見出し画像

小路幸也さん『失踪人 磯貝探偵事務所ケースC』冒頭試し読み

5月22日発売『失踪人 磯貝探偵事務所ケースC』の冒頭試し読みを公開します!試し読みを読めるのはこのnoteだけ!!
本作は〈銀の鰊亭〉から始まるストーリーの三作目!「東京バンドワゴン」シリーズと同様、「チーム」ができていく過程も楽しめるミステリーです。
それでは、冒頭試し読みをお楽しみください!



『失踪人 磯貝探偵事務所ケースC』冒頭試し読み

「以上が調査結果報告となりますが、何かご質問や確認したいことはありますか?」
 ソファに座り、報告書を両手で持ったままテーブルの上に広げた写真を凝視している依頼人に、言う。
 唇が、真一文字に結ばれている。
 手が細かく震えたりは、していない。
「夫は、間違いなく、浮気をしていたということになりますよね」
 低く、小さな声で言う。プリントした写真を凝視したままだ。
 写っているのは、彼女の夫と、夫の同僚である女性が中央区の川沿いにある小さなホテルに入っていく瞬間などだ。
 このホテル、一応はビジネスホテルという体裁なのだけれども、実質はご休憩中心のラブホテルになってしまっているというややこしいホテルだ。けっこう昔からあっていかにも古めかしい雰囲気になっているのだけど、これがなかなか潰れそうで潰れない。
 そこに、二人は入っていった。
 もちろん、出てきたときの写真もある。
「報告書にも記載しましたが、調査期間内に確認できたのは、二人がこのホテルに行って入室し、おおよそ三時間後に二人で出てきたという事実だけです。中で何をしていたかは、確認できませんでした」
 問い詰めても、いや二人で部屋の中でオセロをやって出てきたんだ、と言われてしまったら、それを噓だとは示せない。
「しかしまぁ、ご休憩でホテルに入ってやることはただひとつでしょう。充分に浮気の証拠だと言えると思います」
 もうひとつ、一連の写真があってそちらにはマンションの一室に入っていく夫の姿がある。もちろんそこは同じ女性の部屋だ。こちらも中でお茶を飲んで帰ってきたと言われても噓だと証明はできないが。
「この人の住所とか、名前がどこにも書いていないんですけれど」
「それは、個人情報やプライバシーの問題になりますので、私たちとしては教えることはできないんです。あなたが推測した通り、同僚の女性だったのは確かだったということだけで」
 本当でもあり、噓でもある。
 そもそも個人情報保護法というのは、ものすごい人数の個人情報を扱う企業などが対象だ。私立探偵が扱う人数なんてたかがしれているので、保護法の対象外。
 そして浮気調査をしてその相手が誰だったかというのを伝えることは、依頼人が婚姻関係にある者ならば、探偵の業務内ということでまぁ法的に曖昧な感じではあるものの、許されてはいる。
 だから、教えてもいい。もちろんこの女性の氏名や住所、法を犯さない程度で調べられるプライベートな部分も一応確認はしている。
 けれども、今回は実際の浮気現場を、つまりセックスしてるところを確認できてはいない。その場合は、たとえ夫の浮気を調べてほしいと言ってきた妻であっても伝えられないと言うことにしている。
 それはもちろん、この奥さんが夫を問い詰めるのをすっ飛ばしていきなり女のところに押しかけて刃傷沙汰、なんていう修羅場になるのを避けるためにだ。
 まぁ同僚だっていうのがわかっているんだから、奥さん自身が調べようと思えばできるんだろうけれど、そこは元警察官としては線を引かせてもらう。
「奥さん」
 依頼人を名前で呼ばないのは、私たちは必要以上に踏み込みませんよ、という意思表示でもある。
「取り決めた調査期間内で調べられたのはここまでです。もしも、確実に浮気をしているという具体的な現場証拠写真などが欲しいのならば、さらに調査期間を設けていただくことになりますが、あまりお勧めはしません」
 今回よりももっと長い調査期間が必要になる。あるいは、最新の機器と強引で金のかかる、たとえば何らかの口実を使って同僚の女性の部屋に上がり込んで、隠しカメラやマイクを仕掛ける、なんていう手段を行使することになってしまう。
 もちろんそれでもお願いしますと依頼をされたらするんだが。その方がこちらとしても潤うことは間違いないが。
「これだけでも充分に浮気の証拠と言えます。この先この調査結果を使ってあなたがどうするのかは私たちが関与するところではないのですが、この報告書を使って旦那さんを糾弾し離婚などを望むのであれば、弁護士を雇うことをお勧めします」
「弁護士」
 そう。
 弁護士。
「私たちは私立探偵です。できるのは、こうやって調査することだけです。法的な相談はできませんし、事態の解決にもお金を積まれても関与はできません。もしもこの結果を踏まえて旦那さんと別れる意思がおありならば、弁護士に頼むことです」
 これ以上探偵に金を使うぐらいなら、弁護士に使った方がずっと有意義な結果になる。何をもって有意義とするかは、個人の解釈にもよるんだが。
 実はこの隣にいる若者の父親は有能な弁護士です、とは、この場では言わない。弁護士さんを紹介してくれますか、と、頼まれれば、知人程度の間柄ですがこの人に頼んでみてください、としている。
 持ちつ持たれつ、だ。
 ひかるくんの父親であり、同好の士でもある桂沢満かつらざわみつる弁護士からも、実は何本か仕事を回してもらっている。

