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日本ミステリー文学大賞の軌跡・第3回 笹沢左保(前編)|羽住典子

日本ミステリー文学大賞の第一回の選考は一九九七年十一月五日に行われました。
その後、昨年二〇二一年の第二十五回までに選考された受賞者の一覧は、戦後から現代までの日本ミステリー史をそのまま映し出しているといっても過言ではない、錚々たる顔ぶれです。
本企画では、作風と特徴、作家の横顔、いま読むべき代表作ガイドなど、第一回からの受賞者を一人ずつ特集します。
回を追うとともに、日本ミステリー史を辿っていきましょう。(編集部)
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文=羽住典子はすみのりこ(探偵小説研究会)

笹沢左保氏

 第三回日本ミステリー文学大賞は、笹沢ささざわ左保さほが受賞した。受賞の決まった一九九九年は、氏が執筆活動を始めてから四十一年目にあたり、著作は三百七十四冊を刊行している。「流行作家」とうたわれた名実ともに、充分受賞に値する功績であることは誰しもが頷ける。

 第一回は佐野洋さのよう、第二回は中島なかじま河太郎かわたろうと、ミステリを内側から深く分析する活動をおこなう作家、評論家が同賞を受賞した。第三回の笹沢は、ミステリ界の外側における貢献が決め手になったと推測できる。テレビドラマ化された大ヒット作『木枯し紋次郎』の名は、仮に視聴をしていなくても、ある程度の年齢ならば、知らない者はほぼ皆無に等しいだろう。天涯孤独で生涯旅することを運命づけられた紋次郎に惹かれて原作を読み、他の笹沢作品にも触れ、そこからミステリの世界に導かれた者も決して少なくないはずだ。

「受賞の言葉」で、笹沢は「同時に一作品を賞されるより、「顕著な功績」という過去の足跡を認められることのほうが、作家冥利に尽きるとの満足感を得た」と述べた。

 選考委員の五木寛之いつきひろゆきは「無数の作品が、根のところでミステリーの遺伝子構造を常に宿している点こそが、笹沢文学の際立った特色」だと語り、小松左京こまつさきょうは「暗黒面を告発するのではなく、物語の厚みのある背景として取り入れ組上げる笹沢さんの小説作法は、際立っている」と評価した。笹沢作品のほとんどを読んでいるという佐野洋は「どの小説にも、何らかの新しさがあり、驚きがある」と述べ、都筑道夫つづきみちおは「推理作家以外のなにものでもないところ」に敬意を払い、「現代の作家だ」と締めくくる。

 選考委員の佐野と都筑、受賞者の笹沢はほぼ同世代だ。佐野は一九二八年、都筑は一九二九年、笹沢は一九三〇年生まれで、作家デビュー年も近しい。同じミステリの土俵に立つ佐野からは羨望、都筑からは敬愛の心が描かれている点からも、笹沢作品の良質さがうかがえる。特に佐野と笹沢は『週刊朝日』と『宝石』の共催コンクールで席を争った、同郷のよしみともいえる仲だ。佐野は親しい仲間に祝いの言葉を贈る照れくささを、対抗心で表したと感じられる。

 改めて略歴を振り返る。笹沢は一九三〇年、現在の西新宿と北新宿に当たる東京府豊多摩郡で、詩人・笹沢美明よしあきの三男として誕生した。本名は笹沢まさるという。その後、一家は神奈川県横浜市に移り住む。父親が祖父の遺産を使い果たして貧困のなか、推理小説は江戸川乱歩えどがわらんぽ甲賀三郎こうがさぶろう海野十三うんのじゅうざ、ホームズやルパンものを、子供の時分から手当たり次第に読んでいたそうだ。

 高校は関東学院高等部に進学し、中退か、あるいは一九四八年卒かという二つの説がある。作家の最終学歴は大学卒が目立つが、進学はせずに同世代よりも少し早く社会に出た経験が、地に足の着いた、どことなく泥くささを感じさせる登場人物たちにも現れているのだろう。

