”良い先生”ってどんな人なんだろう。
私は学校が嫌いでした。
先生という存在も、基本的には嫌いでした。
あんな学びの形は作りたくない
あんな先生になりたくない。
というか、先生という優位性をもつ存在になりたくない。
そう思いながら、葛藤しながら、ringOスクールという場を運営しています。
*ringOスクールについては、コチラをご覧ください。
とまぁ、ringOスクールの事は今回横に置いておいて、
今回は、最近あった出来事も踏まえて、”良い先生”について書いてみることにします。
ある先生の話(私にとっての先生)
先ほども述べましたが、私は基本的に”先生”と言われる存在が苦手でした。
そんな学生生活(小学校~高校)において、
良くも悪くも強烈な印象を残した先生が一人います。
まぁ今回はA先生と呼びましょう。
副担任だったのと、部活の顧問の先生ということで
関わる機会は割と多かったのですが、
関りがあったのは、中学校生活のうちのたった1年のみでした。
でも強烈な印象。
今振り返ると、「先生らしくなかった」
というのが、印象に残っている大きな理由なんだと思います。
A先生は、当時25歳。
新米教師で、右往左往していたことも多々ありました。
むちゃくちゃなこともたくさんありました。
先生/教師として、「ベストな対応ではなかっただろ」と思わず突っ込みたくなるような出来事もたくさん。
(振り返るとキリがないので具体例は今回は出さずにおきます。)
でも、一貫していたことが一つありました。
それは、「一人の人間として関わってくれた」ということ。
生徒、子どもとしてではなく、
一人の人間として。
ときには、理不尽なことを言ってきたり、、
でも、それは
本心をぶつけてくれているという感覚をもてるものでもあって。
「理不尽だ!」と思いつつも、A先生の感情や言葉に対して、
心の底から嫌悪を持つことはなぜかありませんでした。
A先生とはたった1年の関係でしたが、
私が26歳になった現在も、一緒に音楽をする仲間であったりもします。
大人になった今も、私が子どもだった約10年前も、
A先生の私に対する態度は清々しいほど同じ。
キレイな、いわゆるな言い方をするならば「対等」な関係。
だからこそ、先生という存在が苦手な私も、
一定のリスペクトの気持ちを持ちつつ、
(ときより「服ダサ。」などとバカにしながら)
関係性を築けているのだと思います。
共感されなかった”良い先生”の定義
大学時代、
教員免許を取得するために履修した授業において、
「良い先生、理想の先生」について発表し合うという機会がありました。
私は、なんのためらいもなくA先生をイメージした発表をしたのですが、、。
周囲から感じたのは冷ややかな目線でした。
授業を担当していた講師も、私の発表をなかったもののように扱ったのでした。
他の生徒たちはというと、
「正しいことを示し続けられるのが良い先生」
「だれにとってもわかりやすい授業ができるのが良い先生」
(「いやいや、テンプレートだな!!!」私の中はそんな気持ちでいっぱいでした。)
そもそもテンプレート的に
みんながなんとなく似たり寄ったりの”良い先生像”があるのってどうなんだろう、、、。個人的にはそう思ってしまいます。
もちろん、犯罪を犯したり、倫理観のないような先生は論外。
けれど、ある程度論外を取っ払ったうえで、
そのなかでどんな先生を良い先生と捉えるかは、
ひとりひとり違うことの方が違和感ないと思うんだけれどなぁ、、
(もやもや)
良い先生ってなんだろう
とまぁつらつらと書いてしまいましたが、
今回書いたことは完全に個人的意見なので、
「それはおかしいでしょ」
「いやいや私はこう考える」
と全く異なることを思う方もいらっしゃるかもしれません。
この記事を読み、自分の中でも”良い先生”感について
少しでも考えるきっかけになっていただければ私はそれで充分です。
「先生」
学習支援事業をさせていただいているがゆえに、
生徒さん/親御さんからそう呼んでいただくことも多くありますが、
一定の気持ち悪さも感じたりします。
(私のことなんて、先生って呼ばなくていいですよ!!!)
それはきっと、
”先に生きる人”ってなんだろう。
その辺が自分の中でまだ考え続けるべき問いとしてあるからだと思います。
考え続けたい問いですね。
さて、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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では。
どいあやみ。
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