2003年特例法は「だまし討ち」か?
性同一性障害特例法を守る会 美山みどり
一部ではありますが、「女性の権利を守る」ことを主張する人々の間で、「諸悪の根源は戸籍性別を変更することを可能にした2003年性同一性障害特例法だ」という認識から、この法律の制定過程が「国民の目から隠されて、ろくな報道も審議もなく制定された」という批判をする人が見受けられます。
私たちは性同一性障害当事者として、2003年特例法によって多大なる恩恵を受けた立場であり、この2003年特例法が定めた手術要件を支持する立場から、このような事実に反した主張について資料を挙げて反論する必要があると考えました。
まず論点を整理しましょう。
特例法の制定過程には、1997年の「性同一性障害の診断と治療のガイドライン」(日本精神神経学会)を受けた、1998年の国内性別適合手術の合法化に始まる、さまざまな過程を経ての立法である、という側面があります。けして唐突に出てきた法律ではありません。
私は朝日・読売・毎日の三紙を参照し、この2003年特例法をめぐる報道の実例を示します。全会一致で成立した議員立法であり、とくに「対立法案」ではないので、報道は事実中心・結果中心ですが、しっかりと国会の審議がフォローされています。
また全会一致で成立したということもあり、「11日しか国会審議していない」と批判する向きもあります。しかし国会審議というのはそういうものです。2023年にあれほどモメて修正を重ねて成立した(全会一致でもない)LGBT理解増進法でさえ、衆院は審議入りして7日(6/7~6/13)、参院は3日(6/13~6/15)です。一般的な全会一致の議員立法の場合、両院で付託されて3日程度づつで成立するのが普通です。2003年特例法はごく普通の成立過程で成立しています。
そうしてみると、一部の「だまし討ち」の主張には、根拠がありません。
私たちがこの法案成立のためにロビイングを行った際に、「与党女性議員を中心にロビイングをして、与党議員提出の議員立法として提出することで、自民党保守派からの文句をなるべく出ないようにする」という戦略を取ったことが、歪められて伝わったようにも感じています。与野党対立法案にしないように努力しましたが、広くマスコミにも好意的に報道され、私たちは「フェア」に特例法を成立させたという自負があります。
事実を見てください。
特例法制定に至るまでの過程
海外では1950年代に性別適合手術の術式が出来上がり、1965年にジョンズ・ホプキンス大学にジェンダー・クリニックが設置されて、性別適合手術を受けて性別移行する人々が現れました。しかし、国内ではヤミで手術を行った医師が告発された「ブルーボーイ事件」が1965年に起き、このために性別適合手術が事実上「非合法化」されてしまいました。それでも、海外に渡航して性別適合手術を受ける人は少数ながら存在し、一番有名なのは1973年にモロッコで手術を受けて帰国したカルーセル麻紀さんであることはいうまでもありません。当時は雑誌・TVなどでも大々的に取り上げられて、それこそ「笑点」のネタにまで登場したことを私は覚えていますよ。FtMでは虎井まさ衛さんも1987年からアメリカで陰茎形成手術を含む性別適合手術を受けたことが、女装雑誌として知られる「くい~ん」で報告されて、大きな衝撃をもたらしました。1996年には「女から男になったワタシ」としてこの経緯が出版されています。
そしてヤミでの手術もなくなったわけではなく、はるな愛などニューハーフを顧客にした性別適合手術を1995年から行ったことで知られる和田耕治医師など「名医」と呼ばれる医師さえ存在していました。また本格的な性別適合手術ではなく、睾丸摘出手術のヤミ手術をしてくれる医師の話はよく話題にもなりました。性同一性障害に悩む人、そのために医療の助けを求める人々は現実に存在したのです。
このような状況で当事者の切実な声を受け止めて、マイクロサージェリー(顕微鏡下での微細な縫合手術)の専門家である埼玉医大の原科孝雄教授は、精神科医の塚田攻医師の協力のもとに、1996年に埼玉医大の倫理委員会に「性転換治療の臨床的研究」として、性別適合手術の許可を求める申請を出したのです。これに肯定的な答申がでたことによって、医学界が性同一性障害に正面から対応することが正式に決まりました。それを受けて、1997年5月に日本精神神経学会が「性同一性障害の診断と治療のガイドライン」を出し、性別適合手術を含む性同一性障害の「診断と治療」が正当な医療行為として、医学界に承認されたのです。
そして、1998年10月16日に、国内初の正規の医療行為としての、性別適合手術が埼玉医大で原科教授の執刀の元に行われのでした。この一連の流れは、画期的なものとして広く報道されました。私たちにとっての待望の出来事でしたが、マスコミも好意的な立場でけして興味本位ではなく報道されたのです。
そして、埼玉医大が性別適合手術の実績を積むとともに、岡山大学でも手術が始まり、徐々に正規の手術を受けた当事者の数が増えていきます。そうなると、正当な診断と正当な手術を受けた人々に対する、法的な立場をどうするのか、という問題が浮上してきたのです。
