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正しくない人々の「正しさ」②|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【第10回】

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文=千街晶之

第六章 正しくない人々の「正しさ」(承前)

 前回から今回までの二カ月のあいだに、「表現の自由」やポリティカル・コレクトネスの問題に関わるトピックが幾つか報道されたので、今回はまずそれらに言及したい。

 二〇二三年七月二十四日、ミステリ作家の森村誠一もりむらせいいちが逝去した。彼は元ホテルマンという経歴を生かしたミステリ『高層の死角』(一九六九年)で第十五回江戸川乱歩賞を受賞してデビューし、『人間の証明』(一九七六年)をはじめとする作品群は映像化とのタイアップでベストセラーになり、角川文庫の最盛期の勢いを牽引した作家となった。当時の角川書店社長・角川春樹かどかわはるきは思想的には右翼的立場であり、反対に森村は旧日本軍第七三一部隊の実情を暴いたノンフィクション『悪魔の飽食』(一九八一年)で話題になるなど左翼的立場を貫いたが、両者の友情は思想の相違を超えて終生続いた。

《日刊ゲンダイDIGITAL》二〇二三年七月三十一日号で、評論家の佐高信さたかまこと「森村誠一は『悪魔の飽食』への右翼の攻撃に一歩も退かなかった」と題した記事で森村の死を悼み、次のように記している。

『悪魔の飽食』は中の写真が一部違っていたことを理由に右翼から森村への批判が殺到した。「近日参上」と赤いインクで書いた手紙が森村の家に届いたり、玄関に赤いペンキをかけられたりした。
 この事件で森村が忘れられないのは、当時の角川書店社長、角川春樹の勇気である。残念ながら光文社は攻撃に屈して『悪魔の飽食』を絶版にした。それを角川が拾ったのである。
 社長の身の危険も考えて、社内では反対する空気が充満しているのに角川は言ったという。
「ここでうちがこれを出さなかったら、日本の表現の自由は後退する。ジャーナリズムの敗北である。一出版社の問題ではない」

 現在、角川春樹のようにここまで言いきれる出版人がどれだけいるだろうか。勇気の問題ではない。前回述べたように、今や左派も右派も敵対勢力の「表現の自由」など一切認めず、自分たちに都合のいい「表現の自由」しか尊重する気がない――というのが実状となっている。それどころか、左派のあいだでは、性的表現の自由を主張するオタクを示す「表現の自由戦士」なる言葉が蔑称として使われている有様だ(本来、左派こそが表現の自由を護るべき立場であり、権力との闘争で性的表現の自由を勝ち取ってきたのではなかったか)。思想は違えどもそれを出版する自由は認め、それを妨害する勢力には断固立ち向かう――そのような時代が存在したことは、今後忘れられてゆくのかも知れない。森村誠一の死去は、そんな時代の終焉を象徴するようにも思える。

 もう一つのトピックは、アメリカで七月二十一日に公開された『バービー』(グレタ・ガーウィグ監督、グレタ・ガーウィグ、ノア・バームバック脚本)と“Oppenheimer”(日本公開未定のため原題。クリストファー・ノーラン監督・脚本)という二本の映画にまつわる騒動だ。この話題作二本を一緒に鑑賞しようというきっかけで、アメリカ本国ではBarbenheimer(バーベンハイマー)という造語がネットミームとして流行したが、一部のファンが原爆投下を連想させるキノコ雲をポップに描くなどしたファンアートを投稿したことが物議を醸したのである。それ自体は一部のファンの悪乗りだとしても、『バービー』の本国公式Twitter(現・X)アカウントがそれらに対して好意的な返信をしたのは一線を越えた行為だと見なされ、日本のユーザーから批判の声が相次いだ。日本国内の配給を担当するワーナー ブラザース ジャパン合同会社は七月三十一日、本国公式アカウントの反応に「このムーブメントに起因したファンのSNS投稿に対し行われた、映画『バービー』のアメリカ本社の公式アカウントの配慮に欠けた反応は、極めて遺憾なものと考えており、アメリカ本社に然るべき対応を求めています」とコメントし、それに応じるかたちで本社は謝罪声明を出して関連投稿を削除、八月八日には来日した本社幹部が日本経済新聞の取材に応じて謝罪した。

