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「失われた三十年」への道|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【第8回】

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文=千街晶之

第五章 「失われた三十年」への道

 二〇一〇年代後半から現在にかけての貧困を扱ったミステリについて意識するようになったのは、原田はらだの長篇小説『DRY』(二〇一九年)を読んだのがきっかけだったように思う。

 もちろん、ミステリにおいて貧困が扱われることがそれ以前に珍しかったわけではない。往年の社会派ミステリにおいて描かれることもあったし、カードローンによる破産を扱った宮部みやべみゆきの『火車』(一九九二年)は一つのエポックメーキングな作品だった。二〇一〇年代初頭の作例としては福澤徹三ふくざわてつぞう『東京難民』(二〇一一年)が、学費未納で大学を除籍になった青年が負のスパイラルに陥ってゆく過程を通して、一度転落すると這い上がれない日本社会のシステムを描いた作品として注目される。老人介護の問題を通して富める者と貧しい者の格差に迫る『ロスト・ケア』(二〇一三年)、女性の転落をトリッキーな構成で描いた『絶叫』(二〇一四年)といった葉真中顕はまなかあきの小説の幾つかもこの流れに位置する。中でも『東京難民』の時枝修ときえだおさむ、『絶叫』の鈴木陽子すずきようこといった主人公は不幸や不運が連鎖的に降りかかることで転落してゆくのだが、これは恐らく、ドラマティックさの強調という効果だけを狙っているのではない。

 新約聖書『マタイによる福音書』の一三章一二節「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるだろう」に由来する「マタイ効果」という言葉がある。要するに、もともと有利な立場にある人間はそれを活かして有利な人生を送る傾向があるのに対し、不利な立場の人間は更に不利を招き寄せて困難な人生を送る傾向がある――という社会現象のことであり、アメリカの社会学者ロバート・キング・マートンが一九六〇~七〇年代に提唱した。これは最初は科学研究の成果に関する見解だったが、現在は社会全体の各分野、特に社会的な格差が小さなものから大きなものへと膨らんでゆく性質を表す場合が多い。『東京難民』や『絶叫』の主人公にこれでもかとばかりに襲いかかる不幸の連鎖についても、この「マタイ効果」が反映されていると見られる(これから言及する幾つかの作品の登場人物にも、同じことが言えるだろう)。

 さて『DRY』は、アルファベット三文字のタイトルからして、桐野夏生きりのなつおの日本推理作家協会賞受賞作『OUT』(一九九七年)を意識していることは明らかだ。バブル経済崩壊後の社会を背景とする『OUT』の中心人物は、弁当工場で夜勤のパートとして働く女性たち――香取雅子かとりまさこ吾妻あづまヨシエ、城之内邦子じょうのうちくにこ山本弥生やまもとやよいの四人である。ある日、弥生がDVに耐えかねて夫の健司けんじを殺害してしまう。雅子は弥生を救うべく、ヨシエに相談し、邦子をも巻き込んで健司の死体を細かく解体し、手分けして投棄し失踪に偽装しようとする。

 四人の年齢は幅があるし、苛酷な深夜の単純肉体労働に従事している理由はさまざまだが、彼女たちにとって他に選択肢がほぼないという共通点がある。例えば雅子は、男性社員と女性社員の待遇の差を訴えたのが災いして長年勤めていた信用金庫をリストラされ、再就職先が見つからず夜勤のパートを選ばざるを得なかった(彼女には夫がいて、大手不動産会社系列の建設会社に勤めているものの、内実は不景気である)。弁当工場では同じ速さで作業を進めることが要求され、遅れれば工場主任から罵声が飛ぶ。個性を殺し機械のように振る舞わなければならない職場環境は当然のように彼女たちの精神に鬱屈を生じさせ、弥生が起こした事件をめぐる過激な行動の伏流となってゆく。

 今読んでも胸に迫る小説であり、名作としての位置は揺らぐものではないが、二〇二〇年代に入って『OUT』を読み返すと、信用金庫時代の雅子を描いたくだりで「ある日、雅子は同い年の男性社員の給与明細を見て頭に血が昇った。年収が自分より二百万近くも多かったのだ。二十年働いた雅子の給与は、年間四百六十万円」(引用は講談社文庫版、以下同じ)という記述があり、給与の男女差の問題はともかく、バブル崩壊後でもまだそんなに貰えたのかと感じる若い読者もいるのではないだろうか。見栄っ張りの邦子が借金をしてでも中古のフォルクスワーゲン・ゴルフで弁当工場に通う描写も、二〇二〇年代にはあまりリアリティを感じられないだろう。その意味で『OUT』は、貧困や格差とはいってもまだ今よりは余裕があった時代の小説である。

