この世で一番美しい場所を見つけてしまった (イギリス縦断の旅-17)
こんにちは。ゲンキです。
イギリス旅行記第17回は、海辺の小さなリゾート地「ソルトバーン・バイ・ザ・シー」編をお届けします。
~旅の概要~
普段から鉄道で旅をしている僕は、鉄道の祖国であるイギリスを巡ることにした。本土最北端の駅「サーソー(Thurso)」から本土最南端の駅「ペンザンス(Penzance)」を目指す、イギリス縦断の鉄道旅。ここまでたくさんの人や風景に出会ってきたが、旅はまだまだ終わらない。今日も何かが僕を待っている。
(2023年3月実施)
15:10 Northern Rail
現在僕は普通列車に乗ってイングランドの東海岸を移動中。
これから向かうのは、この列車の終点であるソルトバーン(Saltburn)という小さな海辺の町。
「ソルトバーン」は由緒ある立派なリゾート地なのだが、なぜか日本ではごく一部のガイドブックでしか紹介されていない。それどころか、ネット上にもソルトバーンについて日本語で詳しく書かれた記事はほとんど存在しない。ロンドンからの距離と時間を考えても、ここを訪れる日本人は年間二桁いるかいないかだろう。
そんな辺鄙な場所をわざわざ訪れようとしているのには理由があるのだが、それはまた後で話すとしよう。ひとまず荷物をまとめて列車を降りる。
15:19 Saltburn-by-the-Sea
終点のソルトバーン駅に到着。街の正式名称は「ソルトバーン・バイ・ザ・シー(Saltburn-by-the-Sea)」。ここでは駅名と同じく「ソルトバーン」と呼ぶことにする。
駅のホームを出て、まずは今夜のホテルに荷物を置きに行く。
今日の宿は、駅から歩いてすぐの場所にあるTHE VICTORIAというホテル。G階(地上階)にバーがあり、1階(2階)から上がホテルになっている。
そしてこれが今晩のお部屋。死ぬほど広くて豪華。
実を言うと、これでもネットで見つけた時にはソルトバーンで最低価格のお部屋であった(1万3000円)。やはりリゾート地だからかお高めのホテルしか検索に引っかからず、それでもせっかくなので良い所を予約したのである。
とはいえこの広さは想定外。逆に落ち着かんわ。
フカフカな床の片隅に荷物を置いたところで、さっそく海を見に行こう。ホテルから海岸までは徒歩3分ほどで行くことができる。
視界が開けて、右手遠方に焦茶色の断崖絶壁が姿を現した。岩にぶつかった波が塩水を撒き散らし、その手前に砂のビーチが広がっている。高低差も相まってとても迫力のある光景だ。
下方には車や人の行き交う様子や数軒のレストランも見える。
しばらく道を歩くと「ソルトバーン・クリフ・トラムウェイ」の案内板が見えた。矢印の方向に従って右側の広場へ進む。
高台から海を望むようにして、可愛らしい赤色の小屋がぽつんと建っている。単なる物置のようにも見えるが、実はこれは「駅」なのだ。
僕が見たかったのは、この駅の向こう側に広がる景色。
何年も前からずっと憧れてきた場所まで、あとわずか十歩。
五歩。
四歩。
三歩。
二歩。
一歩。
全身の細胞に血が巡るようだった。
音が聞こえる。空間がある。風が吹いている。潮の香りがする。色が見える。
これが本当の「美しさ」なのだと思った。