「写真データは渡さないんですね」
 依頼人が帰っていくのを見送って、光くんがテーブルの上の写真をまとめながら言う。
「いや、頼まれれば渡しますよ」
 USBメモリなどに入れて。
「メールやLINEとかでは送りませんけどね」
「ネット上に何らかの形でデータが残ってしまうから、ですね?」
「そうですよ」
 プリントした写真は全て渡したので、デジタルに残したいのであれば自分のスマホでこのプリントした写真を撮ってくださいと言っておいた。
「まぁいずれにしてもネット上に残ってしまう可能性はあるんですけど、そこから先はもうこちらの責任範囲外ですから」
 昔は良かった、なんていう話も聞く。調べたことは本人の頭の中と紙と印画紙にしか残らない。そこさえ押さえておけば、どんな情報も漏れることはない。
「でも、逆に言うと今でもアナログしか使わなきゃデータ漏ろう洩えいの可能性はグンと減るってことですよね」
「そういうことです。なので、そういう依頼も扱えますよ」
 フィルムカメラも取り揃えております。暗室での現像もできるようにしました。アナログと言うのには多少微妙だけれども、カセットテープしか使えない録音機材もあるしネットに一切繫がっていないワープロとして使うパソコンもある。
「一人ではまかないきれない依頼に対しては、父親が弁護士という口の堅い大学生のアルバイトも雇えます」
 光くんが笑った。
「しかも、カメラが得意な女子大生もいますからって?」
「その通り」
 ひかるちゃんと光くんで恋人同士を装って、いや装う必要はまったくなかったのだけれど、二人で尾行してもらったこともあった。
 今回は、夏休みで暇を持て余していた光くんに手伝ってもらった案件で、仕事の最後まで立ち会ってみたいというのでここにこうしている。依頼人は最後まで大学生のアルバイトだとは思わずに、若い探偵さんだと思っていたはず。
「ファイル、片づけますね。そこに入れるんですよね」
 机の後ろに置いた木製の書類入れ。キャビネットと言った方が通りがいいのか。
「あ、これも一緒にしておいてください」
 経費計算書や領収書のコピーなどもまとめて渡す。
 光くんが、A4のコピー用紙の報告書と依頼人の受取り書、証拠写真のプリント一式を紙フォルダに入れて、ファイルキャビネットを開けた。
「〈ケースA〉ですよね」
「そうです」
 いちばん案件が多いであろう〈浮気調査〉を分類上〈ケースA〉とした。前回の〈ケースA〉のフォルダナンバーは21。
「22番目ですから、マジックで端にそう書き込んでください」
「はい」
 マジックで紙フォルダの端に22と書き込んで、光くんが入れる。
「二十二回目の浮気調査ですか」
「そんな歌がありますね」
「それは〈22才の別れ〉です。結構な数ですよね一年半で二十二回って」
「まぁ、結構と言えば確かに」
 開業してから一年半が過ぎたのだから、ざっくり一ヶ月に一回以上三回未満必ず浮気調査をしてきたってことだ。
「けれども、この二十二件の浮気調査の内、実際にしていたのは十八件、だったはずですよ」
「十八件。え、じゃあその他は」
「未遂、とでも言いますか」
 確か四件は浮気ではなかった。確かめられなかった。
 本人たちの気持ち的にははっきり浮気だったのかもしれないけれど、二人とも不貞行為を、愛情を一切行動に移していない以上は、浮気をしたとは言えない。
「つまり、セックスはおろかキスやハグどころか手さえも繫いでいないという関係性でした。あくまでも調査期間内の話ですけどね」
「プラトニック・ラブ」
 少し驚いた顔をして光くんが言う。
「そうですね。若い人もその言葉は知ってるんですね」
「わかりますよ。え、それは、浮気ではないんですか」
