多島斗志之『不思議島』~今治[前編]|佳多山大地・名作ミステリーの舞台を訪ねて【第5回】
文・撮影=佳多山大地
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今回の取材旅行に出る四日前、長年愛用してきたガラケーをついに手放した。尤も、スマホに乗り換えて一月半が経った今も、追加で入れたアプリはJR西日本の路線情報をキャッチするWESTERのみ。こんなに使われないスマホが不憫に思えてきたぞ……。
愛媛県の今治に向けて出発したのは、梅雨入り間近の六月二日木曜日、晴天。この日の最初のお目当ては、四年前(二〇一八年)に運用が始まったハローキティ新幹線に遅ればせながら乗ることだ。サンリオの看板キャラクターとしておなじみ、ハローキティとのコラボレーション企画で、キティちゃん的世界観に彩られた500系新幹線に!
そもそも、僕が好きな新幹線はダントツで500系である。真横から見た顔はジェット戦闘機のようにシャープで、近未来的。それでいて、速さの追求からチューブ状にした車体は、日射しのもとだとヌラヌラして大蛇の胴部のよう。窓際の席に着き、丸みを帯びた側壁のフックから上着を吊るそうものなら、弁当を置いたテーブルの上に掛かって邪魔でしょうがない。そんな欠点も含め、今では山陽新幹線のこだま号としてしか運用されない500系を偏愛している。
ハローキティ新幹線は、ほぼ毎日、博多・新大阪駅間を一往復している。早朝六時三十二分に博多を出るこだま838号が、折り返し新大阪発十一時三十二分のこだま849号になるのだ。この日、すでに夏めく日射しをよけながら歩き、自宅最寄りの吹田駅に到着したのは十一時五分。四分後に出る鈍行で二駅先の新大阪に向かえば、新幹線ホームで十五分くらい撮影時間を確保できるはずだったのに――なんと摂津富田・JR総持寺駅間の踏切で「異常」が発生中! 踏切を横断中の自動車がエンストでもしたか、それともただ迷惑なだけのイタズラか……。当初遅延の見込みは「5分」と電光掲示されていたが、見る見る数字は増えていき、ついには「20分」に。ああ、今回の旅は幸先が悪い。
自分のいる下りホームの、先頭車両が停車する辺りに目をやる。と、六十年輩の背広姿の紳士が顔を真っ赤にして、駅員に何か怒っているみたい。「キティちゃんの新幹線にもう間に合わへん! どないしてくれるんや、ワレっ」と頭の中でアテレコして、ぞっとする。あきらめて改札の窓口に戻ると、せっかくのハローキティ新幹線の指定席を、福山駅に停車する後続ののぞみ号に二百十円増しで乗変してもらった。新大阪発が十二時三十八分、福山着十三時三十九分。これでも、福山駅前から乗る予定のバスに間に合う。
――結局、件の「異常」は特に認められなかった、ということで運転は再開。まあ、人が巻き込まれたような事故が発生していなかったのだから良しとするほかないか。話は前後するけれど、この日からちょうど一週間後に、改めてハローキティ新幹線の撮影だけを敢行している。リベンジは、電車ではなく自転車で。わが家からゆっくり二十数分もペダルを漕げば、新大阪駅に行ける。
東口の駐輪場に自転車を停めて、広い駅舎内へ。きっぷ売り場で購入するのは、百三十円の入場券だ。南口の新幹線乗り場から改札内に入ると、今日はどこかに旅するわけでもないのにワクワクしてしまう。一週間前に乗るはずだったハローキティ新幹線は、定刻どおり静かに20番ホームに滑り込んできた。ピンクのリボンで包装されたふうの車体は、予想していたより全然派手じゃあない。白を基調にしているぶん、かえってノーマル500系の胴部のぎらつきが抑えられている印象だ。
外見の撮影に励んでいるうち、車内清掃が終了。発車まで数分は余裕があるので、そのあいだにキティちゃんの限定グッズも買える物販スペースがある1号車や、特別にカワイイ内装が施された2号車の中を見てまわる[写真①]。これでもう、すっかりハローキティ新幹線に乗車した気分で、ようやく今回の取材旅行にいちおうのケリがついた。さあ、この新幹線の足回りまでよく見える21番ホームに急ぎ移動し、一週間前の自分の幻を乗せたカワイイ超特急を見送るとしよう。