 子供の頃、雑誌『ロック』に小説を投稿した経験はあったが、作家への道の転機は、郵政省簡易保険局に勤務していた一九五八年に訪れる。夫人の佐保子さほこ氏からとった笹沢佐保名義で書いた「金看板」が、第五回読売短編小説賞の候補となったのだ。これを皮切りに、投稿作品が次々と飛躍していく。同年、「ボタン押すのも嫌になった」は第一回週刊朝日・宝石共催短篇探偵小説懸賞の候補に入った(この回の二等に選ばれたのは佐野洋「銅婚式」である)。だが、この年の十一月、笹沢は飲酒運転の自動車に撥ねられ、全治八ヶ月の重傷を負い入院してしまう。

 翌年の一九五九年、入院前に投稿していた第十二回『宝石』短篇探偵小説懸賞に「闇の中の伝言」が佳作に選ばれ、同じく同賞で候補になっていた「九人目の犠牲者」ととも、増刊号にあたる『別冊宝石』の『新人二十五人集』に掲載された(後に、前者は「伝言」、後者は「九人目」と改題)。なお、初期短編作品のほとんどが入手困難な状況であるが、「伝言」は日下三蔵くさかさんぞうによって新たに編まれた短編集『アリバイ奪取』に再収録されている。

 あらすじは以下になる。保険会社の事業部の課長が、熱海にある保養所の浴室内で殺された。同晩、愛人と思わしき女子社員の一人が、東京で遺体となって発見される。男女の死は、離れた場所における心中か、片方が他殺で片方が自殺か、それともどちらも殺されたのか。手がかりは両者が身に着けていた、壊れた腕時計くらいしか見つからなかった。

 探偵役は、捜査一課の倉田警部補と彼より十歳年上で勤続二十五年の岸田井刑事が務める。熱海の遺体は自殺が不可能だと断定し、犯行を可能にできる情報を知っている者を絞り込み、アリバイを探っていく。流れは推理小説の王道だ。

 ただし、本作は短編推理小説でありながら、語り手を監査課の一社員・笹木にすることによって、風刺小説の体もなしている。探偵役の刑事を視点人物にしていたら、「臆病で気力のない、批評眼ばかり発達した怠けものになり勝ち」というサラリーマンに対する見識を作中で語らせることは不可能であり、「機械みたいな人間と、人間みたいな機械、の世の中」という主題を浮き上がらせることもできなかっただろう。シンプルに事件の推理要素のみで物語を構成することもできる作品であるが、変わった立ち位置の主人公を置くことで、推理小説の細い線に小説としての厚みを持たせている。

 推理小説とは、推理をおこなうだけの小説ではないと、実作をとおして訴えているようでもある。以降も、笹沢作品からは、読者に機械的に推理をさせるというパズル遊び的な趣向よりも、一市民が推理せざるを得ないという状況に巻き込まれることによって、平穏な日常生活が変わっていくといった、一種の英雄譚的なものを感じさせられる。

 話を元に戻す。一九五九年、短編では「勲章」が第二回週刊朝日・宝石共催短篇探偵小説懸賞の佳作に選ばれている(『宝石』掲載は一九六〇年)。この回は後に鮎川哲也あゆかわてつや夫人となる芦川澄子あしかわすみこの「愛と死を見つめて」が一等、黒岩重吾くろいわじゅうご「青い火花」が佳作という豪華な顔ぶれである。

 さらに、同年、療養生活中に執筆した初めての長編「招かざる客」が、第五回江戸川乱歩賞の最終候補作となった。江戸川乱歩、大下宇陀児おおしたうだる長沼弘毅ながぬまこうきが選考委員を務め、満場一致で新章文子しんしょうふみこ「危険な関係」が受賞した。次点の「招かざる客」は選考委員のうち二名が文章力が劣っていると指摘をしたが、「おとすのは惜しい」という意見が一致し、出版にいたった。

