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内田康夫『倉敷殺人事件』を片手に岡山県へーー【連載】名作ミステリーの舞台を訪ねて|佳多山大地
「ジャーロ」より、佳多山大地さんの連載『名作ミステリーの舞台を訪ねて』をお届けします。「乗り鉄」ミステリー評論家・佳多山さんが、テーマ作品に思いを馳せながら舞台を巡る、いわば“聖地巡礼”です。今回取り上げるのは、『倉敷殺人事件』(内田康夫・著)。岡山県に足を運び、倉敷アイビースクエア、備中松山城を訪れました。さあ名作ミステリーの旅へ。
名作ミステリーの舞台を訪ねて|佳多山大地
第4回
内田康夫『倉敷殺人事件』
■倉敷アイビースクエア(岡山県)
■備中松山城(同)
文・撮影=佳多山大地
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1
前回(泡坂妻夫『乱れからくり』)の金沢取材(*「ジャーロ82号」参照)から帰宅した次の日、新型コロナウイルスワクチンの三回目接種を無事完了。メッセンジャーRNAなる最新科学のからくりで、わが身の防御力を一段上げてもらったのだった。
――ところで、当連載の取材旅行の基本のキは、鉄道ファンにはおなじみ《青春18きっぷ》である。春・夏・冬と年三回発売される18きっぷは、現在のお値段一万二千五十円でJR全線を五日間乗り放題。もちろん、時間の都合から特急列車や新幹線、ときどきは飛行機も利用するだろうけど、元来が鉄道旅行を愛好する「乗り鉄」で、なかでも駅舎とそのロケーションの情緒特色を味わいたい「駅マニア」である僕には、このお得な通行手形がいちばん有用なのである。二〇二二年の春季18きっぷは、前回の取材旅行で二日分を、ワクチン接種のための移動で一日分を使用。残る二日分で、お隣のお隣の県、岡山に一泊二日で出かけてこよう。
2
二〇二二年の桜も散りはじめた四月七日、木曜日。わが家の最寄りのJR駅、吹田から鈍行で下ること二駅、新大阪で乗り換えたのは朝八時五十八分発の新快速・姫路行だ。この車中で狙って座るべきは、進行方向左手の窓際の席である。須磨駅から先は海が望めるし、明石駅の手前辺りで車窓にあらわれるのは日本最長の吊り橋、明石海峡大橋だ。大阪から向かう場合、かの海峡大橋は近づいてくるときより、通りすぎたあと振り返って眺めたときの姿がいい。海の青と空の青に、人の造った巨大な吊り橋の白が全然負けていないのだ。
十時八分、姫路着。乗り換えの時間はわずか一分だが、播州赤穂行の鈍行と接続している。んん、播州赤穂行……! 『倉敷殺人事件』(一九八四年、光文社カッパ・ノベルス初刊)のヒロイン、草西英が、父親である英俊寺住職、玉俊と会話する場面を思い出す。
「これ、タカハシって読むの? タカヤナと思った」
「やれやれ、近頃の者は日本の地理もろくすっぽ知らんのだから、困ったもんだ。有名な高梁も知らなかったのか」
「有名なの? これ」
「有名じゃないか。備中松山城のあるところだ。ほら、大石内蔵助が城受取りに行ったところだよ」
「ああ、あれがここなの……」
NHKの大河ドラマで、英もそのくだりは見て知っている。(後略)
『倉敷殺人事件』は、初期内田康夫が物した傑作のひとつだ。いわゆる「旅情ミステリー」の第一人者たる内田の金看板はやはり、『後鳥羽伝説殺人事件』(一九八二年)を皮切りに始まる浅見光彦シリーズ! しかしこちら『倉敷殺人事件』は、浅見と同様「名探偵」の誉れ高くとも人気面でずいぶん差が開いた岡部和雄警部が活躍する長篇作品である。
この岡部警部、警視庁にこの人ありと勇名を馳せる傑物なのだが、いかんせん脇に回ることが少なくない。内田康夫が自費出版で世に送り出したデビュー作『死者の木霊』(一九八〇年)に岡部は初登場しているけれど、このときからして警視庁の若き名探偵は、のちに「信濃のコロンボ」と呼ばれる竹村岩男・長野県警刑事のサポート役だった。『倉敷殺人事件』で狂言回しの役を務めて決定的証拠に目をつけるのはヒロインの英だし、岡部警部物のなかで僕が偏愛する『多摩湖畔殺人事件』(八四年)でも実際に名推理を働かせて犯人を追いつめるのは車椅子の素人探偵、橋本千晶嬢だもんなあ……。