 一方、『DRY』は、北沢藍きたざわあいという三十三歳の女性が主人公だ。彼女は不倫が原因で職場と家庭を失ったところに、五十八歳の母・孝子たかこが八十歳の祖母・ヤスを刺したという報せを受け、実家に戻ることになる。酒浸りで男にだらしない孝子と、金にうるさいくせに見栄っ張りなヤスは日常的にいがみ合っており、傷害事件というのも軽傷だったのをヤスが大袈裟に騒ぎ立てたせいで大事おおごとになったに過ぎない。藍が久しぶりに帰った実家はゴミ屋敷と化していたが、他に行くべき場所など存在しない以上、彼女は嫌いな母や祖母と一つ屋根の下で暮らさなければならないのだ。

 実家暮らしを始めた藍の前に現れたのが、彼女の八歳年上の幼馴染みで隣人の馬場美代子ばばみよこだ。彼女は、要介護状態の祖父と二人暮らしだという。親切な彼女の協力のもと、藍は生活の立て直しを図るが、ある時、美代子の祖父が孫の名前を間違って呼んでいることに気づく。美代子は祖父は認知症だと弁明するが、東京出身の筈の祖父が関西弁を使っていたこともあって、藍は美代子を怪しむようになる。ある日、藍は美代子の家で老人に突然襲いかかられ、美代子と二人で老人を押さえつけて死なせてしまう。そこで美代子は、老人は実は祖父ではないのだと告白する。彼女は本物の祖父の死後、年金ほしさに身寄りのない老人を家に連れてきて住まわせ、世間には祖父だと思わせていたのだ――しかも、藍たちが死なせた老人は、祖父の身代わりとしては三人目で、本物の祖父および二人目までの身代わりのミイラ化した遺体は二階に隠してあるという。老人を死なせてしまったという弱みを握られた藍は、美代子の言うままに老人の遺体から脳や内臓を取り出してミイラに仕立てるのだが、この生々しい解体シーンは明らかに『OUT』を意識している。

『OUT』講談社文庫版の松浦理英子まつうらりえこによる解説には次のような記述がある。

 記憶をたどれば、五年前初めて読んだ時まず目を瞠ったのは、本作には現代日本における〈階級〉が描かれているということだった。ここ数年で「日本もまた階級社会である」という意見も目新しいものではなくなったけれども、一九九七年当時はそうではなく、〈一億総中流〉という決まり文句に囚われている人がまだまだ多かったと思う。『OUT』で描かれる弁当工場の夜勤についた女たちこそ、〈一億総中流〉というイメージが流布して以降初めて小説に登場した、そんなずさんなイメージを打ち崩すに足る具体性を備えた人物だったのではないだろうか。

 かつて、日本社会は「一億総中流」と言われていた。国民の殆どが、自分を中流階級だと認識していたということである。そう言われていた当時の日本にも貧富の差はあったので、かなり幻想と欺瞞を含んだ言葉ではあるものの、実際に中流階級が多かったのは歴然たる事実である。ところが、バブル崩壊を経て貧困率はどんどん高くなり、二〇〇八年のリーマン・ショック、そして二〇二〇年のコロナ禍が、中流階級を減少させ、少数の上流と大多数の下流で構成される格差社会の構図を露にした。

 松浦理英子が指摘したように、『OUT』で階級の存在に着目し、格差社会の存在を見据えたのは桐野夏生の慧眼と言うべきだが、この小説に登場した四人の女性は、寝たきりの姑の介護に追われるヨシエを例外として、親もしくは義父母と同居しているわけではないし、邦子以外は子供がいるものの本筋には大きく絡んでこない。メインとして描かれるのは四人の女のあいだに生じる連帯や疑心暗鬼、つまりは横のつながりであり、その意味では彼女たちの親や子の世代は本筋から排除されている。ところが『DRY』では、貧困が脱出不可能な階級の問題として、祖母から母へ、母から娘へと順繰りに背負わされる負の遺産となっていることが描かれる。ヤス、孝子、藍――この三代の女性は、貧困という出発点に呪われ続けた人生を送っている。その中で、藍はそれなりに優秀な頭脳に恵まれており、そこから這い上がれる可能性もないわけではなかった。しかし、吝嗇けちなヤスは孫の進学を喜びながらも学費を出そうとはしない。藍はアルバイトと奨学金で学費と生活費を賄わざるを得ず、それが結婚後も彼女の弱みとなってしまう。義父母が、奨学金を返済し終えていない藍を貧困層として露骨に見下していたからだ。また、終盤で孝子は出奔し、ヤスにも認知症の兆候が表れる。母がいない今後は当然、藍に祖母の介護の役割がのしかかってくる筈だ。