「違う、と判断されます。お父さんに聞いてみてください。その場合、弁護士としてはどう処理するか」
 現実的には、具体的な行為がない以上は、たとえ二人が愛し合っていたとしても、二人がそれを認めたとしても浮気とは判断できず、離婚のための裁判をしても負ける場合が多い。というか、弁護士さんたちもそういう案件では仕事を引き受けないはずだ。どう考えても闘えないと判断する。
「覚えておいた方がいいですよ」
「いや、覚えてもしょうがないですよ。まだ独身だし浮気なんかしないと思うし」
 確かに光くんはそういうタイプではないか。
 しかし、それで稼いでおいてその言い草はどうかと思うが、どうして皆そんなに浮気をするんだと思う。配偶者以外の人に恋をしてしまう気持ちはわからないでもないが、どうしてその先の行動へ移してしまうのか。
 移さない方がいいですよ、と言いたい。どんなトラブルが待っているか教えてあげましょうか、と。扱ったものでいちばんひどかったのは、車で相手の女性をいた事件で、もう少しで殺人事件にもなっていたのがありますよ、と。
「〈ケースB〉もけっこうあったんですね。12もある」
「ひかるちゃんが手伝ってくれたのも〈ケースB〉ですね」
〈ケースB〉は身辺調査。
 ついこの間のは、年取った母親がいきなり再婚すると言い出したので、相手を調べてくれという息子からの依頼だった。多くはないが母親には財産があって、それが目当ての結婚詐欺か何かではないかと。
 そういうのも、意外とある。
「後は、ないんですね」
「ないです」
 今のところは。DからYまではフォルダさえ作っていないし、そんなにたくさん仕分けするほど探偵の仕事はバラエティに富んではいない。
「〈ケースC〉が失踪人」
「ひとつだけ」
 まだ一件しかない。
 あの開業してほぼ最初の案件になった失踪人捜しが唯一のものになっている。あれが終わってからの仕事は浮気調査と身辺調査のみだ。
「大体そんなものですよ。一人でやってる私立探偵の仕事なんて」
 他人様ひとさまの暮らしを覗き見して、調べるのがほとんど。
「いなくなった猫は捜さないんですか」
「依頼があれば捜しますけど今のところはありません」
 犬猫捜しますと看板を掲げればそれなりに依頼が来るかもしれないけれど。
「今のところは、人間相手の方が得意ですからね」
「あれ? 〈ケースZ〉って何ですか。それだけ場所作ってありますけど」
 そう、ケースABCの後は、Zのフォルダだけ作っておいた。
「それは最悪って意味と、まずあり得ない案件だろうってことでZとしました。洒しや落れ のつもりです」
 Z、って光くんが呟く。
「つまり、殺人事件ってことですか?」
「そう」
 刑事の頃には何度か当たった。
「でも、私立探偵が殺人事件の捜査を請け負うというのはあり得ないですからね」
 それは警察の仕事だ。私立探偵が殺人を捜査するのはフィクションの中だけ。
「あ、でも迷宮入りしている殺人事件を、被害者の関係者が解決依頼をしに来るというのは、あり得るんじゃないですか?」
「それは、確かに」
 可能性としてないわけじゃないけれども。
「でもそれも物語の中だけでしょうね。少なくとも刑事をやっている間にそんな話は聞いたことないです」
 そして、迷宮入りの殺人事件というのは、密室とか不可能殺人とか解決のためのとんでもない推理力などを、現実には大抵の場合は必要としない。
 ただ単純に、誰が殺したのかがわかっていない、わからなかった、というだけの話だ。地道な捜査を重ねてもわからなかったのなら、あと必要なのは運だけ。そしてめちゃくちゃ運がいい探偵などは存在しない。もしもいたならそんな奴は探偵なんていう仕事はしていない。
 たぶんだけど。