ともかくも『倉敷殺人事件』の悲劇の幕は、岡部警部のお膝もと、警視庁管内で起こる。夜の新宿の路地裏で、五十年輩の男性が刃物で致命傷を負わされた。銀行勤めをしている草西英は、よろりと眼前にあらわれて倒れ伏した男性の末期の声を聞く。「タカハシノヤツ……」と、そう被害者は訴え、動かなくなった。この「タカハシ」を、ヒロインの英も警察も「高橋」という人名かと考えるわけだが、警察に先んじて英はそれが地名である可能性を疑い出すのだ。このへんの筋運びは、松本清張の『砂の器』(一九六一年)の「カメダ」を意識したふうでもある。
玉俊和尚が話題に出す備中松山城は、美濃岩村城、大和高取城と並んで日本三大山城のひとつに数えられる。この城にまつわる最も有名な歴史上のエピソードといえば、やはり大石内蔵助の城受取りになるだろう。江戸は元禄、当時城主の水谷家に世継ぎが生まれず、取った養子も早世したため、お家は断絶する。かかる事態を承け、赤穂藩主の浅野長矩が松山城を管理することとなり、家老の大石内蔵助(大石良雄)が城番として遣わされたのだ。言わずもがな、いずれ浅野家が例の騒動でお家断絶となり、赤穂城から内蔵助ら浅野家家臣が去ることになる因縁を思うと、なんとも皮肉な内蔵助の城受取りだ。
脱線気味の話を続けるが、現在までNHKの大河ドラマで赤穂浪士の討ち入りが題材となったことは、なんと四度も。ヒロインの英が観たのは、時代的に一九八二年放送の『峠の群像』(原作は堺屋太一、大石内蔵助を緒形拳が演じた)でまちがいないだろう。なんでも〝堺屋忠臣蔵〟には当時「たのきんトリオ」で人気絶頂だった野村義男のほか錦織一清、薬丸裕英といったジャニーズ勢が起用されていたらしく、英はそのうちの誰かが目当てでテレビの前に座っていたのかもしれない。
そんなこんなに思いを馳せつつ、播州赤穂に向かう支線、赤穂線に入る手前の相生駅で下車。山陽本線をさらに西進する電車に乗り換え岡山まで行くと、ここから瀬戸大橋を渡って四国に入るとき通過してばかりだった児島駅にちょっと寄り道を。同駅のホームに降り立つと、まず天井から吊り下げられた駅名標がジーンズ色だ。三階のホームと地上階を結ぶエレベーターの外囲いもジーンズ柄なら、自動改札機の開閉扉にはジーンズ生地そのものが貼られている[写真①]。じつに国産ジーンズ発祥の地である児島の町にふさわしい玄関口である。一年三百六十五日のうち、冠婚葬祭の日でなければジーパンで過ごす身としては、一度は訪れてみないといけない駅だったのだ。
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できればベティスミスのジーンズミュージアムに足を運び、さらに地元のジーンズショップを回ってみたかったのだけれど、肝腎の取材をそっちのけにはできない。駅舎撮影後は、ふらりと入ったお好み焼き屋で下津井名物のタコが入った焼きそばを賞味し、駅に引き返す。おっと、児島駅のホーム南端から、鷲羽山がよく見えることはここに記しておかないと。『倉敷殺人事件』のヒロインは、物語も大詰めで鷲羽山にドライブをしている。瀬戸内海の景色を堪能した帰り道に、それはそれは危険な目に遭うなどとは思いもよらず――。
児島駅を午後一時四十分に出る快速マリンライナーで、再び岡山駅へ。そこから鈍行で、倉敷着が二時二十五分。南口を出て歩くこと十分少々、倉敷美観地区のまさに入口に建つ倉敷国際ホテルにチェックインだ。かの棟方志功が制作した巨大な木版画[写真②]をロビーに展示している同ホテルは、皇族もたびたび利用する格式あるホテルで、僕にはいささかハードルが高い。まあでも、ヒロインの英もここに泊まったんだから(妹の薫に「倉敷でいちばん高級なホテル」だと自慢している)、贅沢にも言いわけが立つというものだ。部屋で荷物を軽くしてから、いざ美観地区へ。
そして、倉敷のヒットプランといわれる『美観地区』に一歩足を踏み入れると、その計算され尽くした街づくりの効果は心憎いばかりだ。倉敷川の石垣。船着き場を整備した歩道。柳並木や萩の植込み。それらを挟んで両岸に建ち並ぶ倉屋敷や、格子戸のはまった昔風の証券会社。茶屋のような雰囲気の料理屋と喫茶店。明治・大正の面影を残す考古館や美術館――。どれもこれも、訪れる者の心を和ませる優しさで、ひっそりと、控え目に迎えてくれるのだ。
美観地区には、ヒロインの英が入ったお食事処「カモ井」がある[写真③]。英の食べたフルーツパフェはさすがに男一人だと注文しにくいが、今日の取材がひととおり終わってからここでコーヒーを啜ってもいいな。