 二つの犯罪小説のラストを比較すると、『OUT』の雅子には、「自分だけの自由がどこかに絶対あるはずだった。背中でドアが閉まったのなら、新しいドアを見つけて開けるしかない」という述懐から窺えるように、破れかぶれながらもまだ希望があると思えるのに対し、『DRY』の藍の前には、「どこに行っても、この世は修羅なのかもしれない」「ねえ、みよちゃん、結局、私たちはどこにも逃げられないのかもしれないね」(引用は光文社文庫版)という、終わりのない呪いのような暗澹たる未来が果てしなく続いている。『OUT』の背景であるバブル崩壊後にはまだ、日本経済がいつかはV字回復するのではというぼんやりとした希望があった。しかし、リーマン・ショックがそんな儚い楽観を打ち砕き、コロナ禍がそれにとどめを刺した。「失われた十年」が、「失われた二十年」に、そして「失われた三十年」にまで発展しようとは、前世紀末にはごく一部のひとしか予想できなかった筈だ。希望と絶望――両作のラストの印象の違いは、そのような世相の相違を反映しているのかも知れない。

『OUT』や『DRY』の流れに連なる作品としてもう一作、川上未映子かわかみみえこ『黄色い家』(二〇二三年)にも言及しておこう。物語は、現在四十歳の伊藤花いとうはなが、コロナ禍の二〇二〇年から、一九九〇年代末~二〇〇〇年の数年間を回想する形式で展開する。

 花は小さな文化住宅で、スナック勤めの母に育てられる(他に家庭があったらしい父はたまにしかその家を訪れず、花が小学校高学年になった頃には寄りつかなくなっていた)。高校に入ると、花はファミリーレストランでアルバイトを始め、ある程度金を貯めるが、母の愛人に持ち逃げされてしまう。すべてのやる気を失ってアルバイトも辞めた花は、家を出て、母の友人の吉川黄美子よしかわきみこが開いたスナック「れもん」で働くことにした。やがて同世代の加藤蘭かとうらん玉森桃子たまもりももこと知り合い、四人で同居を始める。だが、花はサラ金で借金をしたという母にせっかく貯めた二百万円を渡さざるを得なくなり、しかもその直後、「れもん」は同じ雑居ビル内の別の店が出した火事で燃えてしまう。

 あっという間に四人は生計の手段を失ってしまったわけだが、他の三人を支えるべく、花はヴィヴィアン(ヴィヴ)という得体の知れない女のもとで、偽造カードで銀行のATMから金を引き出すという犯罪に従事することになる。ヴィヴによればそれらは、自分がどの口座にどれだけ金を置いたままにしているのかも覚えていないような大金持ちたちの資産なのだという。

「その人たちは、困らないんですか」
「なにが?」
「お金がなくなって、困らないんですか」
「困らないよ」ヴィヴさんは即答した。「なんで困るの」
「……わからないけど、その人たちも時間をかけて……その、貯めたのかもしれないなとか、ちょっと思って」
「そんなわけあるかよ」ヴィヴさんは声を出して笑った。「いい? 口座にいくらあるか知らないですむような金持ちは、ぬかれても気がつきもしないでいられるぼんくらの金持ちどもは、なんの努力もしてないよ。努力なんか必要ないし、あいつら金持ちが金持ちであることに、理由なんかないんだよ」
「そうなんですか」
「そうだよ。自分の頭と体を使って稼いだやつらは、ちゃんと金に執着があるからね。貧乏人とおなじように、金についてちゃんと考えたことのある人間だよ。でも、家の金、親の金、先祖代々のでかい金に守られてるようなやつ、そいつらがその金をもってることには、なんの理由もない。そいつらの努力なんかいっさいない。あんたはガキの頃から金に苦労したんでしょ? あんたが貧乏だったこと、あんたに金がなかったことに、なにか理由がある? 理由があったか?」
 わたしはなんと答えていいのかわからず、黙りこんだ。
「ないよ。あんたが生まれつき貧乏だってことに理由なんか。それとおなじ。ある種の金持ちが金持ちなのは、最初からそうだったからだよ。それで、こういう鈍い金持ちは、自分らが鈍い金持ちでいられるための、自分らに都合のいい仕組みをつくりあげて、そのなかでぬくぬくやりつづけるの。親の代から、ばばあやじじいの時代から、自分らがぜったいに損しないように、脅かされることがないように、涼しい顔して甘い汁を吸いつづけることのできる、自分らのためだけの頑丈な仕組みをつくりあげて、それをせっせと強くしてんの。あんた、金持ちが金をもってることと、自分のあいだには、なんにも関係がないと思ってるでしょ」ヴィヴさんはわたしの目を見た。「でもね、金の量は決まってるんだよ。金持ちのところに金があるから、あんたのとこに金がこない。ぜったいにこない。すごくシンプルな話なんだよ。金持ちが死んだあともずっと金持ちのままで、貧乏人が死んだあともずっと貧乏人のままなのは、金持ちがそれを望んでるからだよ。金をもってるやつが、金をもってるやつのためにルールを作って、貧乏人はそのルールのなかでどんどん搾りとられていく。そして滓になったやつは、滓になるだけの理由があったんだと思いこませる。まるで滓にも滓にならないですむチャンスがあったみたいなことを平気で言う。ふざけんじゃねえよ、おまえらが搾りとってるから滓になって滓のままなんだろうが」