 奇しくも、騒ぎが大きくなったのと同じ七月三十一日の朝日新聞朝刊の一面は、米国立スミソニアン航空宇宙博物館が、原爆投下後の広島と長崎を映した写真を新たに展示することを計画していると報じた。被爆者の写真や遺品の展示にまでは踏み込まない見通しだとされるが、従来は退役軍人団体などが、アメリカの世論に根強い「原爆投下の正当性」に疑念を抱かせかねないとして原爆展などに反対し、中止に追い込むケースがあったことなどを思えば、ひとつの進歩であるのは間違いない。二〇二三年五月に行われたG7広島サミットで、G7の首脳が初めて揃って原爆資料館・原爆慰霊碑などを訪問した件とともに、時代の変化を感じさせる話題ではある。バーベンハイマー騒動は、それらに真っ向から冷や水を浴びせるものだった。

 マーベル・スタジオ製作の『エターナルズ』(クロエ・ジャオ監督、クロエ・ジャオ、パトリック・バーリー脚本、二〇二一年)では、不老不死の宇宙種族エターナルズの一人で人類の技術的進歩を密かに支援してきたファストス(ブライアン・タイリー・ヘンリー)が、広島への原爆投下を史上最大の過ちと見なして人類を見限る描写があった。しかしこれはかなり特殊な例で、『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、フランク・ダラボンほか脚本、二〇一四年)をはじめとする一連のハリウッド産ゴジラ映画や、『ゴーストバスターズ』(ポール・フェイグ監督、ポール・フェイグ、ケイティ・ディポルド脚本、二〇一六年)などのアメリカ映画では、核爆弾の使用を正当化する理由が与えられたり、核爆弾がせいぜい普通の爆弾より大きな爆弾程度の扱いだったりすることが多い――同時期の邦画『シン・ゴジラ』(庵野秀明あんのひであき総監督・脚本、樋口真嗣《ひぐちしんじ》監督、二〇一六年)で、日本人または日系人の登場人物が、立場や意見は違えども核の使用だけは認められないとする点を共有していたのと対蹠的に。今回のバーベンハイマー騒動は、そうした日米間の核に対する捉え方の差を露骨に浮き彫りにした。

 八月二日に駐日アメリカ大使ラーム・エマニュエルが「バービーは全ての女性の代表であり、全ての女性がバービーそのものです。バービーは60年以上にわたり、女性は何にでもなれることを世界中で示してきました。私たちはそのことを現実でも、そして映画『バービー』の中でも見ています。素晴らしいストーリーと興行記録を塗り替える大ヒット作品を生み出してくれたグレタ・ガーウィグ監督に感謝です。グレタとバービーは、未来の女性、少女たちに勇気を与える応援団です」とツイートしたこと(騒動の真っ最中というタイミングでの無邪気な賛辞も、日本とも縁が深い歴史を持つとはいえアメリカ製の人形であるバービーを「全ての女性の代表であり、全ての女性がバービーそのもの」と世界中の女性の代表扱いした無意識の思い上がりも、何もかもが最悪と言える)に象徴されるアメリカ側の真摯さを欠く姿勢に対しては、主に日本国内のネット世論で批判が続出し、アメリカ人にとってのポリティカル・コレクトネスに日本人への配慮などは含まれていないのではという疑いが取り沙汰された。『バービー』がポリティカル・コレクトネス推進派から強く支持されていた映画だったこともそれに拍車をかけた。そのため、この騒動をめぐっては「反ポリコレ」を標榜する右派勢力が勢いづく結果となったが、『バービー』という映画の内容自体や監督のグレタ・ガーウィグらの制作陣にこの件で責任があるわけではなく、むしろ巻き込まれた被害者だと言えるし、原爆投下に関わるセンシティヴな問題を、「反ポリコレ」に利用できて良かったと言わんばかりの一部右派の姿勢は異様と言わざるを得ない。だがポリティカル・コレクトネス擁護勢にも、例えば映画評論家の小野寺系おのでらけいが七月三十一日に「『バービー』公式がバーベンハイマーについてはしゃいでいるというのは、ポリコレの面から批判されるべきことではあるんだけど、『普段ポリコレは嫌いだけど今回だけは文句を言わせてもらう』という旨のリプライを目にして、自分が当事者のときにだけ利用するんか……と呆れてしまった」とツイートしたように、右派の身勝手さを指摘することに躍起になり、まさに現在ダブルスタンダードだという批判を突きつけられているのが自分たちの側だという事実から目を逸らさせようとするかのような姿勢が見られた。ポリティカル・コレクトネスに反対であれ賛成であれ、こうした極端かつ解像度の低い意見ばかりが目立ってしまうのがネットの問題点なのは相変わらずである。