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そうそう、言い忘れていたけれど、僕は倉敷の美観地区に来るのは初めてじゃあない。尤も、水島臨海鉄道に乗るため倉敷を訪れた際に寄り道をした程度で、倉敷川からすこし離れたアイビースクエアはまだ内田の小説の中でしか知らない。東京は新宿で起きた刺殺事件とまるで関係などありそうもない毒殺事件が、遠く離れた岡山県は倉敷紡績の創業工場だったアイビースクエアで二日後に発生するのだ。その女性が、人出の多い日曜日のアイビースクエアにいつ姿を見せたのか正確に記憶している者はいない……。
カンジュースは二つあった。どちらもプルトップが開けられ、ストローが差し込まれていたところを見ると、もう一人連れがあって、あとからやって来ることになっているらしかった。
事実、女性はときどき入口のほうへ首をめぐらせて、明らかに人待ち顔であった。
(中略)
そろそろ十一時になろうかというころだったという。とつぜん、若い女性が立ち上がり、喉のあたりをかきむしるようにして、何やら意味不明のことを叫んだ。
目をひん剥き、苦しげに帽子を掴み取った。前かがみになって、口から血反吐を吐いた。それから、ドターッという感じで後ろへひっくり返り、椅子から尻を外して煉瓦敷きの地面に横ざまに倒れた。その際、頭を打ったのかもしれない、しばらくヒクヒクと蠢いていたようだったが、そのうちにピタッと動きがやんだ。
読み返してみて、これほど細緻陰惨な描写がされていたことに驚いた。殺害現場が大勢の人で賑わう広場なだけに、忌まわしくも〝残酷美〟を感じさせる鮮烈な一幕だ。
僕が訪れた金曜の昼下がりは、ほとんど人気がなかった[写真④]。これ幸いと、背負っていたメッセンジャーバッグを適当なテーブルの上に置き、広場に自分のほか誰もいなくなったときを見すまして煉瓦敷きの地面に横ざまに寝そべってみる。春の陽光に照らされた地面は、ほかほかと暖かい。
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ああ、こうして広場に倒れた若いOLは、薄れゆく意識のなかで自分がなぜ彼に毒を盛られたのかと考えただろうか? いや、とてもそんなことにまで頭は回らなかったろう。だがしかし、夜の新宿の路地裏で暗躍した犯人は、そのわずか二日後にここ、白昼の観光地で第二の殺人を急ぐ必要に迫られたのだ――。
煉瓦敷きの地面をタッ、タタッタッと駆ける音が近づく。まずい、と思ったときはもう遅く、「どうしましたっ!」の声。首だけ捻って見上げると、竹箒を片手に、おそらく壁の外周の掃除から戻ってきたらしい施設関係者だ。よいしょ、と立ち上がり、何でもないとごまかしても心配をかけるだけなので、正直に『倉敷殺人事件』の話をする。「……ハア、その小説のことは知ってますけど、横になってまでいたお客さんは初めてですよ」と呆れ顔だ。照れ隠しに、すでに行き方はわかっている倉敷総鎮守・阿智神社への道を聞いてからアイビースクエアをあとにした。
このあと、阿智神社をお参りしてから再び美観地区の中心部に戻り、星野仙一記念館を訪ねようとして空振りに終わったりするのだが(五ヶ月前に閉館していた)、そのへんは思いきりよく割愛ということで。
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3
取材二日目の朝。やっぱりホテルの値打ちは、朝食のビュッフェに(とりわけデザートの充実に!)如実にあらわれるんだなあ。今日はちょっとした山登りになるから、たっぷり食べておかないと。
倉敷駅を朝八時三十八分に発つ伯備線・備中高梁行の車内は、通学の高校生男女でいっぱいだった。それとても彼らが二駅先の総社で降りてからはガランとしたもので、高梁川に沿って電車はガタゴト進む。途中、備中広瀬駅の近くに架かる玉川橋を車窓から確認。件の橋の上から、倉敷に電車通勤する会社員が、やや上流の淀みに浮かぶ小舟の上に不自然に倒れた男がいるのを発見する。後頭部を割られていた彼は、新宿と倉敷で連続発生した殺人事件の有力な容疑者として浮上していた人物だった。問題の小舟は、高梁川のさらに上流、新見市内の川縁の集落から盗まれたもので、その傍の川原には被害者の血痕が残る漬物石大の石が転がっていた。殺人者はなぜか凶器の始末もおろそかに、盗んだ小舟に死体を隠すでもなく乗せて川に流したらしい……? この第三の殺人における犯人のアリバイ工作は初歩のトリックのバリエーションなのだが、〝有力な容疑者が逃亡した〟との知らせが岡部警部の部下たちに伝わる場面のストーリーテリングの妙で、マニア筋の目をも眩ませるのである。