 ヴィヴは単に金を稼ぎたいのではなく、明らかに日本の格差社会の構造を見透かし、それに戦いを挑んでいる。作中の時代背景は前世紀末だが、二〇二〇年代に書かれた小説だからこそ、登場人物がこのような透徹した認識を持っているのだとも言える。そして偽造カードによる窃盗でどんどん稼ぎを増やしてゆく花も、「もしすべてがばれたらわたしは警察に捕まってニュースになって、世間の人々が口々にわたしを非難して責めることもわかっていた。誰だってみんな金が必要で、だからこそ汗水たらして働いているのだと。でもわたしは半笑いで言ってやりたかった。わたしも汗水をたらしていますよと。誰の汗水がいい汗水で、誰の汗水が悪い汗水なのかを決めることのできるあなたは、いったいどこでその汗水をかいているんですか? たぶんとても素敵な場所なんだろうね、よかったら今度行きかたを教えてくださいよ」という認識に達する。

 だが、蘭や桃子をも犯罪仲間に引き入れたとはいえ、黄美子がろくに働かず、花が四人ぶんの生活を支えている状況は、彼女の心に次第に鬱屈を生じさせてゆく。一方で蘭や桃子も、上から目線で説教を垂れるようになった花に不満を募らせる。「れもん」を四人で復活させるという当初の夢もいつしか忘れられてしまい、ある出来事を機に、四人の女の共同生活は終わりを告げることになる。

『黄色い家』という小説は、前世紀から現在にかけて形成されてきた階級社会を背景にしている。貧困から這い上がろうとした主人公の花は、三人の女とともにささやかな居場所を見出すが、端金が盗まれても気にしないような生まれつきの上流階級相手の犯罪という戦いで、ほぼ自滅に近い敗北を迎えることになる。登場人物の中では最も抜け目なく立ち回っていたかに見えたヴィヴも、最後どうなったかは判然としない。そして冒頭とラストで描かれる二〇二〇年には、花はそれまで販売スタッフとして働いていた惣菜屋がコロナ禍で休業になったことで唯一の収入源を失っている。女性の貧困問題は以前から指摘されていたことではあったけれども、それが誰の目にも明らかなほど可視化されたのはやはりコロナ禍がきっかけだった。

 そうした現況の象徴とも言えるのが、二〇二〇年十一月に起きた、ある殺人事件だった。東京都渋谷区幡ヶ谷はたがやのバス停で、ホームレスの女性が石などが入ったポリ袋で頭を殴られ死亡したという事件である。被害者は同年二月頃まで派遣会社に登録し、スーパーで試食販売を担当していたが、アパートの家賃を払えなくなり、路上宿泊をするようになったと推察される。亡くなった時の所持金は僅か八円だったという。

 この事件に関しては、現在の社会状況と照らし合わせて、被害者と自分の境遇を重ね合わせたひとが数多く存在し、女性たちによる追悼集会とデモが開かれたりした。彼女は私だ――と少なからぬ女性が感じたのだ。この事件をモチーフにしたのが映画『夜明けまでバス停で』高橋伴明たかはしばんめい監督、梶原阿貴かじわらあき脚本、二〇二二年)である。映画ジャーナリストの斉藤博昭さいとうひろあきによるネット記事「幡ヶ谷バス停での殺人の衝撃…。事件翌日に現場に立ち、自分ができることは『映画』だと誓った」(二〇二二年)によると、以前、事件現場近くに住んでいたことがある梶原阿貴は、事件翌日に現場を訪れ、「現場に花を供えて、自分に何ができるかを考えました。もし私が生前の被害者女性を見かけたら、何をしていたのだろう。声をかけて、ペットボトルの水を差し出すくらいはしただろうか。実際に会っていないのでわかりませんが、何もできなかったことに戸惑い、自分は映画を作る人間なのだから、彼女を助けられなかったにしても、今から何かやれることがないかと思いを巡らせました」という感慨に駆られ、自らの発案で『夜明けまでバス停で』の脚本を手がけることになる。

