ミステリとカルト宗教|蔓葉信博・謎のリアリティ【第48回】
文=蔓葉信博
『祝祭の子』
逸木裕(双葉社)
『カルトの子――心を盗まれた家族』
米本和広(論創社)
1.社会とカルト宗教
二〇二二年、夏。一昨年から現在まで続く新型コロナウイルスの猛威は今、第七波として最大の感染者数を生み出している。また今年二月には、ロシア連邦によるウクライナの侵攻が突如としてはじまった。電撃的な攻勢でウクライナを占領する予定だったと思われたロシア軍だが、ウクライナ側の果敢な抵抗により占領を逃すどころか、むしろ現在まで戦果は劣勢でウクライナ北部からの侵攻は断念した。現在は再編成された部隊が東部から進行しているという。
国際的にも不穏な情勢の中、参議院選挙を間近にひかえた七月八日、安倍元首相が奈良市で演説中、凶弾に倒れた。銃撃したのは、無職の日本人男性だった。のちの報道で、その男性の母親は旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)の信者で、母の信仰のために家庭が崩壊してしまったのだが、その統一教会の活動を安倍元首相が支援していると考え、犯行に及んだという。銃撃した男性も旧統一教会ないしはそこから分派した別の宗教団体の信者だったのではという一部の噂もあったが、その後の報道ではその噂の正しさを証明する証言などはあがっておらず、今でも彼を二世信者、宗教二世としているが、厳密な意味ではそうではないはずである。とはいえ、親が信仰にのめり込んで家庭を顧みず、不幸な少年時代を過ごしたということでは同じであろう。
筆者の友人には、今もある宗教団体の現役二世信者がいる。彼は結婚もし、子供にも恵まれ、今もデザイナー業で普通に生活している。おそらく本論をお読みの方にもご友人に同様の二世信者の友人がいたりまさに二世信者本人という場合もあるかもしれない。銃撃犯のような悲惨な生い立ちばかりの二世信者だけではないということは理解いただけるだろうが、それは信仰する団体にもよる。言い換えれば、新宗教のうちカルト宗教とされるものとそうでないものとの違いだ。
新宗教とは、一般的には新興宗教と同じ対象を指す用語で、否定的ニュアンスを帯びてしまった新興宗教という言葉を学問上避けるため、主に宗教学の範囲で新宗教という言葉を用いることになったことからはじまるという。宗教学者の西山茂は簡潔に以下のように定義している。
では、カルト宗教との違いとはなんであろうか。棚次正和・山中弘編著『宗教学入門』では、「カルト」の項目を設けて簡潔に記している。一部を引用しよう。
しかしながら、説明の続きでこの定義が「価値判断を含んでい」るため「宗教学上の用語として認めない研究者も多い」と記されており、歴史的にもカルトという用語はより多義的な経緯があったとされる。実際、筆者が確認したほかの新宗教の書籍でも、右記より簡潔にカルト宗教と新宗教、ないし伝統的な宗教との線引きの基準を示すものはなかった。とはいえ、一般的には何かしらの具体的な基準が求められるであろう。
たとえば、右記の基準のうち「暴力、児童虐待、性的搾取、集団生活における強度の情動、マインド・コントロールの手法の使用」が公的に認められた団体はそう呼んでかまわないのではないだろうか。ようは何かしらの犯罪や犯罪に準じる行為を断続的に行っている団体だ。そうした団体についてのわかりやすい書籍が論創社の論創ノンフィクション叢書の一冊として、昨年復刊している。
米本和広『カルトの子』である。
2.カルト宗教と二世信者
『カルトの子』は二〇〇〇年に刊行され、カルト宗教団体の二世信者の生活を取り上げた稀有な書籍であった。今回復刊された書籍は、奇しくも今回の安倍元首相銃撃事件で注目を集めることとなった。
著者の米本和広は、ヤマギシ会の特殊なセミナーを取材したさいに、その集団農業で出会った子供が印象的で、取材をまとめた本を刊行したあとも気になっていたという。またヤマギシ会以外のオウム真理教やエホバの証人などの子供もそういえばと考えるようになり、独自に取材をはじめたそうだ。
本書では、オウム真理教、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、旧統一教会、幸福会ヤマギシ会の四つの団体に所属していた信者の親と子供が取り上げられている。どの子供も凄惨な生活をしてきたことが証言を通じて克明に書かれている。