光くんが帰っていって、そろそろ陽射しが和らいでくる午後三時。おやつの時間でちょうどいいことに事務所を訪ねてきた依頼人にお出しするために買っておいたチョコチップクッキーがある。これはもうそろそろ食べてしまわないと。
 落としたコーヒーも残っているし、ソファに座ってクッキーを食べて、コーヒーを飲む。ぬるいけれど、ちょうど良い。
「うん」
 ソファに座ると空しか見えない窓の外を眺め、軽く息を吐く。
 抱えている案件がなくなってしまった。
 今月七月の依頼はこの一件だけだった。一件でも期間が長かったので、光くんにバイト代を払ってもそれなりの実入りはあった。忙しかった先月の蓄えもあるから、このまま今月は何も仕事が入らな
くても飢える心配はない。二、三ヶ月先までは家賃の支払いも大丈夫だ。思いっきり節約すれば、今年の冬を越すまでは、家賃だけに限れば何とかなるだろう。
「そうだ」
 今も静かに音を立てているエアコンをどうするかという問題が残っていた。
 去年の夏の暑さは本当に異常で、この北海道の札幌さっぽろで三十度を超える日が二十日間も続くなんていうのは、誰一人想定していなかったと思う。
 いや確かに天気予報では言っていたのだけど、まさかな、だった。
 三十度を超える日は、確かにある。
 この大地全てが日本の避暑地と言っても過言じゃない北海道の、札幌でも毎年三十度超えの日は確かに何日かあって、つまり寝苦しい熱帯夜の夜だって数日はある。
 そう、数日だ。それがここ十年ぐらいのスタンダードだった。つまり、エアコンを導入したところで、それがフル稼働する日も数日だった。きっと長くても七日程度。後は、窓を開けていれば風が通り抜けて、何とか過ごせるというのが常識。
 だから、こちらの一般家庭のエアコン普及率はたぶん多くて三割程度。
 今年も、かなり暑い時期が長くなりそうだと天気予報が言っている。そしてこの事務所に取り付けられているエアコンはビルの備品ではなくて、前の借り主が設置したものがそのまま置かれて、使っている。かれこれ十年は使っているそうで、かなりガタが来ているのは間違いないし、何よりも冷え
ていない。
 多少は冷たい風が来ているのは感じるのだが、明らかに冷えていない。実際窓を開け放ってドアも開けてしまえば風が通り抜けて体感的には涼しく感じるし、そもそも依頼人がやってくるのは一週間に二人あれば良い方だ。そして三十分も部屋にはいない。
 そのためだけに何十万もするエアコンを新しく導入するのは、どうか。
 悩みどころになっている。今月来月を乗り切ってしまえば、後は涼しくなる一方なのだから。
「数少ない依頼人には我慢してもらうしかないか」
 現状、エアコンを買うのは、さすがに厳しい。
 机の上に置いてあるiPhoneが鳴る。着信。
 急いで立ち上がって手に取る。ディスプレイに〈青河文あおかわふみ〉の文字。
 文さん?
 光くんの叔母おばさん。
 珍しい。
「はい、磯貝いそがいです」
(文です。今電話大丈夫ですか?)
「いいですよ。どうしました? 光くんなら今帰っている途中ですけれど」
 たぶん、小樽おたるに向かう高速道路上を走っている。もちろん高速料金はこちらのバイト代に含めてある。それを節約するために一般国道五号線をひたすら走っているかもしれないけれど。
(あぁ、違います。光くんならさっき連絡ありました)
「そうですか」
 文さんからの電話というのはひょっとしたら初めてじゃないだろうか。仕事というか、案件の関係以外では。
(今は、お仕事忙しいですか。光くんがバイトした件のは今日で終わりと言っていたけれども)
「そうですよ。その件は終わりました。そして今月は他の仕事は入っていません」
 堂々と言うことではないが、事実。
(良かった。実は、お願いしたいことがあるんです。お仕事です)
 仕事。
「文さんからですか?」
(いいえ、友人なんですけれど、ちょっと探偵さんに頼むしかないかな、というものがあって、磯貝さんを紹介したいなと思って)
「ありがたいですね。どんな件ですか」
 文さんの友人なら三十過ぎの女性か。浮気調査か、身辺調査か。
(詳しくは、本人、依頼人になる彼女から聞いてほしいんですけど、失踪した人を捜してほしいの)
「失踪ですか」
 そして依頼人はやはり女性。失踪人捜しはろくなことになりそうもないのだけど。
「もちろんいいですよ。依頼人の方は、事務所に来ていただけますか? それとも僕から直接連絡しましょうか」
(ごめんなさい。うちに来てもらえますか)
ぎん鰊亭にしんてい〉に?
(彼女、事情があってあまり人前に出られないの。いきなりですけど、明日の夜って空いてますか)
「空いてますよ」
(じゃあ、彼女うちに一泊させるので、明日の夜に話をさせてもらっていいかしら)
「了解しました。それは僕もお泊まりさせてもらっていいってことでしょうか」
 笑う。
(もちろんですよ。夕ご飯も朝食も用意しておきますから)
 それは、ありがたい。
「万難を排して伺います」
 電話を切る。小樽の高級料亭旅館〈銀の鰊亭〉には何度もお邪魔しているが、あそこで食事をして泊まるというのは、本当に良い気持ちになる。日頃のストレス解消とかそういうものにはもってこいだと思う。
「失踪人か」
 依頼人は女性。あまり人前に出られない、とはどういう事情かと考えてしまった。
「何かの病いかな」
 それがいちばん適当なものか。それ以外にはあまり思いつかない。まぁ明日会えばわかることだ。
 長期間の調査が許されそうな依頼人だったら、エアコンを新しくできるぐらい稼げるかもしれない。