『夜明けまでバス停で』は幡ヶ谷の事件をモチーフにしてはいるものの、主人公の北林三知子きたばやしみちこ板谷由夏いたやゆか)の設定は現実の被害者から大幅に改変されている。三知子はフリーのアクセサリーデザイナーだが、それだけでは生計を立てられないので居酒屋でパートとして働いている。この居酒屋は、正社員とパートの格差、女性へのセクハラ、外国人従業員へのパワハラ等々、コロナ禍以前から既に日本社会に存在した歪みの見本市の様相を呈しているのだが、コロナ禍の到来により、その影響が三知子にも襲いかかってくる。アクセサリーの個展が中止になり、続いて緊急事態宣言で居酒屋が休業を余儀なくされたため三知子たちパートは解雇され、社宅のアパートから追い出されてしまう。ようやく見つけた介護施設での住み込みのアルバイトも、勤務のため訪れた当日、施設内で新型コロナウイルス感染者が出たため新規雇用はいきなり中止になる。仕事も住処も失った三知子は、気がつけばバス停で寝泊まりする日々を送るようになっていた。

 実家に頼れない事情はあるにせよ、それでも彼女にはギャラリーの経営者・マリ(筒井真理子つついまりこ)や居酒屋の店長・千春ちはる大西礼芳おおにしあやか)のように、頼れば助けてくれた筈の人間が周囲にいる。生活保護を申請することも出来ただろう。しかし、三知子は生真面目で責任感の強い性格が災いして、他人に助けを求めることが出来ず、そうこうしているうちにどんどん貧困の蟻地獄に嵌まってしまう。

 梶原阿貴は先述の記事で三知子について、「もともと三知子は、社会全体で例えるなら、階段の2段目くらいに座っていた存在です。アルバイトでも何でも、働きさえすれば生活をすることができました。ただコロナ禍になり、誰もが下に〝落ちる〟危機に遭ったとき、階段の5段目くらいの人は落ちても3段目か2段目。でも、もともと2段目の人は一気に最下段へ突き落とされる。そのような状況の中、政府は『自助・共助・公助』、そして『絆』という言葉を持ち出したりして、そこへの怒りもありましたね」と語っている。自助とは災害などが起きた時に自分や家族の身を自分自身で守ること、共助とは地域やコミュニティによる助け合い、公助とは行政や公的機関による救助や支援を指す言葉だが、二〇二〇年に首相に就任した菅義偉すがよしひでが「自助、共助、公助、そして絆」という言葉を政策理念として掲げたことに対しては、まず自助を優先させるのは自己責任論に基づくものだという批判が相次いだ。

 貧困地獄の果てに三知子が迎える結末は、現実の事件とは大きく異なっている(この映画はミステリ映画ではないけれども、現実の事件を知っていることを前提としたどんでん返しが用意されているという意味で、ミステリ的な創作手法が取り入れられているとは言えるだろう)。その点を不謹慎と受け止める観客も出てくる筈だ。だが私は、映画のスタッフはこの改変によって現実の事件の被害者のみならず、加害者の男性(二〇二二年、保釈直後に自殺した)をも救ったのだと感じた。そしてラストシーンでは、「自助・共助・公助」といった言葉を持ち出して国民への責任を放棄した自民党政権に対し、この映画の作り手たちの憤激が文字通り爆発する。

 ここまでは女性の貧困を扱った作品を紹介したが、女性より有利な立場にいると思われている社会的地位の高い男性も貧困と無縁ではないことを示すのが天祢涼あまねりょう『希望が死んだ夜に』(二〇一七年)だ。この作品は、神奈川県警多摩署生活安全課の仲田蛍なかたほたると、同県警捜査一課の真壁巧まかべたくみが登場するシリーズの第一作にあたる。空き家で首吊り状態の少女の遺体が発見され、現場から逃走しようとした別の少女が、通りすがりの巡査によって確保される。二人は中学の同級生だったが、死亡した春日井かすがいのぞみは明るく社交的なクラスの中心人物で、友人も多かったのに対し、捕まった冬野とうのネガはクラスで孤立気味で、遅刻や欠席が多く成績も芳しくなかったという。ネガの母親の映子えいこは厳格な家庭で育ったことと夫のDVが原因で、離婚後も男性から高圧的な態度を取られるとパニックを起こすようになっており、スナックと弁当屋での仕事を休みがちである。当然、娘のネガも貧乏が日常となっていた。

 裕福な家庭に恵まれたのぞみと、貧困に苦しむネガ。この構図からは前者から後者へのいじめが想像されるけれども、仲田と真壁による関係者への聞き込みからは、そのような事実は浮かんでこない。そもそも殺意が生じるほどの接点が二人のあいだには存在しないようなのだが、ネガはのぞみを殺害したことは認めつつ、動機だけは決して口にしようとしない。