オウム真理教では、両親とは別の施設に入れられた子供は野放し状態だったという。学校にも通わず、施設内では場所や時期にもよるが体系だった学習指導はなく、時間も一時間ほどだった。また、施設内は殺生が禁じられていたため、ゴキブリやネズミも放置され、歩けば足の裏がすぐに真っ黒になるほどだったとの証言も記されている。食事も十分には与えられていなかった。殺生が禁じられていたから、肉や魚が食事として出ることはない。さらに、途中から米も禁止となったそうだ。結果として、小学四年生の子供が幼稚園児程度にしか見えないこともあったという。身体的にもひどい状況だったが、親から引き離され、また愛情を持って接してくれる第三者もいなかったため、心理的にも虐待を受けている状態であった。修行以外はほぼ放置されたままというのが、子供たちの生活だった。
オウム真理教の数々の犯罪行為が明らかとなり、教団施設に警察が立ち入り、子供たちを保護することになるのだが、子供たちは保護されたとは考えていない。「オウムに帰せ」という言葉が子供たちから保護した児童相談員に浴びせられる。完全に教義を信じているのだ。それでも恵まれた食事や、アニメといった娯楽を与えられ、オウムで暮らしていた日々とは圧倒的に違っていたことを少しずつ実感するようになる。そうして、改善が見られ、社会的な生活ができると判断された子供は親元へと返されていった。
わかりやすいエピソードをまとめて記したが、本書ではより具体的な問題とそれに取り組む人々の努力が描かれている。また、引き取られたあとも社会生活や親子関係に軋轢が残っており、その大変な困難があったという。
こうした子供への心理的虐待、ネグレクトは、エホバの証人や統一教会、ヤマギシ会でも同様であった。さらにエホバの証人とヤマギシ会は苛烈な体罰が常態化しており、それが原因で命を奪われた子供や、自殺を選んだ子供もいた。
どの団体も信者には幸福を謳っていたはずである。にもかかわらず、子供を虐待し、両親も生活を省みぬ献金を続けたり、修行に明け暮れ、最後には家庭が崩壊していた。
読み終えて最も深刻な問題と感じたのは人間の自由意志である。どの団体もなにかしらのかたちで、信者の思考を奪う。必ずしも暴力的なものではないが、生活自体が信仰と直結しており、自由に社会と接することができず、団体の教える教義を信じ込まされてしまっていた。オウム真理教の子供たちも、ハルマゲドンや地獄の存在を信じ切っていたのである。フィクションの中で行われるマインド・コントロールは誇張されたもので実際とは違うのではないかという疑惑がつきまとっていると思うが、こうした実例を知ると環境と時間さえ揃えば不可能ではないのだと考えを改めるほかない。人の自由意志とはこうも脆いものかと痛感する。個人の問題として突き放すわけにはいかず、社会全体として取り組むべき課題だと言えるはずだ。
3.二世信者とミステリ
長くミステリとは関係のない議論を続けてきたが、テーマが重いだけにご了承いただきたい。この節からは、ミステリ作品と絡めて議論を深めていく。
今回のテーマで選ばれた作品は逸木裕『祝祭の子』である。物語の冒頭を描く舞台は、甲州市の奥、雲取山の麓にあるキャンプ場をもとにしたコミューンである。一九八〇年代後半、天谷というひとりの指導者のもとに集まった信者たちで構成されたコミューンは、最盛期では七〇人にまでなり、農業や畜産業を営みながら共同生活をしていた。
「日常を善く生きよう」
「特別な祝祭は私たちにはいらない」
この言葉がこのコミューンの決まり文句だった。
しかし、比較的うまくいっていたこのコミューンは二〇〇四年に崩壊する。天谷を支えていた石黒望という女性が密かに育てていた子供五人により、コミューンの村人は次々に殺害されたのだ。死者は総勢三十三人。コミューン自体も実は石黒が持っていた資産で運営されていたことが後にわかる。
石黒はもともと新左翼運動をしていた女性であったが、学生運動が下火になったことで、天谷を誘いコミューン運営をはじめる。そのコミューンはカモフラージュで、その裏では革命運動を継続する人間を集め、軍事トレーニングを続けることが目的だった。山々にかこまれたコミューンは格好の隠れ蓑だったのだ。しかし、オウム真理教の数々の犯行が明らかになるにつれて、参加する人間が減っていき、石黒の計画は破綻するはずだった。
ところがそのコミューンに三人の捨て子が置き去りにされたことで計画は再始動する。石黒はその捨て子たちと、コミューンを離れた親に置き去りにされた子供も引き取り、軍事訓練を行うようになる。子供らはコミューンに顔を出す以外は訓練を中心とした生活を続けていた。石黒はその訓練は「祝祭」のためのものだと言い続けていた。そしてある日、石黒の命令のもとコミューンの村人を惨殺するに至る。その虐殺こそ「祝祭」であった。