それまでに数例、錯誤などを理由として手術済の当事者の戸籍性別を変更した例がないわけでもないみたいですが、これらは表に出ることはありませんでした。しかし、正当な医療行為として認められた性別「適合」の受け皿として、社会的に「戸籍と逆の性別」で生きている人々の福利のために、戸籍性別を変更できるようにする、という課題に直面することになったのです。
このプロセスの中で、マスコミも協力的でした。性別移行をした人たちが、食い違う身分証の性別のために「過去を知られずに生きていくのが難しい」という問題提起を行ってくれていました。また、2001年末からの「三年B組金八先生」第6シーズンの中で性同一性障害の問題が取り上げられたこともあり、広く話題になったことも、追い風になりました。
これに並行して、2000年9月には、自民党の中に「性同一性障害に関する勉強会」が設置され、手術済の当事者の法的な扱いに対する政治の世界での議論が始まりました。そして、性同一性障害当事者の戸籍性別を変更可能にするよう求める日本精神神経学会からの要望書が2001年5月に出され、また、虎井まさ衛さんをはじめとする当事者グループ「TSとTGを支える人々の会」ができ、全国の家庭裁判所に戸籍性別変更を求める「一斉申立」がなされました。これには特例法制定に大きな力となった法学者の大島俊之神戸学院大教授がバックアップしていました。
しかし、2002年後半には戸籍性別変更の申立てを却下する判断が相次いで出たために、問題の焦点は司法から政治に移ります。このような動きもさることながら、競艇の女子選手が男子選手として登録される安藤大将選手の話も話題になり、性同一性障害をめぐる話題は「旬のネタ」としてマスコミに扱われてきたのです。
そして、2003年4月の統一地方選挙では世田谷区議に、性同一性障害当事者として女性に移行したことをオープンにした上川あやさんが当選しました。そして、当時はまだ法律はできていませんでしたが「女性議員」として議会に登録されることになったのです。
そして、5月には与党三党(自民・公明・保守)によるプロジェクトチームが作られて、具体的な法案として浮上してきたのです。
特例法制定を巡る報道の実際
このプロジェクトチーム(座長:南野知惠子(自)、副座長:浜四津敏子(公
))が法案作成の中心になりました。もちろん、虎井まさ衛さん・山本蘭さんなどの当事者が大島俊之教授のバックアップを受けながら、与党議員への地道なロビイングを積み重ねて戸籍性別を変更する「特例法」の実現を訴えてきた結果でもあるのです。
先に2月末には衆院予算委員会の答弁の中で、森山真弓法相が「戸籍法」の改正ではなく、特別立法の「議員立法の動きがあれば協力する」という考えを明らかにしたことから、「特例法」による具体的な戸籍性別変更の要件の検討が始まりました。大島俊之神戸学院大教授が提唱した「子なし要件」のない「大島三要件」と呼ばれる、「(1)性同一性障害だと診断された(2)性別適合手術を受けた(3)現に結婚していない」の3つの要件を軸に調整することになります。しかし、自民党内から「子どもがいる親が性別移行したら、子の福利に問題があるのでは」との懸念を受けて「(4)現に子がないこと」が追加されるという、妥協案によって法案が5月下旬に具体的なかたちになっていきます。
この子なし要件については、「三年後の見直しをする」という一文を入れることによって、当事者団体の了承を取り付けたという経緯もあります。とくに今のトランス活動家の中心になっている「くたばれGID!」派の人々はこれに強く反発し、「子供を殺さないと戸籍が変えられないか!」「当事者の分断だ!」として特例法の成立を妨害するような挙にも出ていましたが、大勢は「ここで特例法を成立させなければ、当分成立させるのが難しい」という判断で特例法成立の方向でまとまったのです。この責任を gid.jp の山本蘭さんが取り、5年後にはなりましたが、「未成年の子がいないこと」と子なし要件の条件緩和に成功したのです。
そして、6月10日には自民党法務部会がこの案を了承し法案提出が決まります。野党も異論がないことから、超党派での法案成立が見込まれる状況が出来上がります。
この時期、読売新聞が特例法を「重要法案」の一つとして報道しているのも興味深いことです。超党派・全会一致の成立が見込まれる法案にしては、注目度が高いことが窺われます。
そして、日程の都合からか参議院で先議することになり、7月1日に与野党一致の参院法務委員会提案として、2日の参院本会議で全会一致で可決、
9日の衆院法務委員会で可決、
そして、10日の衆院本会議で全会一致で可決されたのでした。
この可決のあとで、プロジェクトチームの中心となった南野知惠子参院議員は
という談話をしています。
当時、批判として、
性別を変えることが合法化されたら、社会が壊れるのではないか
犯罪者が性別を変えて、司法の追及を逃れることが起きるのではないか
といった杞憂ともいうべき心配の声もあったのですが、20年にわたる特例法は大きな問題も起こさずに運用されてきたのです。このような状況がおかしくなるのは、LGBT活動家たちの特例法批判とそれに迎合するマスコミの声、そしておかしな最高裁判決がでたことからのことなのです。
2003年特例法の審議は短いか?
