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革が好きな高校生だった
革との出会いは高校生の頃でした。ちょっと背伸びして、いい感じの革の財布が欲しいと探したけれど、しっくりくるものが見付かりませんでした。
当時、ジェロニモという洋食屋さんに同級生の仲間たちと通っていました。
「おっちゃん、300円しかないけど何か食べさせて!」とお願いすると、舌打ちと共にカレーライスを雑に盛ってくれるようなお店でした。
愉快な大人達が集まるお店で、格好良い音楽を教えてくれたり、釣りやバーベキューに連れて行ってくれたり、授業参観に来てくれたり、空冷フォルクスワーゲンの魅力を教えてくれたり・・・
おっちゃんも常連の皆も、若いぼくたちを面白がり、可愛がってくれました。
そんなジェロニモのおっちゃんが趣味で革細工をやっていたのです。欲しいのが無いなら自分でつくればいいんだと気付き、教えてもらって革を買い、初心者用の工具を買い、見様見真似で財布をつくってみました。もともと工作が得意で自信はあったのですが、革をまっすぐ切るのも難しい有様でした。
出来上がった財布は実に無様なものでした。
悔しくて2つめをつくりました。上手くできない。どうにかしたい。
改善点を盛り込んで3つめを。うーん、次こそは。どんどんのめり込んでいきました。
国産革の多くは半裁(一頭の牛を縦に半分に割ったもの)で流通しています。当時は革の小売も今ほど細分化されておらず素人も半裁で買うしかありませんでした。そんな訳で手元に大きな革があり、たくさん財布をつくり続けました。
その後、アルバイトをしながら革を買い、工具を買い足す日々になりました。既製品をたくさん分解して勉強しました。つくるものもある程度の形にはなってきました。
「革職人」という職業への憧れが芽生え、次第に膨らんでいきました。高校は辞めました。
少し余裕ができれば各地の革工房を訪ね歩き、「将来、革をしごとにしたいんです!」という意気込みとお土産のすだち酒を携えて、技術的なことを教えてもらったり、朝から晩まで作業を見学させてもらったり、優しい職人の方々にお世話になりました。
そんな中、凄まじい鞄をつくる手縫いの職人さんに出会いました。
初めて先生の鞄を拝見したときのことは今でもはっきり覚えています。
全身が痺れて、直立不動、涙目で冷や汗、、
「人間ってこんなに凄いものをつくれるんだ」と感動し、同時に怖くなりました。
汗だくのまま少しお話させていただきましたが、内容はほとんど覚えていません。涙をこらえるのに必死で、逃げ出すようにお店を後にしました。いつものように図々しく作業を見学させてもらうつもりだったので時間が余り、興奮冷めやらず、刺すような寒さの街を汗だくでおたおた歩き回りました。
徳島に帰ってからもずっと頭から離れず、再訪しました。
教室をされていると聞き、ぜひ通わせてほしいとお願いしました。
「ぼくもこういう品物をつくれるようになりたいんです。」
「そういうのは良くないよ。自分のつくりたいものは無いのかい?」
「・・・」
そのときのぼくは、先生の品物を前にして自分の考えるものなど霞んでしまい、何も言えませんでした。それでも教室に入りたい旨だけは何とか伝え、欠員を待って、通わせていただくことになりました。
通い始めてしばらくは先生の話す内容の濃さと深さに、自分との甚大な差を感じて落ち込みながら興奮していた記憶があります。狭い夜行バス、宿は友達の家、という東京往復の日々でした。
先生から頂いた、ずっと大事にしている言葉があります。
「一度でも手を抜いた奴は、もう二度と這い上がれない。」
ぼくはジェロニモのおっちゃんにきっかけをもらい、先生に本物の職人の凄さを教わりました。
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23歳の春にghoeをオープンしました。
場所はジェロニモの跡地。大家さんに頼み込んで、家賃も考えてくださって、なんとか契約できました。
とにかくお金がなかったので内装も手づくりでした。友人達が手伝ってくれて、壁を塗り、天井を塗り、作業台を作りました。ジェロニモのおっちゃんは陳列棚を作ってくれました。
オープン当初の空っぽでチープな店内と、未熟ながら必死で向き合った製作を懐かしく思います。
考えが甘く、ご迷惑をおかけしたこともありました。様々な経験をさせていただき次第に職人として認めてもらえるようになりました。
多くの皆様が支えてくださるおかげで、なんとか続けられています。
来春で8周年を迎えます。これからも成長していきたいです。