この事件は大々的に報道され、子供たちは「保護」される。しかし、その後の取材で村人の大量殺害を実行したのは保護した「子供」たちで、彼らは狂信的な石黒の指導で育てられていたことが判明する。子供たちには多くの批判が集まることとなり、年齢や環境から「加害者」とはされず、当然「被害者」でもないから「生存者」という言葉が彼らを指す言葉となった。取り調べを受けたのち、彼らには児童自立支援施設へバラバラに送致するという結論が下る。その施設でいじめを受けるものもいれば、優しい対応を受けるものもいたが、一様に同じだったのは、施設を出たあとの世間からの異様なバッシングだった。正社員として勤めることは無理で、アルバイトで働きはじめても、しばらくすれば情報が勤め先に伝わり、嫌がらせと解雇が繰り返されるのである。「生存者」のひとり、夏目わかばもそうだった。
その彼女のもとに、ある日警察がやって来る。「祝祭」の日以降、姿をくらましていた石黒が亡くなったというのだ。その取り調べが終わり、警察署からの帰り道でわかばは青いパーカーの人物にナイフで襲われる。辛くも暴漢から逃れ自宅に戻ると、同じ「生存者」の睦巳が訪ねてきた。彼の子供も暴漢に襲われたという。SNSには石黒と「生存者」の現在の住所が拡散されているというのだ。さらには他の「生存者」にも被害が出ていた。これは遺族の復讐なのだろうか。
以上が、前半の大まかなあらすじである。『祝祭の子』はコミューン形態の小さな宗教団体が舞台ではあるが、わかばは信者ではない。軍事革命を目指していた石黒というテロリスト崩れの人間の影響で育ってきた二世である。彼らは石黒を親同然に慕って生活していた。基礎体力トレーニング、関節技や闘拳などの格闘技、さらにはナイフや身近な道具を武器として戦う方法など、多岐にわたる訓練を続けていた。コミューンの村人には遊びに行くというていで、指導者の天谷とも多少とのやりとりはあった。しかし、精神的には完全に石黒に支配されていたのである。それは石黒が死んだあとも振り払うことができない。彼らは事実上の洗脳を受けていたとはいえ、多くの無辜の村人を殺害し、なんの罪にも問われていない。かわりに陰に陽にさまざまなバッシングを浴びている。とくにSNSを中心としたメディアからの批判や同情の声が彼らを苦しめる描写は身につまされるものがある。さまざまな事件が起きるごとに、テレビや雑誌、そしてネットメディアでわたしたちも見聞きするものだ。的はずれな指摘もあれば、過激にすぎる批判もあり、一方で同情する意見もあるが、そうしたものすべてが「生存者」となった自分たちとは関係のないメディアの娯楽として消費されているのではないか、という問いが作品から隆起してくる。それだけではない。そうした娯楽的な振る舞いが直接、彼女らに降りかかるというエピソードも盛り込まれる。おそらく自覚的な演出であろう。わたしたちは、犯罪がどうしても劇場化する時代を生きている。ギー・ドゥボールはそうした社会の様相を「スペクタクル」と名付けていた。あらゆるものがメディアの娯楽とされ、それを否定したりすること自体も見世物としてのスペクタクルに含まれるという(*3)。『祝祭の子』の著者は「生存者」を批判したり同情したりすることの娯楽性に自覚的と思えるのだ。
それは、現在批判の的になっている旧統一教会の二世信者や他の新宗教の団体の信者にも降り掛かっているはずだ。生活の実情をまわりのひとに理解されず、メディアの不当な発言や世間の偏見に苦しむこともあるだろう。『カルトの子』のほかに二世信者について詳しく調べた書籍は少なかったと言われるが近年、いしいさや『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』、たもさん『カルト宗教信じてました。――「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由』、高田かや『カルト村で生まれました。』といった漫画が刊行されるなど、当事者の目線に近い作品が増えている。菊池真理子の漫画「『神様』のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~」は連載半ばで幸福の科学からの抗議により連載終了となってしまうも、文藝春秋より単行本化されることとなった。御見物衆の娯楽としてではない真摯なメディア受容が望まれる一方で、メディア側も真摯で誠実な対応を望みたい。