***

 え。
 一瞬身体が固まってしまった。武道家と対峙していたならそのコンマ何秒かの間で地面に叩たたき伏せられるぐらいに。
〈銀の鰊亭〉の別邸ではいちばん小さな〈星せい林りん屋や 〉のリビングルーム。
 西條真奈さいじょうまなが、そこにいた。
 女優の、西條真奈。
 十代の若者から九十代のご老人たちまで、写真を見せれば誰もがすぐにその名を呼べるほどの人気女優。
 間違いなく今が旬の女優さんだ。
 去年の朝ドラマのヒロインもやっていて、かなりの高視聴率を叩き出していた。リアルタイムではなくネットで観ていたけれども、ドラマ自体脚本も素晴らしかったし、彼女の演技も本当に良かった。
 透明な美しさと、庶民的な魅力の両方を兼ね備えた西條真奈。誰もが、この先の彼女が国民的女優になっていくことを疑わないだろう。
 その西條真奈が、依頼人?
「驚く気持ちはわかりますけど」
 文さんが言う。
「あぁ、すみません」
 後ろには文さんがいたんだった。その場で止まってしまっていた歩みを進め、平静を装ってゆっくりと彼女の正面に座る。
 そうか、〈星林屋〉のコンセプトは和洋折衷わようせっちゅうなのか。それで、畳の上に絨毯じゅうたんを敷いてクラシカルな椅子とテーブルが置いてある。
 それこそ、明治時代を描く映画のセットのようだ。
「初めまして、西條真奈です」
 画面の向こうから何度も聞いた声。頭を下げる仕草。少しばかり緊張しているかのような面持おももち。
 全てが演技に見えてしまうけれども、そんなことはない。ここにカメラはない。これが素のままの西條真奈さん。
「私立探偵をしています。磯貝です」
 名刺を出して、テーブル越しに渡す。それを受け取り、眺める。
「私は、本名は最上もがみ真奈と言います」
 もがみさん。すぐにメモ帳を取り出した。
「もがみ、は、山形県の最上川の最上ですか」
「はい、そうです」
 確認をしてからメモを取る。まぁさすがに驚きはしたが、こんなことぐらいで動揺していては刑事なんかやってられない。
 辞めたんだが。
「すると、芸名の〝西條〟というのは本名の〝最上〟を音読みにして字を換えたような形ですか」
「そうですね」
 少し、微笑ほほえむ。
「わりといい加減に考えてしまいました」
 自分で考えたのか。そもそも彼女はどうやって女優デビューしたのか。その辺のことはまったく知らない。
「それで、文さん」
「はい」
 文さんは、少し離れて西條さんの隣に腰掛けている。
「依頼の話をする前に、何故女優の西條真奈さんと文さんがご友人関係なのか、教えてもらえますか」
 あら、と、文さんが少し首をかしげた。
「磯貝さん、芸能界に詳しいんじゃなかったんですか」
「いや、そんなになんでもかんでも詳しいわけじゃないですよ」
 確かにアイドルオタクですけれども、女優さんに関してはごく普通の、一般的な知識しかないです。
「西條さん、最上真奈さんは小樽生まれですよ」
「あ、そうだったんですか」
 それは、まったく知らなかった。同じ北海道の出身だったのか。
「でも、ね」
 ね、と言われて西條さんが頷く。
「こっちにいたのは中学校までで、高校からは東京だったんです。それで、文ちゃんとは幼稚園から中学までずっと一緒で仲良しだったんですよ」
「同級生」
 幼馴染おさななじみじゃないか。どうしてもっと早くに教えてくれなかったんですか、と言いそうになった。
 そうだった。文さんはあの火事で、記憶のほぼ全てを失っているんだ。それは未だに回復していない。西條さんが幼馴染みの仲良しというのも、きっとまるで覚えていなかったんだろう。
 文さんを見ると、小さく顎を動かす。