 アメリカ人にとってのポリティカル・コレクトネスと日本人にとってのそれが、場合によっては相容れないものであることをバーベンハイマー騒動は示したが(実際、橘玲たちばなあきら『世界はなぜ地獄になるのか』〈二〇二三年〉などで紹介されているように、北朝鮮からアメリカに亡命してコロンビア大学に入学した女性が祖国に似ていると感じてしまうほどに、アメリカにおけるポリティカル・コレクトネスの運用が異常な状況に至っていることは、アメリカをポリティカル・コレクトネス先進国だと無邪気に信じている日本人は知っておいたほうがいいだろう)、そのような場合以外でも、ポリティカル・コレクトネス同士が時に対立し、一方が他方を蹂躙することさえある。近年の日本でそれを示したのが、二〇一九年、群馬県草津町の女性町議が町長からセクハラを受けたと告発した件である。この件はフェミニストを中心に一斉に拡散され、ネット上には草津町を罵倒する書き込みが溢れ、同町を「セカンドレイプの町」と決めつける非難もあった。

 ところが二〇二二年、町長側の訴えを受けた前橋地検が、虚偽告訴と名誉毀損の罪で女性町議を在宅起訴したのだ。つまり、町議側の申し立ては不起訴となり、逆に町長側の主張が認められて刑事事件化したわけである。これは、草津町や町長に対するフェミニストたちの非難は冤罪による集団リンチだったことを意味する。

 フェミニストたちが女性町議の言い分を最初から鵜呑みにし、草津町のイメージを悪化させたのは、それが自分たちの主張に都合のいい(ように見えた)ケースだったからであり、典型的な「正義の暴走」現象と言えるが(こうした事例が実際に存在する以上、「正義の暴走などは存在しない」と主張するような人間には常に警戒を怠るべきではない)、あまり指摘されないけれども、実はここにはもう一つの問題が存在している。草津町を非難した人々は、同町を男尊女卑の象徴、日本の旧弊な部分そのものとして指弾した。そこには、地方を後進的な地域として蔑視する都会人の傲慢が潜んではいなかったか。その意味では、普段はポリティカル・コレクトネスに敏感な人々が、別の局面ではいくらでもポリティカル・コレクトネスに鈍感になれる典型例と言える。

 フィクションの世界――特にホラーなどでは、田舎の因習や迷信などが恐怖の対象として描かれることが多く、最近は「因習村」といった言い回しで表現されている。この風潮に異を唱えているのが、『ぼぎわんが、来る』(二〇一五年)で第二十二回日本ホラー小説大賞を受賞してデビューした澤村伊智さわむらいちだ。その『ぼぎわんが、来る』を第一作とする「比嘉姉妹」シリーズの現時点での最新長篇『ばくうどの悪夢』(二〇二二年)は、ある男のモノローグ(後に、ネットへの投稿だと判明する)から始まる。兵庫県の東川西市T台という田舎町で育ったその男は、学校では常にいじめられ、東京に出ても事態は少しも良くならなかったため、「せめて一度だけでも、復讐させてくれ。たった一度でいい。/あいつらに。東川西市T台に。日本中のクソ田舎に」という怨念から、T台の病院の産科に侵入して大虐殺を繰り広げる。

 この怨念は、地方で鬱屈した日々を送り、都会に出ても一花咲かせられなかった男の、せめて田舎者を見下したいという異様なプライドに裏打ちされており、実際のT台はそこまで旧弊な地ではなかった。ところが、先に引用した彼の投稿を見て、地元に馴染めず苦しい思いをしてきた人々が自分の身に引きつけて、ネットに「僕もアニメ好きなだけで小中高と白眼視され、親にも教師にも犯罪者予備軍扱いされました。大学で東京に逃げてから地元には帰っていません。卒業アルバムは卒業式の日に破り捨てました。犯罪は許してはいけませんが、容疑者だけに非があるとは思えません」「やれフェミサイドだのまーたクソフェミどもが騒いでやがるが的外れにもほどがある。マスゴミは相変わらず犯人=悪、被害者=善の報道。ひょっとして津山三十人殺しが基礎知識で問題の本質を理解できるの、子供の頃から物事を俯瞰して見る癖が付いてる我々オタクだけ?」「私は閉鎖的な地元が嫌いで上京し、復讐のため愚かな田舎者が因習のせいで無様に死ぬ土俗ホラーを書いてきました。だから山口の限界集落放火殺人も淡路島の五人殺害も東川西の妊婦殺しも、それ見たことかとしか思わない。どうぞ滅びてください。これは地方で虐げられた全ての弱者の総意です」などといった書き込みをするようになった。T台出身者たちも、「あそこは田舎だ。野蛮で閉鎖的で男尊女卑で、一生地元を出ない人間ばかりが住んでいる」といった意見を相次いで表明する。