 福祉事務所の嘱託職員は、冬野映子がこの三年で四度、生活保護の相談に来訪していたと証言し、最後に相談に来た時だけ娘のネガを連れてきたのはケースワーカーの同情を引くためではなかったかと推測する。その時、ネガは一言だけ、「生活保護を受けていても、高校は行けますか?」(引用は文春文庫版、以下同じ)と訊いたという。

 福祉事務所で生活保護を断られた帰り、母娘は喫茶店に寄る。その時のネガの心情は次のように記されている。

 あたしだって、最近は随分と追い詰められている・・・・・・・・・・・・・・・ので、生活保護を受けられたらどんなに楽になるだろう、とは思う。でも心のどこかで、ほっとしてもいた。
 何年か前に起こった生活保護バッシングを、はっきり覚えているからだ。
 テレビにたくさん出ているお笑い芸人のお母さんが、生活保護をもらって暮らしているとわかったことがきっかけだった。お金があるのにずるい、とむかついたけれど、法律違反ではないらしいし、芸人さんは国にお金を返したというので、それで話は終わりだと思った。
 でも、芸人さんへのバッシングは続いた。その矛先は、いつの間にか生活保護そのものにも向けられた。
 ――生活保護を受ける人は甘ったれている。
 ――生活保護を受けないように一生懸命働くのが常識だ。
 ――まじめに働いている人より、生活保護受給者の方が金をもらうなんて不公平だ。
 テレビでは頭がよさそうな人がそう語っているし、学校でもクラスメートが「生保ナマポの金に消えるのかと思うと、消費税を払うのもばかばかしくなる」「生活保護を受けるような大人にだけはなりたくない」などと話している。
 衝撃だった。
 生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活」を受けるための最後の砦だと学校で習ったのに。嘘だったのか。あたしは甘ったれていたのか。
 生活保護なんて受けたら、肩身が狭くなりすぎて、一生、学校に行けなくなる。
 それに気づいたから、ママに「一緒に福祉事務所に行きましょう」と言われても、断固拒否していたのだ。

  クラスメートの発言に出てくる「ナマポ」とは、生活保護受給者、あるいは生活保護制度自体を表すネットスラングで、不正受給への批判のニュアンスを含む。

 本来、厚生労働省が定める最低生活費に収入が達していない国民は、生活保護を申請することが可能である。だが、生活保護の受給者が増えるにつれ、不正受給者の存在も目立つようになり、先の引用にある二〇一二年の芸能人家族の受給問題が世間の怒りに火をつけた。この問題に関し、当時の自民党幹事長・石原伸晃いしはらのぶてるをはじめ、片山かたやまさつきや世耕弘成せこうひろしげといった自民党の政治家たちが生活保護バッシングを繰り返したにもかかわらず、二〇二〇年六月、参議院決算委員会における生活保護をめぐる議論において、日本共産党の田村智子たむらともこ議員の「一部の政党や政治家が生活保護への敵意を煽ってきた」という指摘に対し、安倍晋三あべしんぞう首相(当時)はそれは自民党ではないと強弁した。

 一連のバッシングにより、働きたくない怠け者が生活保護を申請するというイメージが生まれてしまったけれども、実際には不正受給者の割合はごく僅かである。受給者の多くは、病気や障害、あるいは身内の介護などの理由で働きたくても働けない事情を抱えている。生活保護バッシングは、そうした人々を正当に受けるべき権利から遠ざけてしまったという意味で極めて罪深いものである。

『希望が死んだ夜に』の本筋に話を戻せば、捜査により、二人の少女の背景に驚くべき事実があったことが判明する。のぞみの家はもともとは裕福だったけれども、父・信之のぶゆきが勤めていた会社の業績が不景気で悪化し、契約社員となったことで環境は一変する。リストラされた信之は契約社員として再就職するも、給料は安く不安定。更に鬱病になり、貯金を取り崩しながら生活費とローンの返済に充ててきたものの、限界が近づいている……というのが春日井家の現状だったのだ。お嬢様に見えたのぞみと貧困家庭育ちのネガの境遇は、意外にも近かった。のぞみは学費と生活費のため、父に黙って居酒屋でアルバイトを始める。その同じ店でアルバイトをしていたのがネガだった。

