体力が爆速で尽きるので、結局先延ばしのような結果が残る日々。そしてその事実を眺めて虚無る日々。

なお、メタ認知には「メタ認知的モニタリング」と「メタ認知的コントロール」という2つの活動が循環するという仕組みがあるのだが、私が褒められたのはあくまで「メタ認知的モニタリング」のみで、ドパミンが足りないせいか何なのか行動コントロールまでは至れていないことが多い。
なので、冒頭の「客観視が上手」は「メタ認知に長けている」と同義ではないのだ。残念。

笑うことも怒ることもあるっちゃあるけど醒めた自分もいるし、飄々としながら口を開いたら罵詈雑言が出てきたりするので、アレキシサイミアとはちょっと違うんだけど自分の認知を正しくつかめているかは怪しい。
モニタリングもあくまで自分自身じゃない、自分自身を取り巻く周囲を見ているだけ。鬱っちゃ鬱だよな、と思う由縁はここにある。
思うままに怒ったり悲しんだりする余力がないし、欲しいものはいつも子供のものか猫のものか家庭のものばかり。
抑うつの代表的な無気力、意欲の湧かなさに当てはまる。

元気じゃないってわけでもなく(色々調子は良くない部分あるけど)
何か根源的な悩みがあるわけでもなく。
じゃあこれは…何でしょうか。

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