 ところが後に、ある事実が判明することで彼らは一斉に掌を返す――「私の小説は全てエンタメで事実より娯楽性を優先しております。また当アカウントも土俗ホラー作家のキャラを演じる目的で開設したものであり、過激な発言は全て一般大衆の需要に応えたまでです。あしからずご了承ください」「オタクはデマに踊らされない、オタクは空気に流されない。オウム真理教の危険性をいち早く見抜いたのはオタクだった。東川西市の事件でも世間は犯人に同情的だったがオタクは被害者家族に寄り添った。ガンダム、ジョジョ、エヴァ。名作傑作を浴びて物事を俯瞰して見る癖の付いたオタク本当に凄い」といった具合に。

 澤村は朝日新聞社の情報サイト「好書好日」二〇二二年十一月十二日掲載のインタヴュー(インタヴュアー:朝宮運河あさみやうんが)で「東京対地方みたいな話題はネットでもよく議論になりますし、みんな関心があるんですよね」「悲壮な決意をもって上京してきて、地元への憎しみで凝り固まっている人もいますけど、あれもどうなのかなと。『君みたいなタイプは地方で苦労しただろ? 一緒に東京で闘おう』と共感を求められるんですけど、僕はそこまで思い詰めていないので(笑)。地元でいじめられたとかなら『大変でしたね。脱出できてよかったですね』と思いますし、地方特有の狭さや息苦しさはよく分かりますが、それにこだわり続けるのも、東京という夢に取り憑かれているような気がするんです」と本作の成立の背景を語っている。田舎=因習という一面的イメージを相対化する視座から、地方を蔑視しておきながら都合が悪くなるところりと態度を変える大衆の軽佻浮薄ぶりを、辛辣かつリアルに抉った小説と言えよう。ただ一つ『ばくうどの悪夢』が現実と異なるのは、草津町を「野蛮で閉鎖的で男尊女卑」と寄ってたかって非難したのがオタクではなく、逆にオタクを敵視しがちなフェミニストであったという点である。

 この草津町の騒動に見られるようなポリティカル・コレクトネスの暴走に警戒感を抱き、あるいは適切な距離の置き方を模索しているミステリ作家もいる。森晶麿もりあきまろ『黒猫と語らう四人のイリュージョニスト』(二〇二三年)は、美学専攻の若き大学教授「黒猫」が推理するさまざまな謎を、E・A・ポオの研究者である「付き人」が記述する「黒猫」シリーズの第九作であり、倒叙ミステリのスタイルで綴られた連作短篇集となっている。その第二話「少年の速さ」は、元俳優の平埜玲ひらのれいが主人公だ。人目を引く美少年だった彼は、十七歳にして巨匠・木野宗像きのしゅうぞう監督の映画『西にて死なむ』の主演に抜擢されたが、その後、次作にも出演させてもらえるという当初の予定は立ち消えとなり、あまつさえ監督から「美が消えた」と罵倒され、芸能界から姿を消すことになった。その後、玲は『西にて死なむ』の再上映の会場で、歳月を隔てて監督と再び相まみえるが、上映の最中、監督が突如卒倒するというハプニングが起きる。黒猫は、それが『西にて死なむ』の映像を巧みに使った玲の復讐だったことを見抜く。

 平埜玲と木野宗像の関係が、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』(一九七一年)の監督ルキノ・ヴィスコンティと、主演俳優ビョルン・アンドレセンのそれを踏まえていることは誰の目にも明らかだろう。最近のドキュメンタリー映画『世界で一番美しい少年』(クリスティーナ・リンドストロム、クリスティアン・ペトリ監督、二〇二一年)では、美少年スターとして売り出されたビョルン・アンドレセンに対する関係者たちの搾取を、老境を迎えた彼自身が回想していた。