「一ヶ月ぐらい前に、連絡を貰もらったんですよ。久しぶりって。確認したら二年ぶりぐらいでした」
「二年ぶりということは」
 はい、と、西條さんが頷く。
「文ちゃんの、ここの火事のことは初めてそこで知ったんです。文ちゃんの記憶喪失のことも」
 なるほど。文さんが、続けて言う。
「お仕事をする上でも大事なことでしょうからお伝えしますけれど、間違いなく西條さんは私の幼馴染みで、同級生ですよ。アルバムとか私の日記とかでも確認しましたし、姉にも訊きました」
 依頼人の身元の確定。それはもちろん重要な部分だ。それが曖昧だと困るけれど、西條真奈さんの身元はもちろん、何故ここでこうしているのかというのも、納得。
「それで、人前に出られないから、ですか」
 これも納得だ。
 里帰りになるのだろうから、人気俳優がオフに小樽にいても何も問題はないだろうが、札幌の私立探偵事務所に足は運べないだろう。
「幼い頃からの友人の家に、しかも高級料亭に足を運ぶのなら、いくら目撃されても勘ぐられても問題ないですね」
「わざわざすみませんでした」
「いいえ、とんでもない。僕もここに来るのを楽しみにしていますし、わりとしょっちゅうお邪魔していますからね。何でもないです」
 それで、だ。
「ご依頼の件ですが」
 はい、と、表情を引き締めて西條さん、いや最上さんか。本名で考えた方がいいだろうな。最上真奈さんが、ゆっくりと頷く。
「姉が、いなくなってしまったんです」
 お姉さん。
「実の姉です。名前は最上紗理奈さりなです。これは、姉が仕事をしていたときの名刺です。資料としてお渡しできます」
「いただきます」
 ごく普通のシンプルな名刺。最上紗理奈さん。
 知事の秘書?
「北海道知事の秘書をなさっていたんですか」
 そうです、と、頷く。
「姉とは四歳違いです。ですから、今は三十五歳。知事の秘書になったのは二十九歳のときでした」
 六年間ほど知事の秘書を務めていたのか。
 今の北海道知事は、坂東泉ばんどういずみ。年齢は確か六十歳かそれぐらいだったはずだ。北海道では初めての女性知事で今期で二期目、だったかな。
 政治にはあまりというかほとんど関心がないのでよくわからないが、知事としては可もなく不可もなく、という感じだったはず。
 ただ、どこにでもいるおばちゃんのような庶民的な風貌ふうぼうと明るい人柄で好かれ、庁内でも評判は良いと刑事時代に聞いたことがある。
「しかし、現役の知事の秘書が失踪となると、ニュースになっていてもいいはずですが」
 何も聞いていない。
「二ヶ月ぐらい前です。正確には五月の十九日。私の携帯に秘書課の方から電話があったんです。姉と連絡を取りたいのだけど、電話が繫がらないと」
「お姉さんが、携帯に出ない、ということですね?」
「そうです。そのときに、姉は突然、秘書を辞めたのだと教えられました。後処理のことで確認したいことがあるのだけど、妹さんの方から連絡をつけられないかと」
 秘書を辞めた。
「最上さん、いや話をする上でややこしくなりますので、名前の真奈さんとお呼びしますね。真奈さんは紗理奈さんから秘書を辞めたとは聞いていなかったんですね?」
「まったくです。寝耳に水ってこういうことかと思いました。その電話のたぶん一ヶ月かそこらぐらい前にも電話で話をしていたんですけど、そんなことは一言も言ってませんでした」
「そして、あなたも連絡が取れなくなっていた」
 はい、と、顔をしかめながら頷く。
「携帯は電源が切れている状態です。私も仕事がありましたので、札幌に行けたのはそれから三日後です。部屋に行ってみると、解約されていました」
 ほんの一週間前に引っ越しをしたと管理会社は言っていた。もちろん、どこへ行ったのかはわからない。