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時間を元に戻そう。取材一日目の昼食は福山駅の近くで尾道ラーメンをすするつもりだったけれど、新大阪駅の一階「味の小路」でトマトソース・スパゲティをくるくる巻くことに。新大阪駅を発つのが一時間と六分遅くなった結果、優雅に食後のコーヒーまで飲めてしまった。
さて、西進する山陽新幹線が六甲山地のトンネル群を抜けてすぐ、遠い海側に目をこらすと、明石海峡大橋の橋脚の上部が辛うじて見える。あの海峡大橋のたもとに辛亥革命の指導者・孫文ゆかりの移情閣が威容を誇る[写真②]。多島斗志之の国際謀略小説『〈移情閣〉ゲーム』(一九八五年)で、中国と台湾の歴史的融和劇がついに実現する舞台となるはずだった建物だ。同作が二〇〇七年に復刊されたとき、僕は巻末解説の役を任された。そのおり、編集サイドから求められたわけでもないのに移情閣をわざわざ現地調査する気まぐれを起こしたことが、もともとの鉄道旅行趣味に加え〝名作ミステリーの舞台を訪ねる〟というライフワークの端緒になったのだ。だから多島斗志之は、僕が勝手に恩人と認定している作家の一人なのである。
多島斗志之は一九八二年にユーモア小説「あなたは不屈のハンコ・ハンター」で小説現代新人賞を受賞すると、その三年後に『〈移情閣〉ゲーム』で単行本デビューを果たした。その作風は多彩かつトリッキーで、亡命ロシア人の祖母が遺した〝黒い鞄〟の争奪戦にヒロインが巻き込まれる『密約幻書』(一九八九年)と今回その舞台を訪問する『不思議島』(一九九一年)とで二度、直木賞候補にも挙がっている[写真③]。底堅い人気を誇る作家だったが、二〇〇八年刊行の奇しき歴史ロマンス『黒百合』を〝最後の著作〟と紹介するほかないのが残念でならない。壮年期に右目を失明していた多島は、還暦を過ぎて左目までも見えづらくなってきたのを苦にし、二〇〇九年十二月十九日、家族宛ての遺書を残して消息を絶ったのだ……。
乗変したのぞみ号は、遅延なく福山駅に到着。南口のロータリーから、午後二時ちょうどに出発する高速バス〈しまなみライナー〉に乗り込んだ。福山市街を抜け、お隣の尾道市へ。そこから、いよいよ西瀬戸自動車道――通称「しまなみ海道」に入る。向島から因島、そして生口島と、ここまでが広島県。生口島と大三島をつなぐ多々羅大橋の中間に、愛媛県との県境がある。
バスの左右の車窓は、瀬戸内海西部――芸予諸島の景観を刻々と変化して映し出す。四国に渡るとき、明石海峡大橋や瀬戸大橋はたびたび利用していたけれど、しまなみ海道を通るのは今回が初めて。正直、車窓の風景の素晴らしさでいえば、この巴戦は最後に土俵に上がったしまなみ海道の圧勝だと認めたい。そもそも日本は、六千八百五十二もの島々からなる多島海国家だけれど、広告マンだった鈴田恵が多島斗志之なんてペンネームにしたのは、特に瀬戸内海の〝多島美〟に魅せられていたからだろうか? 年来の多島ファンには周知のとおり、今回フィーチャーする『不思議島』(徳間書店初刊)のみならず、海上タクシーを営む元広告マンが活躍する海洋冒険小説の姉妹篇(一九九五年発表の長篇『二島縁起』とその翌年まとめられた連作集『海上タクシー〈ガル3号〉備忘録』)の舞台も瀬戸内海西部だった。
バスは大三島から伯方島、そして大島へ。しまなみ海道は、一九七五年に大三島と伯方島を結ぶ大三島橋が起工されたのを皮切りに二〇〇六年の全面開通まで足掛け三十二年、五月雨式に出来上がってきた。『不思議島』の物語の当時、大三島・伯方島・大島の三島は橋で結ばれていたが、まだ芸予の境は海上にのみあり、大島と四国本土も船で行き来するしかなかった。
大島と本土今治との間の〝海の難所〟来島海峡に、全長約四千百メートルに及ぶ来島海峡大橋が開通したのは一九九九年。『不思議島』が書かれたとき海峡大橋は、影も形もなかったわけだ。ヒロインの二之浦ゆり子は、今治港から大島の下田水港に針路を取るフェリーの中で、大島の診療所にやって来たばかりの医師、里見了司に声をかけられる。若い二人は間もなく急接近することになるのだけれど……なぜか里見は、ゆり子が十二歳のとき書道塾帰りに何者かに誘拐された未解決事件を執拗に追及しはじめるのである。