4.ミステリと社会
しかしながら、古くからミステリは見世物的なスペクタクルと不可分なところがあった。そもそもエドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」が生まれた土壌はゴシック小説だけではなく、実録犯罪をベースにしたフィクションや悪漢小説であった。さらにはモルグ街のアパートメントで惨殺された母子の姿に扇情的な楽しみがないとはいえない。それに「マリー・ロジェの謎」は実際にあった殺人事件をモデルにして書かれてもいる。ミステリは自分の身に危険の及ばない範囲のスリルを消費する娯楽だという側面は否定しがたい。その後の英米ミステリ史におけるスペクタルの問題は割愛するとしても、日本でもそれは甲賀三郎と大下宇陀児による本格・変格論争やそれを引き継ぐ探偵小説芸術論争、そして社会派ミステリの隆盛というかたちで問い直されていると概ね考えてよいだろう(*4)。大雑把にくくれば、ミステリとして純粋なものと、ミステリとして多様なものとの綱引きがずっと続いているのである。とはいえ議論の領域が広くなりすぎたので、焦点を本来の流れに引き戻そう。
新宗教、ないしはカルト宗教を舞台にしたミステリは少なくない。古くは、コナン・ドイル『緋色の研究』だとモルモン教が深く事件に関わり、エラリー・クイーン『第八の日』は、独自のキリスト教系の宗教団体のなかの殺人事件が描かれる。
日本でも鮎川哲也『黒い白鳥』、西東登『蟻の木の下で』ではなにかしらのかたちで新興宗教が事件と関係している。とはいえ、現代のミステリファンからするといわゆる新本格以降の作品、たとえば貫井徳郎『慟哭』、井上真偽『その可能性はすでに考えた』の名が挙がることだろう(*5)。どちらも新興宗教がその物語に深く関わりを持っているが、前者は悲惨な殺人事件の引き金として用いられ、後者は複雑怪奇な殺人の謎解きの舞台として選ばれている。こうした道具として用いられることに宗教に関わりのある読者からすれば忌避感や拒絶感があることは否めないだろう。真摯に宗教に打ち込んでいるものからすれば、見世物の道具立てとして使われているようなものだからだ。個人的にも不合理な動機や安易な殺人を、宗教であることを理由に納得させるかたちの作品には否定的である。優れた作品だからあえて述べるが『その可能性はすでに考えた』の大量殺人は、謎解きのためにするもので、物語に没入するのに時間がかかったことを記しておきたい。中盤にかけてその舞台が物語には必要であり、そうでないと表現できないことに挑戦したからこその作品だということは十分理解できているつもりだ。
それに、ミステリとはそもそも冷徹なものだという意見もある。宗教だけでなく、会社や学校、殺人や誘拐などさまざまな舞台や出来事を謎解きの物語の道具として用い、読者をときには欺き、楽しませようとする。しかし、そこにはある一定の節度が求められているであろうし、それを破るなら破るなりの覚悟が求められる。『慟哭』では新興宗教にのめり込まざるをえない人間の心境が深く刻まれ、『その可能性はすでに考えた』では宗教の論理と日常の論理の重なり合いが、不可能に思えるような推理合戦の糸口となる。
『祝祭の子』でも、舞台となるコミューンの指導者・天谷の人間性は、村が最盛期を迎えていた頃の包み込むようなやり取りで描かれる。けっして悪辣な組織ではなかった(*6)。そのためか音声で残されていた天谷の説法が、「生存者」たちの心を癒やす場面が描かれる。もちろん、それがなにかの直接的な解決とはならない。殺人訓練や宗教を包括しながら、最後にひとつの境地に至る。その境地は直接、読者であるわたしたちのなにかの悩みを解決することはないだろう。しかし、間接的にできることはたくさんある。『祝祭の子』から二世問題はじめ、得られることは少なくないはずだ。
さらにいえば、書物にできることを増やしていきたいとは思う。たとえば二世信者に寄り添い、彼らの事実を記しつつも、希望と癒やしになるようなミステリがあってもいい(*7)。ほかにもさまざまな問題が山積している。どこか鬱屈した、不穏な空気を孕む時代が続いていると感じる読者は少なくないだろう。多くのミステリは悲惨で猟奇的な話が多い。しかし、それだからこそできることもある(*8)。そのための一石としてこの原稿が役立つことを願っている。
《ジャーロ No.84 2022 SEPTEMBER 掲載》
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