この読売新聞の記事では「スピード成立」と言っています。しかし、それは
と、与野党一致での無修正の採決を「スピード採決」と呼んでいるに過ぎません。マスコミも世論も一致して、この特例法を歓迎していることの表れです。
両院で委員会で可決して本会議で可決、と審議は計4日、期間は7/1から7/10の11日間での成立となります。実はこれ、与野党対決法案ではない、全会一致の法案の場合には、ごく普通のことなのです。
このような国会審議の通例は、衆院・参院のホームページの上で公開されています。これらを参照すれば、国会審議で一つの法案にかかる審議の日数など容易に確認できます。
たとえば、与野党対決以上に与党内でさえも、あれほどにモメたLGBT理解増進法でも、実際の国会審議は、
と委員会採決1日、本会議1日と成立過程を見る限り、衆院内閣委員会提出6/7~参院本会議可決6/16と、やはり10日間しかかかっていないわけです(苦笑)
だったら、性同一性障害特例法が「スピード採決された」という印象も、与野党ともに文句がない法案だからこそ「すんなり通った」ということの表れでしかありません。
立法過程というものは、表面に現れた審議以上に、それ以前からの法案づくりのプロセスにこそ、意味があるものなのです。2003年特例法は、与党も野党もマスコミも世論も、十分内容を理解したうえで祝福されて成立した法律だったと結論づけるべきでしょう。
これに文句が付けたかったのは、現在のLGBT活動家の中心にいる「くたばれGID!」派であり、手術を求めない「トランスジェンダー」の自分たちのための法律ではないことを20年にわたって恨んできたのです。ですから、性同一性障害当事者のための特例法を乗っ取って、「トランスジェンダーのための法律」に変えようと企む、私たちと「トランスジェンダー」の現在の手術要件を巡る戦いは、まさに20年越しの第二ラウンドだと私は考えています。
法の不知はこれを許さず
そういう法諺(法律に関することわざ)があります。もともとローマ法に起源がある法律の大原則なのです。正当に制定された法律であれば、それに対する知識があろうとなかろうと、たとえ誤解して理解していたとしても、そんな言い訳は通用しない、というルールです。
戸籍性別の変更自体を拒絶して特例法自体を廃止したいと考える「トランス排除的ラジカル・フェミニスト」と呼ばれることもある女性グループは、よく「性別を変更できる法律があるなんて知らなかった!」「自分たちが知らない法律なんだから、そんな法律は無効だ!」などと主張していたりもします。
あるいは、特例法制定の報道などに、当時関心がなくて気が付かなかったことを正当化しようとしてか、「こっそりと法律を作った」などと非難していたりもします。
このような主張は、特例法から大きな恩恵を受けてきた私たち、また特例法の制定にわずかならがも関わってきた私にとっても、事実に反する以上に侮辱的な言辞であるとさえ考えます。
特例法ができるに至る筋道というものがあり、それらはすべておおっぴらに報道されて世論の支持を得てきて、その結果として特例法という法律になったのです。突如湧いてきた誰も知らない法律ではなく、運動と世論の盛り上がりを通じて、世間周知の上で成立した法律なのです。
私はその運動に微力ながら関ったことに強い誇りをもっています。
だからこそ、この特例法を歪めようとする人々に対しても強い怒りを持ち、手術要件を守りたいと考えて「特例法を守る会」を立ち上げたのです。
大島俊之先生や山本蘭さんなど、特例法に主導的な役割を果たした先輩方の中には亡くなられた方も多いです。これらの方々も、今の手術要件をないがしろにする風潮を苦々しく感じていることでしょう。これらの方が今生きていれば、状況はずっと違ったものになっていた….これらの方のためにも、私たちはその遺志を正しく引き継ごうと決意しています。
特例法の制定プロセスについて、証拠を示しながら残すことは、私たちの歩みを党派的な思惑から歪めて伝えることがないためにも必要です。私の思い出なども織り交ぜながらではありますが、この文書を作りました。ぜひ広くお役立ていただければ幸いです。
以上