九時十三分、備中高梁着。お得な乗合タクシーにて、備中松山城観光の拠点、ふいご峠まで上がってもらう。そこから歩いて天守までは約七百メートルの道のりで所要時間は二十分くらい……だが、峠の看板に「遊歩道入口」と案内してあるのは偽りあり! 遊歩どころか、これが予想していたより全然キツイ。新型コロナ及びスギ・ヒノキ花粉対策のマスクを顎まで下ろして登っているが、それでも息が切れる。
ふうふう。ようやく二の丸の手前まで上がってきたところで、城内の見回りをしている猫城主さんじゅーろーと遭遇。もともとは、とあるお宅の飼い猫だったが、二〇一八年七月の西日本豪雨災害のおり、山中をさまよったすえ辿り着いたお城にすっかり居着いてしまったという。同年十二月、正式に「猫城主」に就任。カメラを向けても悠然たる態度で、しっかり目線もこちらにくれる。
天和三年(一六八三年)に建てられたと伝わる天守をじっくり観覧し、帰路に就く。城山の下りは、車に頼らない覚悟を決める。登りに比べて体は楽なのだけれど、足もとの道の悪さはむしろ下るときのほうが危うい。ときどき足首をグネッと持っていかれそうになるので、慎重にブレーキをかけながら山道を下りていく。――と、前方の路傍に、大きな石がゴロゴロと集まっている場所がある。近づいて、立て札を見ると「播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛岩」とあった[写真⑤]。なんでも、城受取りのため一年と七ヶ月ものあいだ城地を調査した大石良雄は、この岩に腰掛けて休息を取ったのだとか。
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確かに、おあつらえ向きな岩である。両方の臑にちょっと痛みが出だしていた僕は、歴史の重みを感じる腰掛岩に腰を下ろした。バッグから取り出したペットボトルの炭酸水をぐびぐびっと飲み、気兼ねなく大きなゲップを吐く。と、そのうち日陰の石の冷たさが、ジーパンの布ごしに尻に伝わる。大石良雄の腰掛岩だなんて、まるで洒落みたい。
取材か、そもそも観光か、きっと備中松山城を訪れたはずの内田康夫も、ここに腰掛けて一息ついたと想像する。昨日訪れた阿智神社は『倉敷殺人事件』のエピローグの舞台で、その境内には物珍しい古代庭園の石組が点在していて警視庁刑事は興味津々だった。思えば『倉敷殺人事件』の物語は、作中に登場しないこの腰掛岩まで含めて石尽くしである。お寺の娘であるヒロインの英は、仏教系の大学に入りながら専攻したのは地質学。学生時代、岩石の研究のため山歩きをした彼女の知識が、ついに鉄壁のアリバイを持つ殺人者を追いつめるのだ。
かのシャーロック・ホームズも地質学の知識は「限られてはいるがきわめて実用的」(コナン・ドイル『緋色の研究』延原謙訳より)だったとワトスン医師は記している。岩石に関する知識の点で、警視庁の名探偵岡部警部は、素人探偵の英に一歩先んじられたのだ。腰掛けている大きな石の座面を、そっと撫でさする。――この石、なんて名前なんだろう?
《ジャーロ No.83 2022 JULY 掲載》
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『倉敷殺人事件』内田康夫
■あらすじ
「タカハシノヤツ……」夜の新宿で恋人とデートをしていた草西英の前で、中年男が死の伝言を残して死んだ。男は富山県にある養護学園の園長代理だった。警視庁・岡部警部は、英からの通報をもとに捜査を始める。やがて新宿の事件は、倉敷のアイビースクエアで起きたOLの服毒死と繋がる――。美しい倉敷の風物を背景に、東京、富山にまたがる謎に挑む旅情推理の傑作!
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#今日のぼく。 毛づくろい、毛づくろい。 今日は雨予報だったけど、あんまり降らなかったからお外にも出られたにゃん😸 先日は全国的に大雨に見舞われて、高梁もたくさん雨が降ったけど、備中松山城は被害はなかったにゃん🏯 みんにゃも大丈夫だったか...
Posted by 備中松山城 猫城主 さんじゅーろー on Thursday, July 21, 2022
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