 こうして、一九六〇年、同作を『招かれざる客』と改題ののちに刊行、笹沢佐保は小説家デビューを果たす(デビュー年の翌年からは「笹沢左保」に改名している)。自身の作家活動について、彼は「人間にとって忌むべき災難によって一生の職業」と語り、「宿命」となぞらえている。本書は長らく入手困難の状態であったが、二〇二一年十月、徳間文庫から復刊専門レーベル「トクマの特選!」が始動し、その第一回配本『有栖川有栖選 必読! Selection1 招かれざる客』として復刊された。現在の読者にはもっとも手に取りやすい叢書である。

 商産省のスパイとして話題になった職員の男性が、庁舎の非常階段で撲殺された。犯行時刻はすぐに割り出され、凶器も見当がついたが、現場は意味不明のメモくらいしか手がかりになりそうなものが見つからない。捜査が難航するなか、被害者の内縁の妻と間違えられた女性が、下宿先のガレージで遺体となって発見される。二つの事件は同一人物による犯行だとみなされ、ほどなくして同省職員が容疑者として浮上したが、アリバイを主張した後に交通事故死してしまう。

 第一部は事件の資料、第二部は初期作品に数回登場する倉田警部補視点で物語は進行してゆく。前半を資料にしたことで、現場状況や証言など、アリバイ、暗号、密室と、いくつものトリックを解き明かすための手がかりは申し分なく提示されている。第二部は刑事の視点で動くため、フィールドワークが中心となり、情緒的で小説としての要素が強くなる。トリックを見破ることが相当難しいことで評価に値される作品であることは間違いない。特に暗号は秀逸だ。

 だが、推理の素材として無理が生じている箇所がある。それは、「出産を経験した者ならば、腹部がさほど目立っていなくても妊婦かどうかが分かる」という場面だ。この論理は、たまたま作中の人物が気が付いただけにすぎない。安定期を過ぎているならば、身体の様子を見ただけで妊婦かどうか判断できるかもしれないが、やはりすべての経産婦には当てはまらないだろう。刊行時に「妊娠六カ月」くらいに変更しているならば多少の説得力がありそうだが、経産婦である筆者から見たら、首を傾げざるを得ない。

 欠点があるとはいえ、『招かれざる客』がミステリ愛好家たちに支持され、笹沢作品の中で一、二を争うほど人気が高い作品であることに異論はない。

 読みどころの一つとして、精巧につくられた犯人の背景が挙げられる。タイトルの意味が分かった瞬間には鳥肌が立つだろう。さらに、犯人特定の根拠に動機はさほど必要ではないが、小説の味わいとしては動機が欠かせないことがよく伝わってくる。謎解きだけが推理小説ではなく、真相が判明したあとに浮かび上がる事実に対する情緒まで含めてこそ、推理小説として描く意味がある。犯人の味わった無常感は、令和を生きる者たちのほうが、心に突き刺さるかもしれない。

 選評で「トリックというものを、私はあまり尊敬しない性分だ」と語る大下ですら、「感心させるほどのトリック」であったが、小説の面白さのほうが濃い作品ではなかろうか。先に小説、あるいは人物の骨組みがあり、トリックは後付けのように感じさせられる。乱歩が選評で触れた「近年の推理小説の傾向は、西洋でも日本でも、トリックの創意などよりも、小説としての面白さに重点が置かれるようになり、そういう作品のすぐれたものが続出している」うちの一作品である。

 初期の代表作として、一九六〇年、デビュー作の一ヶ月後に刊行された第二長編『霧に溶ける』も挙げられる。ミステリ愛好家たちからもっとも愛されている笹沢作品だといっても過言ではない。探偵役はおなじみの倉田警部補と、彼より年長の部下である岸田井刑事が務める。主人公は二十二歳の女性だ。

 膨大な報酬と特典で世間を賑わせている「ミス全国OLコンテスト」の最終予選が終了した。候補者五人に残った静子は、道ならぬ恋の相手との密会現場を隠し撮りされ、勤務先で失格を要求する脅迫電話を受ける。他の候補者たちは、自家用車の不具合による交通事故で重傷を負ったり、自殺か他殺か不明の状況で命を落としていた。唯一無傷でアリバイも曖昧な静子に疑いの目が向けられるが、捜査一課の倉田警部補は彼女の犯行ではないと直感していた。