 確かに、失踪か。


*続きは、5月新刊『失踪人 磯貝探偵事務所ケースC』でお楽しみください。

■あらすじ

今回の依頼案件には、予測不能の真相が!?
〈ケースA〉は浮気調査、〈ケースB〉は身辺調査、〈ケースC〉が失踪人。〈ケースZ〉もありますが……。
探偵業も徐々に軌道に乗ってきた磯貝公太だが、事務所のファイルケースはアルファベットごとに分類されている。A=浮気調査、B=身辺調査、C=人捜し……。
小樽にある高級料亭旅館〈銀の鰊亭〉の主である青河文が紹介してくれた新しいクライアントは、文の同級生で親しい間柄の有名俳優・西條真奈。真奈からの依頼は、仕事を辞めて引っ越してから、まったく連絡が取れなくなった姉の行方捜しだった。真奈の姉・最上紗理奈は北海道知事の特別秘書を務めていた。ところがあまりにも手がかりが少ない。ひとつずつ丹念に調査していく磯貝が行き当たった最大のヒントは、古いスーツケース。そして、その背後に見え隠れする、あまりにも暗い事情――。
そのスーツケースにはどんな謎が? 果たして紗理奈の安否は!?
謎が謎を呼び、混迷を極める案件だったが、最後に待ち受けるのは? 予想できない〝大どんでん返し〟の探偵小説!

■書籍情報

失踪人 磯貝探偵事務所ケースC
著者:小路幸也
発売:光⽂社
発売⽇:2024年5⽉22⽇(水)
定価:1700円(+税)

■著者プロフィール

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動に入る。2002年、「空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction」で第29回メフィスト賞を受賞し、作家デビュー。「東京バンドワゴン」シリーズ、「マイ・ディア・ポリスマン」シリーズなど著書多数。

■好評発売中です

■シリーズ前作文庫化のお知らせ

シリーズ前作『〈磯貝探偵事務所〉からの御挨拶』も近日文庫化!!
カバーも公開しちゃいます!!
発売は6月11日(火)です♪是非2冊合わせてお近くの書店でチェックしてください!


いいなと思ったら応援しよう!

光文社 文芸編集部|kobunsha
いただいたサポートは、新しい記事作りのために使用させていただきます!

この記事が参加している募集