 豪邸を手離しさえすれば生活保護を受けられたのではないかという仲田の問いに、信之は「何年か前に、生活保護バッシングがあったでしょう。あのとき、『本当に困っている人が保護を受けにくくなる』と言っている評論家がいたんですよ。正直、理解できませんでした。本当に困っているなら、バッシングなんて気にせず保護を受ければいいじゃないですか。あの話題で盛り上がっているとき、我が家はもう相当苦しかったけど、いざとなったら受けるつもりでしたよ。でも、本当に自分がそういう立場まで追い詰められると、どうしても決断できなくて……上場企業に勤めていたのに……男のくせに……情けなくて、引け目を感じてしまって……娘には『母さんとの思い出があるから売りたくない』と言い張って……」と答える。「男のくせに」といった意地に囚われ生活保護受給に踏み切れなかった信之に対し、真壁は「理解できない。俺が同じ立場なら、迷うことなく保護を申請している」と思うのだが、彼はネガについても「貧困自体は珍しいことではない。俺だって人並み以下の生活を送ってきたし、似たような友人もたくさんいた。君の周りにだっていたはずだ」「貧困が動機に関係している可能性はあるが、殊更に同情する必要はない。金がないのにスマホを持っていたんだ。必要なものの優先順位を間違えている。それに這い上がろうと努力しなかったことに関しては、彼女にも責任がないわけじゃない」と仲田の同情的な態度に対し苦言を呈している。貧しい母子家庭で育った真壁は、そこから這い上がって刑事になったという自負があるぶん、這い上がりそこねたネガに対して見方が厳しい。彼は、二〇〇〇年代からこの国で流行した自己責任論を内面化した人物として描かれている。

 仲田と真壁がコンビを組むシリーズの第二作『陽だまりに至る病』(二〇二二年)では、前作『希望が死んだ夜に』で描かれた状況が、コロナ禍によって更に悪化しているさまが写し取られている。主人公である上坂咲陽かみさかさよの家庭は裕福であり、同級生の野原小夜子のはらさよこは絵に描いたような貧困家庭に育ったが、コロナ禍がきっかけで、小学生の咲陽にもわかるほど上坂家も余裕のない状態になってゆく。また、作中で起こる事件の犠牲者である元大学生の鈴木夏帆すずきなつほは、奨学金だけでは学費や生活費を賄えず、風俗でのバイトで手っ取り早く稼ぐ道を選んだが、コロナ禍で風俗店が休業や閉業に追い込まれ、退学を余儀なくされる。住んでいたアパートも家賃を払えなくなって退去したが、先に述べたような生活保護を受けるのは情けないことという思い込みのせいか、申請には抵抗があったようだったという。この事件のさまざまな要因は、仲田が述べたように「すべて、前々からあったこと」であり、それらが「コロナというたった一つの病によって、白日のもとに曝された」のである。

 冬野ネガ、春日井のぞみ、鈴木夏帆といった天祢涼作品の登場人物たちは、年齢を偽って居酒屋でアルバイトをしたり、風俗で手っ取り早く稼ごうとしたり……といった行為に走ったが、二〇二二年から二三年にかけて日本各地で発生した連続強盗事件(「ルフィ」と名乗る人物らがフィリピンの移民収容施設内から日本に指示を送っていたとされる)の実行犯たちが罪を犯すきっかけとなった「闇バイト」の背後にも、奨学金や不安定な労働環境などによる若年層の貧困化が原因として存在しており、それが改善されない限りは似たような犯罪が続く可能性がある。

 こうした日本社会の貧困化の進行は、個々の国民を苦しい境遇に追いやるにとどまらず、回り回って結局は日本という国そのものの基礎体力をどんどん削ぎ落としている。上流と下流の二極化が進む階級社会は、中流が強いことで成り立ってきた日本の技術力を弱め、産業や経済に大きな悪影響を与えることになるだろう。また、二〇二三年、東京藝術大学がピアノの一部を売却したことが話題になったが、その直接的原因は電気代の高騰であるものの、二〇〇四年の国立大学法人化以降、国が国立大学への運営費交付金を減額し続けていることが遠因だという見方もある。もちろんこれは芸術系の大学に限った話ではなく、各種の研究活動に支障が起きかねないことは以前より言われており、実際、文部科学省のホームページにアップされた「学術の基本問題に関する特別委員会(第6回) 配付資料」の中の「学術研究への財政支援の拡充」では、「政府の財政状況は極めて厳しく、現在、国立大学法人運営費交付金と私学助成は毎年度1%ずつ削減するとの方針が採られるとともに、国立大学法人等の施設整備費補助金についても毎年度当初予算が減少している。これに伴う研究活動費の減や研究支援者の非常勤・任期付き職員への転換等により、研究者の日常的な研究活動に支障が生じたり、学生への教育が十分に行えなかったりするなどの問題が指摘されている」「また、近年、研究の進展や高度化に伴い、研究施設・設備の大型化やその運用に係る経費が膨大になる一方で、これらの日常的な経費を支える基盤的経費が削減されており、大学・大学共同利用機関の研究施設・設備の維持に必要な費用の負担が大学の財政状況を圧迫し、大きな問題となっている」といった諸問題が指摘されている。《東洋経済オンライン》二〇二二年三月十七日の記事「『科学研究のカネ』を巡る、行政VS国立大学の攻防」によれば、二〇二一年、国立大学協会は文部科学省宛ての提言の中で、国立大学への予算配分を「我が国が発展するための未来への投資」と主張し、運営費交付金の増額を求めたが、財務省に却下された。こうしたアカデミアの厳しい状況は若手研究者の育成にも悪影響を及ぼし、高い収入や恵まれた待遇を求める研究者の海外流出も始まっているという。

