
立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 10(1) 股関節の亜脱臼がなくなった!? しかし、苦難の幕開けが・・・
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滉燿くんも5年生(高学年)になりました。高学年になると行事をはじめ学校生活が大変になります。それと、恐れていた私の体調が悪くなってしまったのです。
5年生1学期(2007年 平成19年)
55 平成19年度が始まった
なかよし学級の先生は、兵藤先生、島先生、私が引き続いて担任をする事になりました。さらに、今年からは大田輝美先生が新しく加わりました。大田先生は、私より一つ年上のベテランの先生でしたが、特別支援学級の担任をするのは初めてでした。
今年から介助員の先生が付く事になり、原先生という若い先生が介助員として、主に1組に入る事になりました。5年生の担任は、坂本由美先生、高木恵峰先生、沢田有香先生でした。
平成19年4月5日の始業式の朝、学校にやってきた滉燿くんを寝かせて体の状態をチェックしました。膝を伸ばし、足首を曲げ、股関節を伸ばしてみます。OKどこも固くなっているところはありません。滉燿くんの体は、十日間くらい訓練をしなくても元に戻るようなことは無いくらい状態が良くなってました。これから筋肉を強くして歩行練習を取り入れて『自分で歩くと』いう目標に向かって力強く進めることを確信しました。
体育館で行われる始業式には、いつものように私がバギーを押して出席します。滉燿くんもとうとう5年生になりました。
「滉燿くんもいよいよ5年生かー。大きくなったなあー」
1年生から滉燿くんを知っている先生達が、驚きをもって声をかけてくれます。滉燿くんというと、小さなバギーの中にちょこんと座っているイメージがあるのですが、今は一回り大きなバギーに乗って、長い手足をもった立派な5年生でした。
こうして良いスタート切った平成19年度のはずでしたが、私にとっては苦難の年となってしまったのです。
56 歓迎遠足で小山田壮平君に会う
4月の半ばには、新しく入った1年生のための歓迎遠足があります。目的地は毎年同じで川津緑道公園です。伊岐須小学校から歩いて40分程の九州工業大学の隣に有りました。雑木林が端にある広い芝生の公園でした。
滉燿くんは、遠足では目的地にお母さんが自動車で連れてきて、交流学級の子ども達と合流ということがパターンでした。今年は、目的地近くの広い歩道のあるところで下ろしてもらって、私がバギーを押して子ども達と一緒に歩いて行きました。
子ども達の群れに囲まれるようにして歩いていると、道路の反対側に一台の軽乗用車が路上に止まりました。運転席側のドアが開いて一人の青年が降りました。彼は転がるように道路を横切り、歩道の植え込みの隙間を通って、子ども達をかき分ける様に私の前に立ちました。
「先生、お久しぶりです」
青年が頭を下げます。身長は170㎝くらい、色が白くて手足が長く柔らかい体格をしていました。顔は小さくイケメンでした。こんな青年は知りません。
「小山田壮平です」
「あっ」
彼は、私が蓮台寺小学校時代に担任した6年生の学級にいました。十年ぶりくらいの突然の再会でした。大きく成長して、すっかりオトナの顔に変わり、誰だか分かりませんでした。確か、早稲田大学に進学したと聞いていました。子ども達に囲まれてバギーを押している私に気づいて、駆け寄ってくれたに違いありません。それにしても車を運転していてよく分かったものです。
「はい。今年卒業しました。それから、毎年、年賀状頂いてありがとうございました」
「いやいや、それじゃ就職決まった?」
「実は、バンド組んでメジャーを目指そうと思って、今仲間を集めています」
「えーっ!?」
彼は子どもの頃はサッカーをやっていて、私の中のイメージではスポーツ少年だったのです。それが芸能界?クビを傾げました。
「いえ、その方面に(芸能界)には前から興味があったんです。高校・大学と演劇部に入っていました」
学校の先生になってから、担任した子や同学年の子が何人か芸能界入りしたと聞いた事はあります。遠い話ではありません。でも、その子達が、今どうしているかその後の消息を聞いたことはありません。難しい世界と思っていました。
折角、早稲田大学に行ったのならフジテレビなど大きなテレビ局にでも就職すれば良かったのに・・・、それをバンドだなんて・・・。しかも、これからメンバーを集めると言うのです。ハッキリ言って心配でした。
でも、将来の夢に胸膨らませている青年に、やめとけなどとは言えるはずも有りません。今は、彼が成功することを願うことしか出来ません。
「うまく成功すると良いね。それじゃー、コンサートに行くのを楽しみにしているよ」
「はい、必ず。見に来て下さい」
小山田君は手を振りながら車に戻ると行ってしまいました。車には、母親らしい女の人が乗っていました。
彼は、その後音沙汰無く、私もテレビやラジオであまり音楽番組を見ないし、この後、体調が悪くなってしまい、それどころじゃなくなっていました。時々思い出して、どうしているのかなとは思っていました。
会ってから数年後、思いついて「小山田壮平」でネットを検索してみるとバンドを組んで、CDを出して、コンサートや全国ツアーをやっているということが分かりました。私も応援の意味を込めて、彼が出しているCDを買ってみました。
(後記)福岡市で令和5年に行われたコンサートに初めて行くことが出来て再会できました。
57 股関節の亜脱臼が無い!?