 黒猫と付き人は、『西にて死なむ』再上映の会場で次のような会話を交わす。

 そのとき、黒猫が耳元でこう囁いた。
「近年、映画界では撮影の方法における非人道的な側面があれこれと取り上げられている。木野監督は古いタイプで、俳優を自分の作品の駒みたいに扱っている。昔は珍しくもなかった。映画とはそういうもんだという認識が全般にあったから。でも今後はああいう監督の存在自体、珍獣を見るような感じにはなってくるだろう」
「そうね。黒猫はそのへんの問題はどう考えるの? 最近の社会はいささか潔癖すぎる気がしなくもないけど、言われていることはいちいちもっともってことが多くて、私も何が正解なのかよくわからないことが多いんだよね」
「言われていることはそのとおりだと思うよ。映画界は変わらなければならない。ただ、〈芸術とは〉と主語を大きくして語られると眉をしかめてしまうね。業界の健全化と芸術としてどうかというのは、次元のちがう話だ。雇用の健全と芸術の話を混同する輩が多くて辟易するね。今までのゆがみを修正しようとするあまり、主語を大きくして妙な暴走が起こる。芸術でも政治でも科学でも、同じことが起こっているよ。そして、大衆の大半は主語を大きくされてもなるほどなぁって顔で頷いている。いつの世もそれは変わらない」
 黒猫らしい冷ややかな考察だった。けれど、必ずしもそこに同調できない自分がいるのも確かだった。インモラルな方法で作られた芸術は、芸術の範疇に入れていいのかどうか。この点になると、途端に自分の足元が不確かになる。容易には答えを出せない問題なのに、いまは誰も彼もがこの問題に答えたがるため、〈模範解答〉が溢れているせいもあるのだろう。
「んん、黒猫の言うことはわかるよ。だけど、会場のざわつき方を見ていると、木野監督の発言が近いうち炎上しそうな気もするなぁ。ほら、さっきの、オープニングの追撮の話」
 仮に炎上したとしても、それは仕方のないことだろう。いまはとりわけハラスメントの問題には敏感な世の中だから。俳優が言いたくないセリフを言わせようとした。たとえばそれが性的なものであれば、よけいに問題視される。
「そうだね。ただ、芸術はモラルで作られていない。ときには誤った判断でも、人の心にある種の衝撃がもたらされたら、それは芸術だろう。モラルに関してはモラルを審判する場で裁かれればいいが、それで作品のよしあしが変わるかというと難しいね」

 美学者としての黒猫は、昨今のポリティカル・コレクトネスの暴走とは距離を置いている。折しも本稿を執筆している最中の八月七日、数多くの名画を残した映画監督ウィリアム・フリードキンの訃報が伝えられた。『エクソシスト』(ウィリアム・ピーター・ブラッティ原作・脚本、一九七三年)では拳銃やショットガンを撮影現場に持ち出して過剰な演技指導をしたり、演技経験のないダイアー神父役のウィリアム・オマリーの頬を平手打ちにし、ショックを受けた彼をそのまま撮影して迫真の演技に見せるなど、時に暴力的な演出も辞さなかった監督であり、彼こそは「撮影の方法における非人道的な側面」「インモラルな方法で作られた芸術は、芸術の範疇に入れていいのかどうか」という問題を考察する立場の者がまず向き合わなければならない存在である。今後、フリードキンのような撮影方法が許されないのは言うまでもないが、ならば彼の作品を評価してはいけないかと言われればどうだろう。いかに撮影方法に問題があっても、過去にその映画から受けた感動までも否定しきれるものだろうか。実際、現時点でネットでは前出の小野寺系のような一部のポリティカル・コレクトネス推進派を別にすれば、フリードキンの作品や業績を賛美する追悼の書き込みで溢れており、それは彼の作品群がそれだけ多くの観客の心を動かす力を持っていたからに他ならない。「モラルに関してはモラルを審判する場で裁かれればいいが、それで作品のよしあしが変わるかというと難しいね」と黒猫が述べている通り、クリエイターの人格と作品の評価は別と思わせてしまうあたりに、フリードキンの映画の素晴らしさと厄介さの両面がある。

 黒猫が「業界の健全化と芸術としてどうかというのは、次元のちがう話だ。雇用の健全と芸術の話を混同する輩が多くて辟易するね」と語っているのは、昨今のポリティカル・コレクトネス推進派が、例えばかつてのハリウッドでは黒人やアジア系などのマイノリティが然るべき役を得られず、それは改善されなければならない――と主張することが多いからだろう。そうした主張が正論であることは事実だし、事態の改善がマイノリティ俳優の世界的ブレイクなどの良い結果を生んでいることも間違いない。ミステリ関連で言えば、ベンジャミン・ブラック(ジョン・バンヴィルの別名義)のハードボイルド小説『黒い瞳のブロンド』(二〇一四年)を映画化した『探偵マーロウ』(ニール・ジョーダン監督、ニール・ジョーダン、ウィリアム・モナハン脚本、二〇二二年)で、原作ではほんの端役に過ぎなかった黒人運転手セドリック(アドウェール・アキノエ=アグバエ)を、映画後半における探偵フィリップ・マーロウ(リーアム・ニーソン)の相棒として活躍させた例などが挙げられよう。しかし、一部の過激なポリティカル・コレクトネス推進派が主張するように、例えば同性愛者の役は同性愛者の俳優が演じるべきだ――となれば「ちょっと待て」と首を傾げるひとが増える筈だ。そうなった場合、同性愛であることをカミングアウトしている俳優でなければそうした役を演じられなくなるという別の問題が出てくるからだ。性自認を公表すべきかどうかは各自のプライヴェートに関わる重大事であり、明かす道を選ぶにせよそうでない道を選ぶにせよ、ひとりひとりに事情があり考え方があることが尊重されなければならない。「その役を演じたければカミングアウトしろ」などというのは悪しきアウティングである。