崖の上下を結ぶケーブルカー、浜辺の遊歩道を行く人々、変化と永遠を表すような波の模様、遠くの誰かへ思いを馳せる桟橋、滲んで空と一体化する水平線。大袈裟に言えば、今この瞬間にこの世の全てがある気がした。
僕がソルトバーンを訪れたいと思った理由。
それは、一枚の写真を見たことがきっかけだった。
「新・世界の駅」(パイ インターナショナル出版)という、世界各国の「駅」にフォーカスした写真集がある。その中の1ページに「ソルトバーン・クリフ・トラムウェイ」の写真が載っていた。明け方の海辺、青い世界にオレンジ色の朝日が差してきた時間の静かな写真。僕はそれに心を打たれて、いつかこの場所を訪れたいと何年も前から思い描いていたのだ。
この日は残念ながら修理中のため、トラムウェイは営業していなかった。それでもこの景色を生で見ることができて、既に心が満たされた気分だ。
でもやっぱりまだまだ遊び足りない。
それでは階段を下って、眼下に見えるビーチへ行ってみることにしよう。
海岸沿いの遊歩道にはレストランやカフェが並び、沢山の人々がアイスや飲み物片手に休日を満喫している。
今は真冬の3月だが、それでもこんなに賑わっている。南海岸のリゾート地・ブライトンでも、ビーチに地元住民が集まってのんびり寛いでいたのを思い出す。きっとみんな海が好きなんだろう。
そういえば今日はまだ何も食べていなかった。尋常じゃないほどお腹が空いている。もう時刻は16時になろうとしているが、ちょうどフィッシュ&チップス屋があったのでここで昼食を買うことにしよう。
あまりに気分が高揚していたためお店のお姉さんに「ソルトバーンは僕にとって世界一美しい場所です!」とか話しかけたのだが、あとあと考えたら意味不明なナンパみたいになっていたかもしれない。ともかく、こんな綺麗な場所で働いているなんて本当に本当に羨ましい。
本当、どこを切り取っても絵になる場所だ。
木の板でできた桟橋を進んでいくと、やがて波の音が真下に聞こえる場所までやってきた。しかし桟橋の先端はまだ向こうの方。実際に歩いてみるとけっこう長い。
桟橋の先端にやってきた。強い風が吹いている。
海面からは5メートルほどの高さがあり、ここに立っていると海の上で静止しているような心地だ。
繰り返される波のリズムに耳を傾け、現れては消えていく細かな模様を見ていると、つい無心になって時間を忘れる。
そうだ、こんな所でぼーっとしてたらさっき買ったフィッシュ&チップスが冷めてしまう。
ベンチの一つに腰掛け、厚紙のボックスを開く。中身はまだ温かい。
フォークで一切れ持ち上げて口に入れると、ふっくらした魚の食感とビネガー(酢)の酸味が口の中に広がった。昼からずっと空腹だったこともあり、いつにも増して美味しく感じられた。吹きつける強風で容器が飛ばないよう、膝の上で抱えるようにして食べていった。
食事を済ませたあと、少し人の減ったビーチにやってきた。湿った砂に残るたくさんの足跡が、今日一日の賑わいを思わせる。
冬風を浴びながら冷たいアイスをかじっていると、ずっと曇っていた空が途切れて夕日が差してきた。白波がほんのり黄色く色づいている。
ハント・クリフにも真正面から夕日が当たり、そのゴツゴツとした立体感が浮かび上がってきた。なんともダイナミックで力強い風景だ。
するとその時、「幸運」が訪れた。
虹が出ている!!
