【新刊エッセイ】榊林 銘|山を動かす
山を動かす
榊林銘
アララト山はもっと東にあったはず。そう主張したのは、十八世紀イングランドの神学者ウィリアム・ホイストンだ。
アララト山といえば、旧約聖書においてノアの方舟が大洪水の果てにたどり着いた山として知られている。この名の山はトルコに実在する。といっても、その山は中世のヨーロッパ人が「多分あれが聖書に記されたアララト山だろう」と目星をつけたものなので、本当のアララト山は別の山だと主張する余地はあるらしい。とはいえ、ホイストンも当てずっぽうで冒頭のように主張したわけではない。
彼が山を東へ移動させたのは、中国の歴史が古すぎるためだ。
大洪水によって人類は一掃され、生き残ったノアの子供たちはヨーロッパ、アフリカ、中東へ渡り、各地の民族の始祖となった、と旧約聖書は教える。だが、それでは中国の歴史の古さや人口の多さが説明できない。であれば、とホイストンは考えた。本当はアララト山はもっと東、例えばペルシアやインドの辺りにあって、ノアの子孫はそこから東西へ植民していったのではないか、と。
今日では、ホイストンはキリスト教的世界観を科学的に説明しようと試みた最初期の学者と見られている。彼の解釈は広くは受け入れられなかったようだが、中国史と信仰の辻褄を合わせるために山の位置を変えるという大胆な発想が、個人的にはとても面白くて印象に残っている。なんだかアリバイトリックじみているし。
フィクションの中でなら、もっと好き勝手に問題を設定してもいい。『毒入り火刑法廷』の舞台は、魔女が実在する世界における魔女裁判。魔女が本物の魔法で引き起こした事件を、魔法などない、全ては人為的なトリックだと強弁する弁護士が登場する。魔女の火刑を目論む審問官は、魔法を立証しようと奮闘するのだが……。
魔法も人為も解釈次第という話を書いていたら、山くらい動かしてもいいかなという気になってくる。
《小説宝石 2024年3月号 掲載》
『毒入り火刑法廷』あらすじ
十数年前、突如現れた“魔女”―文明社会の秩序を脅かす魔女たちを取り締まる司法が“火刑法廷”であり、この裁判で魔女と認定された者は火炙りとなる。ある日、空を飛行したのでなければ不可能な死亡事件が起こる。魔女と疑いをかけられた被告の少女カラーをじっと見つめるのは、被害者の義娘となる予定だったエリス。エリスは知っていた。あの夜、本当は何が起こっていたのかを―
著者プロフィール
榊林 銘 さかきばやし・めい
1989年、愛知県生まれ。名古屋大学卒。2015年「十五秒」が第12回ミステリーズ!新人賞佳作となり、2021年、同作を含む短編集『あと十五秒で死ぬ』でデビュー。
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