 こうしたテーマを扱った二つのTVドラマに着目してみよう。その一つが、『相棒21』(テレビ朝日系、二〇二二~二三年)の第五話「眠る爆弾」権野元ごんのはじめ監督、岩下悠子いわしたゆうこ脚本)だ。ある大学の構内で爆発事件が起き、その犯人が警察に次の犯行を予告する動画を送りつけてきた。動画に顔がはっきり映っていたため、犯人はその大学の理工学部の学生・平山翔太ひらやましょうた山本涼介やまもとりょうすけ)だと判明する。大学では最近、森原真希もりはらまき大坪おおつぼあきほ)という学生が実験中に死亡する事故が起きていた。やがて、平山は新たな動画で、恩師の三沢みさわ准教授(山崎潤やまざきじゅん)を人質として監禁していることを明かし、森原の死の再調査を警察に要求する。平山は三沢が事故に関わっていると疑っているらしい。

 平山は妻帯者の三沢が森原と不倫関係にあったと思っており、視聴者もそのようにミスリードされるのだが、真相は平山の全くの勘違いだった。森原の事故死の背景には、研究室の予算不足という厳しい現実を公にしようとした彼女なりの志があり、三沢の一見不審な言動も、それを無にしたくないという切なる思いからだった。結局、登場人物に根っからの悪人は一人もおらず、過失と誤解が雪だるま式に膨れ上がって大事件にまで発展してしまったというやりきれないエピソードである。

 特命係の亀山薫かめやまかおる寺脇康文てらわきやすふみ)の妻でフリーライターの亀山美和子みわこ鈴木砂羽すずきさわ)は、事件の背景となった大学の予算不足問題はノーベル賞受賞者からも指摘されていると語るが、これは恐らく、iPS細胞(人工多能性幹細胞)開発・研究の権威で、二〇一二年のノーベル生理学・医学賞受賞者である山中伸弥やまなかしんや教授が、iPS細胞作製を支援する政府の大型研究予算が二〇二二年度で終わる予定であることについて理不尽だと述べて継続を求めるなど、研究資金の確保の必要性を繰り返し訴えている件を踏まえているのだろう。

 似たテーマを扱ったドラマが『科捜研の女2022』(テレビ朝日系、二〇二二年)だ。全九話で構成されたこのドラマは一貫して、科学によって真実を追求し犯罪の真相を暴くさかきマリコ(沢口靖子さわぐちやすこ)ら京都府警科学捜査研究所(科捜研)の面々と、道を誤った科学者たちとの対決を描いてきたが、後者の代表が物理学者の古久沢明こくざわあきら石黒賢いしぐろけん)である。科学の発展のためなら法律や倫理など一切無視して憚らない傲岸不遜な人物であり、第一話で有能な科学者の犯罪を暴いたマリコの行為を害悪だと決めつけた。複数の事件の裏でモリアーティ教授さながらに暗躍していた彼だが、最終話「―50℃冷凍マリコ!! 最終決戦ついに完結」(兼崎涼介かねさきりょうすけ監督、櫻井武晴さくらいたけはる脚本)でついにマリコと正面対決に至る。この最終話で彼は、自らが開発して犯罪に利用した科学技術を「既に海外に流した」と嘯く――「どこの国に流したか、それは裁判でも絶対に言わない。ただ、日本に激しい敵意を持つ国だ」「優秀な科学者にそれだけの特権を与えられる国だ」と。「多くの日本人を幸せにしたかも知れない科学が、これからきっと、多くの日本人を苦しめる。それが科学者を冷遇した国の末路だ!」という彼の憤激に、マリコは言葉を返せない。

 古久沢は悪人として描かれているけれども、彼の言い分は、学問研究に金を出すことを惜しみ、その当然の結果として自分たちの国力を衰退させている日本への痛烈な批判となっている。天然資源が少ないため、かつては科学技術によって世界でもトップクラスの経済大国になった日本が、今や、その産業や経済の発展を支える筈の研究者たちにろくに資金も出せないようでは、古久沢の言葉は犯罪者の開き直りではなく、いつか予言として振り返られるようになるのかも知れない。

《ジャーロ No.88 2023 MAY 掲載》



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