滉燿くんとお母さんと一緒に、H療育園を一年ぶりに訪ねました。滉燿くんの担当者の新谷さんが退職して、荒木さんという女性の作業療法士に代わっていました。それで、挨拶とお互いの訓練の交流と股関節の具合やお医者さんの話から聞くのが目的でした。
今日は外部から来ているお医者さんと言うことでした。お医者さんはレントゲン写真を片手で蛍光灯のスクリーン(?)の金具にガツンとはめ込んで貼り付けました。股関節が白く写っている写真を黙って見つめています。私も横に立って一緒に見つめますが、もちろんよく分かりません。
「特に異常はありませんね」
しばらくして、お医者さんが口を開きました。
「え、股関節の亜脱臼はありませんか?」
「ありませんね」
意外な返事です。
「今まで、股関節の亜脱臼が有るからということで、気をつけて訓練やってきたんですが・・・」
お医者さんは、レントゲン写真を指さしながら説明します。
「この写真から見る限り股関節の亜脱臼があるとは言えません。まあ、足の骨頭部分のここの部分の発達が、普通の子に比べると悪いと言えますが、歩けない子なのだから仕方ないでしょうね」
私は、さらに疑問をぶつけます。
「それは、訓練が進んで良くなったので、股関節の亜脱臼が無くなったと言うことでしょうか?それとも元々無かったのでしょうか?」
「以前の写真が今手元に無いので何とも言えませんが、この写真で見る限り股関節の亜脱臼は有りませんね」
それならすぐに以前の写真を調べてもらいたかったのですが、私の身分ではそこまで要求出来ません。少々不満でしたが、ここは、私の訓練で股関節の亜脱臼が直ったと良い方に解釈して、荒木さんが待つ訓練室の方に戻りました。
荒木さんは前の担当の新谷さんから、私の実績や滉燿くんについて、驚異的な身体機能の改善という事を聞いていたそうで、スムースに話に入ることが出来ました。
今やっている訓練の様子も見せてもらいました。今ある身体機能を使って、生活場面での改善を目指す訓練と言うことで、車椅子に乗る訓練を行っていました。車椅子に乗った滉燿くんはノロノロと車椅子を動かしていました。歩行器に乗せても、じっと動かないことが多かった滉燿くんが自分で手を動かして車椅子を動かして、ちょっと驚きました。
しかし、自分の力で歩けるようにしたい私にとっては不満です。眺めていると滉燿くんはノロノロと車椅子を動かしながら、広い訓練室をフラフラと動いています。何かボンヤリとした顔つきで表情からは読み取れません。
『なるほど、この訓練なら事故は起こらんよな』
少し皮肉な気持ちで見ていました。
『一応訓練とは言える。でも、これ以上良くなりはせんぞ』
『まあ、いいや。自分がやった訓練で改善した身体機能を使ってH療育園で訓練してもらえばいいや』
『H療育園から受ける訓練についてのアドバイスは、もう無いな』
帰りの車の中で、これからの訓練方針を考えながらそう思っていました。
続編 立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 10(2) 足の力をつけるんだ!漢方薬の威力!?
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