 雇用の問題を健全化すべきだというのは正論である。一方で、俳優とは当事者性を越境してどんな役でも演じられるべきものだという考え方も正しい。正論と正論は時として衝突するものであり、どちらか一方だけが正しいなどということはあり得ない。現実的には、互いに折り合える地点を模索してゆくしか道はないと思われるが、それを成就させるには極論を排除するしかないだろう。

 そもそも、マジョリティとマイノリティの関係は常に固定的ではない。ある局面で相手に対してマジョリティである人間が、別の局面では逆転するケースはよくある話だ。また、マイノリティが別のマイノリティにとってはマジョリティ的権力を持つにもかかわらずそれを認めようとしないケースも珍しくない。先述のドキュメンタリー映画『世界で一番美しい少年』でも、ビョルン・アンドレセンの美貌を搾取した人々の中には彼の祖母を含む女性やゲイの男性もいた事実が語られており、マイノリティであることが免罪符にならないのは明らかだ。男性のルッキズムだけを有害扱いして女性のそれを免責しようとする上野千鶴子うえのちづこ(《週刊ポスト》二〇二二年一月一日・七日合併号掲載のインタヴューを参照)のような考え方では、ビョルン・アンドレセンや、ジャニー喜多川きたがわによる性犯罪を告発している男性被害者らは救えない。

 このあたりを考える上で、映画『TAR/ター』(トッド・フィールド監督・脚本)は示唆的である。架空の音楽家をまるで実在するかのように描いたフェイク・ドキュメンタリーであり、一種のサイコ・サスペンスでもあるこの映画は、解釈が難しいディテールを数多く含んでいる。私も本作のすべてを読み解けたとは到底言えないけれども、初見時の感想をもとにしつつ、宇野維正うのこれまさ『ハリウッド映画の終焉』(二〇二三年)における解釈を参考にしながら紹介したい。

 主人公のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は女性初のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、女性音楽家としては世界の頂点に立つと言っていい存在だ。彼女は同性愛者であり、シャロン(ニーナ・ホス)という配偶者と、養女のペトラと同居している。ところが中盤、ターは若い女性音楽家たちに立場の優遇と引き替えに肉体関係を迫るなどのハラスメントを行っており、その被害者の一人であるクリスタは自殺した――と告発される。それをきっかけとして、映画の後半でターはマスメディアや大衆から激しいバッシングを受け、精神のバランスを失って常軌を逸した行動に出てしまう。

 ターのずば抜けた才能や深い見識、強靱な精神はケイト・ブランシェットの圧倒的な演技によって表現されているが、やがて、彼女の問題点も次第に浮かび上がってくる。オーケストラの人事における、露骨なまでの公私混同ぶりはその代表例だ。また、幼いペトラがいじめられたと知ると学校を訪れていじめっ子を待ち受け、脅しをかけるシーンがあるが、そこでのターは、明らかに権力を振るって他者を威圧することに普段から慣れている人間として描かれている。ターは自分以前にクラシック音楽界で苦闘した女性の先達たちに敬意を払いつつ、ポリティカル・コレクトネスよりも芸術の価値を上に見ている人物であり、教鞭を執るジュリアード音楽院では、バッハは白人の女性蔑視者なので受け入れられないと主張する黒人の学生を完膚なきまでに論破してみせる。そこから垣間見える彼女の姿は、女性でありながら男性的権力を内面化した人物である。また、クリスタが自殺したと秘書のフランチェスカ(ノエミ・メルラン)から知らされた時のターの態度は冷淡そのものであり、直ちにクリスタとやりとりしたメールをすべて削除するようフランチェスカに指図し、自分が関係者に送った、クリスタは精神的に不安定なので指揮者として推薦しないという内容のメールも削除する。こうした不人情さや狡猾さのせいで、ターは最終的にシャロンからもフランチェスカからも見放される。