 主人公は静子だが、他の候補者たちの視点に移る場面があるので、それぞれの女性たちの背景や心情が手に取るように分かる。どの女性たちも強くてたくましく、男性中心の世の中が変貌しつつあることを、作品をもって示している。密室やアリバイなど、謎解きに焦点を絞ると、監視社会の現在では成立させることは難しい。女性たちの行動、特に主人公からは、脇の甘さを感じさせられる。だが、事件の全容が見えた瞬間には、驚きと同時に精密に作り上げられた構成に屈服するだろう。語り手で読者の目を誤導するといった技は使用せずに、感情移入を操ることで真相から目を背けさせる。推理小説の軸となるトリックは二の次になってしまうほど、メロドラマとしての完成度が高い。

 あとがきで笹沢は「トリックや意外性に加えて、何か哀感のような、澱んだ感情のような、そんな余韻が残る題材と人物で、推理小説を書きたいと、念願しています」と語った。犯罪を「動」、男女の宿命を「静」とたとえ、見事に溶け合ったと作者自身も満足していることがうかがえる。なお、文中に出てくる「東都書房の原田裕さん」とは、後に出版芸術社を創立した原田裕はらだゆたかを指す。

「無冠の帝王」という表現も散見されるが、一九六一年、笹沢は前年に刊行された第四作『人喰い』で第十四回日本探偵作家クラブ賞を受賞している。今でいう日本推理作家協会賞で、水上勉みずかみつとむ『海の牙』と同時受賞だった。選考委員は日影丈吉ひかげじょうきち大河内常平おおこうちつねひら角田喜久雄つのだきくお渡辺啓助わたなべけいすけ城昌幸じょうまさゆき、中島河太郎、島田一男しまだかずお山田風太郎やまだふうたろうといった錚々たるメンバーである。他の候補作には、佐野洋の長編『透明な暗殺』と短編「金属音病事件」があった。もはや佐野にとって笹沢は宿敵といえよう。

 労働争議が続く工場に勤務する女性が、社長の息子と心中するという遺書を残して失踪した。二日後に、相手男性の遺体が発見されるが、女性の生死は不明のままだった。妹である花城佐紀子は、恋人で姉の同僚でもある豊島宗和を伴って捜索中、工場の火薬庫で爆発事件が起きる。

 一九七〇年に連続テレビドラマ化された本書は、姉の遺書の全文から物語が始まる。主人公の視点を通さず、別の文体で前提となる事柄を整理しているので、作品の世界に非常に入り込みやすい。相乗効果で臨場感が増して、どんでん返しの衝撃も強くなる。

 笹沢流のどんでん返しとは、思いもよらない方向に物語を導くというよりも、人物の表の顔と裏の顔との違いに焦点を絞っている。裏では人物Aと人物Bがつながっているなどといった、人間関係の意外性も含む。要は、登場人物たちが良い意味で読者を裏切ってくるのだ。

『人喰い』は、最後の最後まで結末を引っ張り、衝撃を加えた後、同じ釜の飯を食ったような者たちの意外な同志感で幕を閉じる。いささかユーモラスで、一ヶ月前に刊行されたキャラクターメインの第三作『結婚って何さ』も想起させられる。

 日本探偵作家クラブ賞の「受賞のことば」で、笹沢は『人喰い』を書くにあたって出版社の人から指示されたという「笹沢が書くべき推理小説の三要素」を記している。原文をそのまま写す。

 一、本格味を必らず作品の背景とするべきだ。本格派なのだから。
 二、本格味とロマンを融合させよ。男より女を描く方が馴れているらしいし、通俗性を持っているのも、ある意味では強味だ。
 三、本格味とロマンを融合させ、それにハードボイルド風なものを加えなさい。


 ここで言われている「二」の項目に注目したい。笹沢の持っている「通俗性」は、推理小説を数多くの人たちに抵抗なく読ませる武器ともなるからだ。後半は、本格味とロマンの融合に着目していく。

(次号「後編」につづく)

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》



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