海峡大橋をついに渡りきり、バスは今治の中心街を目指す。午後三時半過ぎ、予定より数分遅れて今治駅前に到着。駅のすぐそばのビジネスホテルにチェックインし、荷物をすこし軽くしてから今治駅へ。駅舎内で迎えてくれるのは、二〇一二年のゆるキャラグランプリ王者「バリィさん」のモニュメントだ[写真④]。まるまると肥えたヒヨコみたいなバリィさんは腹巻をしているのが特徴的で、かのキティちゃんに負けず劣らずカワイイ。が、バリィさんのプロフィールによれば、好きな食べものは今治名物の焼き鳥らしく……これってブラックジョークと受け取っていいのだろうか? おまけにバリィさん、「ハルさん」という名の犬まで飼っている。これなど、世界で一番有名なネズミが犬をペットにしているカオスのパロディなんだろうな。
今治駅で乗り込んだのは、午後四時十三分発の予讃線・松山行。四駅先の伊予亀岡で下車し、とことこ歩いて今治街道(国道196号線)に出たとき、この旅で初めて潮の香を嗅いだ。ああ、ハローキティ新幹線以上のこの日のお目当て、斎灘にぷかりと浮かぶ怪島を望む。なんだか、フワッフワに仕上げたお好み焼きに、たっぷり青のりをかけたみたいだ[写真⑤]。今回の取材旅行でなぜこの小さな島を紹介するのか、くわしく説明するのは憚られる。とにかく、『不思議島』を読めば絶対、ひと目見たくなる島影にちがいないのですよ。
さっきフライング気味に紹介したが、『不思議島』は誘拐物のミステリーの顔をしている。物語のヒロインは、大島の中学校で数学を教えている二之浦ゆり子。彼女は、十五年前の小学六年生のとき営利誘拐されたことがあり、当時の警察はゆり子の祖父弥助から勘当された長男(ゆり子にとっては叔父)の犯行を疑った。二之浦の本家が犯人の言いなりに身代金を渡し、人質になったゆり子を取り戻してからようやく警察に通報したのは、どうも身内が起こした犯罪らしいと察したためではなかったか? その後の捜査にも、二之浦家の者は極めて非協力的だったらしいのだ……。
怪島を撮影する時間は、ゆっくり取れなかった。速足で伊予亀岡駅に引き返し、午後五時十八分発の伊予西条行に飛び乗った。今治に戻る途中、電車が波止浜駅をゴトンと出たとたんキキーッと急停車。ドアが開くと、ポニーテールの若い女の子が一人、不織布マスクをパカパカさせながら駆け込んできた。ああ、もし自分が伊予亀岡駅で一本逃せば、次に来るのは一時間と十四分後だったもんなあ――。この間、運転士は何もアナウンスせぬまま。ドアは再び閉まり、電車はガタンと動き出す。これはただの、ローカル線の日常のひとコマだ。
さて、勝手に心なごんだ他所者は、それでもその晩、焼きバリィさんで一杯やりにいく。ところが、ビジネスホテルのフロントで紹介された店は、続けて二軒、満席だった。ようやく入れた三軒目で、まずは瓶ビールと皮とねぎまとナンコツから。
周囲から聞こえてくるのは、今治弁ばかり。観光客はあまり来ない店みたいだ。港町に住む人は、肉を好む。いや、好むというより、海の幸に恵まれすぎると、魚より肉のほうを〝ごちそう〟と感じるからだろう。大阪生まれの大阪育ちである自分のことを「他所者」なんて言ったけれど、じつは僕の田舎はここ愛媛県である。両親とも宇和島市の九島という島の出身だ。小学生時分は、夏休みになるたび母の実家に帰省していたものだけど、僕らが来るとなった日には、母の今は亡き兄(漁船の船長である!)が本土宇和島までわざわざ牛肉を買いに行っていたことを思い出す。――さあ、明日はけっこうな運動量になるはずだ。瓶ビールをもう一本と、レバーとハツを追加で頼もう。
(次号につづく)
《ジャーロ No.84 2022 SEPTEMBER 掲載》
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『不思議島』多島斗志之
■あらすじ
二之浦ゆり子は青年医師・里見に誘われ、瀬戸内海の小島巡りに同行するが、その際、ひとつの無人島を目にしたことで、過去の悪夢が甦る。彼女は15年前誘拐され、その島に放置されたことがあるのだ。里見と交際を始めたゆり子は、彼とともに過去の謎と向き合う決意を固めるが、浮かび上がってきたのは驚愕の真実だった。『症例A』の著者が贈る、ドラマとトリックが融合した傑作。
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