 しかし、この映画では、自殺したクリスタは画面上に直接は登場しない。つまり、ターとクリスタのあいだに本当は何があったのか、劇中では全く明らかにされていないのである。実際にはターが言う通り、彼女はクリスタの常軌を逸した言動に迷惑していたのかも知れないのだ。また、黒人の学生をターがやり込めるさまを撮影した動画が流出するくだりも、その切り取り方からはあからさまに彼女への悪意が感じられる。それらの点に気づくなら、「ポリティカル・コレクトネスを馬鹿にしていた芸術家がポリティカル・コレクトネスによって復讐される」という、一見ポリティカル・コレクトネスの側に立っているかのようなこの映画が、そうした単純なものではないことが浮かび上がる。バッハを非難する黒人の学生の言動にしてもいかにも薄っぺらく(ターに論破されると「クソな女だ」と言い捨てて出てゆくあたりがそれを示す)、彼とターのどちらに共感するかと言われれば、後者だという観客も多い筈だ。

 もちろん、ターが完全無欠な人物だということでもない。彼女は傲慢かつ不誠実で、自身の立場を私利私欲に直結させる権力者としての面も持ち、それらは非難されるべきだろう。クリスタに関するメールを削除した彼女の姿は、人情より保身を優先するタイプであることを物語る。しかし、作中で彼女が味わった栄誉の剥奪は、本当にそれらに相応しい罰だろうか。

『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(マリア・シュラーダー監督、レベッカ・レンキェヴィッチ脚本、二〇二二年)は、#MeToo運動が起こるきっかけのひとつとなった、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力事件を、ニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者が暴く過程を再現した映画だが、そこで描かれているように、ワインスタインの罪を立証するためには地道な調査が積み重ねられていた。敵はハリウッドの絶対的権力者ワインスタインであり、それ以上に彼と共犯関係にある社会のシステムそのものでもあったため、それを突き崩すには確実な証拠や証言が必要だったのだ。それと比べれば、『TAR/ター』におけるキャンセル・カルチャーは(ター自身の立場から描かれているからでもあるが)いかにもお手軽に行われたようにしか見えず、ターを辞任に追いやる関係者たちも、彼女の主張と誠実に向き合ったというよりは、最初は様子見を決め込んでおきながら、いざ炎上が大きくなると掌返ししたような描かれ方がされている。

 ターとはあまり見かけない姓だが、これはART(芸術)のアナグラムである。すべてを失ったターは終盤、ベトナムへと活動の拠点を移す。ここをどう解釈するかは難しいところだが、クラシックではなくゲーム音楽の指揮をとる彼女の姿(そこでは過去の経歴が問われることもなく、女性であることも同性愛者であることも重視されない)が示すのは、栄光も権威も剥奪され、逆に汚名とも無縁な異郷で再び音楽と向かい合ったターが、まさにかつて彼女自身が主張したように、人種やジェンダーやポリティカル・コレクトネス的な価値観とも切り離され、純粋な「芸術」の伝道者として評価されるようになったということだろうか。

 こうして、昨今のポリティカル・コレクトネスと創作の関わりが持つ問題を論じてきたが、最後に、ポリティカル・コレクトネスを遵守しさえすれば優れた作品が生まれるのかについて述べたい。

 この問題に関しては、ポリティカル・コレクトネスを推す立場の人々に、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ジョージ・ミラー監督、ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラサウリス脚本、二〇一五年)や『ズートピア』(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ共同監督、ジャレド・ブッシュ、フィル・ジョンストン脚本、二〇一六年)のことは称賛しても、ポリティカル・コレクトネスを取り入れても一九七四年のシドニー・ルメット監督版よりつまらなくなった『オリエント急行殺人事件』(ケネス・ブラナー監督、マイケル・グリーン脚本、二〇一七年)については誰も触れようとしないのは何故なのかを尋ねたい気に駆られるのだが、ここでは二〇二〇年以降の国産ミステリ小説や映像から、成功例と失敗例の両方を挙げてみたい。まず、似鳥鶏にたどりけいの『生まれつきの花 警視庁花人犯罪対策班』(二〇二〇年)は、読んで少々困ってしまった作例である。これは、可聴域を超えた周波数の音声で会話できるなどの特殊能力を持ち、知力・体力・容姿なども常人以上の「花人」という存在が普通の人間と共存している世界を舞台とする特殊設定ミステリだ。「花人」はその優秀さ故に、常人に嫉妬され、SNSの普及によって「花人叩き」が流行する状態となっている。そんな中、それまで犯罪を犯したことがない筈の「花人」によると思われる殺人事件が起きたため、世論はたちまち「花人」へのヘイトで塗りつぶされてゆく。

 二〇二〇年という執筆時期を考え合わせるなら、本作の「花人」迫害が、安倍晋三あべしんぞう首相のもとで右傾化してゆく世相と、それに乗じて在日コリアンなどの存在に「在日特権」などのヘイトを浴びせかけた右派勢力の言動を引き写していることは容易に窺える。しかし、本格ミステリとしては、そのような著者が「花人」を犯人とする真相を用意しているわけがない――ということも簡単に推察できてしまう。つまり、帯の惹句にある「すべてが、覆る」という構図が意外でも何でもなく、どんでん返しの役目を果たしていないのだ。本作の創作動機として著者の義憤があったことは疑い得ないのだが、それをどんでん返しのある本格ミステリとしての骨格に埋め込もうとした時、どこかで設計に狂いが生じてしまったとしか思えないのである。

 二つめに紹介したいのは、二〇二三年にNHK総合で放映された全四回の連続ドラマ『探偵ロマンス』(安達あだちもじり、大嶋慧介おおしまけいすけ演出、坪田文つぼたふみ脚本)である。大正八年、後の江戸川乱歩えどがわらんぽである探偵作家志望の青年・平井太郎ひらいたろう濱田岳はまだがく)と引退した私立探偵・白井三郎しらいさぶろう草刈正雄くさかりまさお)がコンビを組み、怪人や謎の美女らが入り乱れる中、帝都東京を揺るがす大陰謀に立ち向かうレトロな探偵活劇だが、特に話題を呼んだのは浅草「オペラ館」の舞台に立つ女装の美少年・おひゃく世古口凌せこぐちりょう)の存在だ。お百は今で言うトランスジェンダーとして描かれており、「僕のことを表す言葉はどこにもない。でも、僕は生きてる」という彼の苦悩に、太郎は「お百さんはお百さんです……きっといつか時代は変わる」と答えるしかなかったが、お百は「その時代はいつ来るの?」と問い返すのだ。ところが、このエピソードがあった第三話の放映日――二〇二三年二月四日は、よりによって、首相秘書官の荒井勝喜あらいまさよしが、性的マイノリティについて「見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」などと放言したことが報じられて首相秘書官を解任された、まさにその日だったのだ(一連の発言自体は三日夜)。もちろんこれは偶然の一致だが、大正時代という過去を舞台にした『探偵ロマンス』は、もしかすると制作者たちの狙い以上に、私たちが生きるこの時代の問題点を射抜く結果となったのだ。ただし『探偵ロマンス』というドラマ全体が成功を収めたかは別の問題であり、その意味では部分的な効果にとどまる。

 最後に紹介するのは、アニメ映画『クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』高橋渉たかはしわたる監督、うえのきみこ脚本、二〇二一年)である。『クレヨンしんちゃん』のナンセンスな世界でロジカルな本格ミステリを成立させるという前代未聞の試みだが、AIに監視されている全寮制のエリート校に、生徒の尻を噛む「吸ケツ鬼」が出没する――という怪事件を、アニメでなければ絶対に成立しないダイイング・メッセージ(厳密には死んではいないが)を織り込みつつ、フーダニット・ハウダニット・ホワイダニットの三要素すべてで高い水準に到達した傑作に仕上がっている。同時に本作は、謎解きのあとのマラソン大会のくだりによって、青春の多面性を称賛することであらゆる人間の生き方を肯定した感動作にもなっており、多様性というテーマをフィクションの世界に盛り込むなら、今後はこれくらいの水準を目指さなければ駄目なのではと思わされる。本格ミステリというジャンルが、児童向けアニメのかたちを取ることでかくも見事な達成を示したことには驚嘆するしかない。

 三つの例をざっと見てみただけとはいえ、ポリティカル・コレクトネスのミステリでの使い方にはさまざまな手法があり、また扱いによって失敗もすれば成功もするということはおわかりいただけたのではないか。ポリティカル・コレクトネスは、一部左派やフェミニストだけが都合良く大衆的検閲の武器として振るえる無謬の聖典でも、一部右派が唱えるような排斥すべき害悪でもなく、ましてや時流に乗りたい人々にとって便利な世渡りの道具ではさらさらなく、用量や使い方次第で毒にも薬にもなる。また、ポリティカル・コレクトネスに反するフィクションの面白さというものも確実に存在する以上、そうしたものを公序良俗の建前によってパージして表現の幅を狭める風潮に安易に乗ることの危険性に、左派やリベラルはもっと自覚的でなければならない。問題は、もはやポリティカル・コレクトネスの存在を無視できないことは確かである以上、創作者ひとりひとりがそれとどう向き合うかだろう。

《ジャーロ No.90 2023 SEPTEMBER掲載》


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