ハント・クリフにぶつかって飛び散った水滴が夕日を屈折させたことで、この虹が出現したのかもしれない。
いやそんなことは今はどうだっていい。
僕の直感が「崖の上に登るべきだ」と叫び、急いでアイスを完食して階段を駆け上がった。
どんどん夕日の色彩が濃くなっていく。眩しく鮮やかな光が影とのコントラストを際立たせて、視界に入るもの全てが一層ドラマチックになる時間帯だ。
西日が強くなるにつれて、あの虹も鮮やかさを増していく。
今まで見てきたどんな風景よりも美しい「絶景」が、僕の目の前に広がっていた。
世界には、「絶景」と呼ばれる素晴らしい景色が無数に存在する。僕もこれまでに数えきれないほどの美しい眺めを目にしてきた。
しかし今、僕にとって世界で一番美しい場所はこのソルトバーンだと確信した。
旅をすると気づくのは、風景は視覚だけの情報じゃないということだ。
むしろ空間と風、環境音、口の渇き、汗ばんだ手といった「見えない情報」が風景の大部分を占めている。しかしそれは手ですくっても指の隙間から溢れ落ちてしまう黄金の砂のようなもの。一粒一粒が宝石のように美しいのに、いくら伝えようと努力しても実際に持ち帰って届けられるのは爪の間に挟まったほんの数粒程度だ。
ソルトバーンには、文字通りそれが満ち溢れていた。自分の表現力を遥かに超える美しいものに全身を包まれて、もうため息をつくしかないほどに。ここまで僕を圧倒した風景は生まれて初めてだった。
同時に、この感動をできるだけリアリティを保って誰かに伝えたいと思った。そんな希望を持つことができたのも、ソルトバーンの美しさが僕の内に収まらないほどのものだったからだろう。だからこうして四苦八苦しながら、僕なりに感じたこと・考えたことを「旅行記」として今も書き続けている。
もしかしたら数年後にはこれ以上に美しい景色に出会うかもしれないけど、それだって楽しみで仕方ない。世界は無限に美しいのだ。
太陽が沈んで、辺りは少しずつ暗くなっていく。虹もすっと姿を消した。
僕は思い立ってスケッチブックを取り出し、この風景を描いておくことにした。ベンチに座って絵を描く僕の横を、ビーチから町へ帰る人たちが通り過ぎていく。
いよいよ手元が見えなくなる頃、なんとかスケッチが完成した。
急いで描いたので画角が少し狭くなったけど、これはこれで思い出になる。
あっという間に辺りは黒く沈んでしまった。沖には船の灯りがぽつぽつと浮かんでいる。
桟橋の方を見てみると、なんだか下側が光っているみたいだ。あれが何だか気になるので、最後にもう一度下へ降りてみよう。
ビーチから見上げると、桟橋の下には電飾が付けられていた。特に先端部分はカラフルにデコレーションされて、それがチカチカと揺れるように点滅しているのだった。
町の方を振り返ってみると、頭上には冬の星空が広がっていた。オリオン座や冬の大三角といった象徴的な星座が肉眼でもはっきりと見える。
それに対して、沖の方は真っ暗闇だ。足元は湿っているが、波の音はまだ遠くから聞こえるような気がする。今は引き潮のようで、かなり歩いたのにまだ波間に辿り着かない。本当に何も見えないので、どこから海が始まっているか全くわからないのだ。
音だけを頼りに海の方へ。誰もいない真っ暗な砂浜に昼間の面影はなく、このまま進んでいけばあの世へ繋がっている気さえしてきた。
沖の方からゴーン、ゴーンと波の響きだけが低く聞こえる。黒い波の手招きに誘われるように、僕はそちらへ歩いて行った。
ふと我に帰った。
危なかった。
なんだか今、一瞬だけ死を感じた。海に惹かれるがあまり、僕はぼんやりしたまま生死の境界線を踏み越えようとしていたようだ。本当に危なかった。
まだ死んでる場合じゃない、と大人しく陸へ引き返す。遊歩道に上がって海の方を見ると、向こうには漆黒だけが存在していた。僕はあの中を歩いていたのか。怖っ。
さっきフィッシュ&チップスを食べたばかりだが、けっこう歩いたのでもうお腹が減ってきた。何か夕食を買ってからホテルへ戻ろう。
駅の近くで「ピザ」「バーガー」と書いてあるお店を発見。今夜はここでご飯を買うことにした。
店内に入りハンバーガーを注文。お店のおじさんに「あんたどっから来たんや?」と聞かれたので「日本からです!」と答えると、おじさんは「俺日本のゲーム大好きやねん!『鉄拳』とか!」と話してくれた。
僕もおじさんにソルトバーンに来ることがずっと夢だったと話した。するとおじさんは、
「明日でも来年でもいつでも戻っておいで!俺らはもう兄弟やからな!」
と言ってくれた。景色だけじゃなく人も暖かいソルトバーン、ますます好きだ。
そうしてハンバーガーを受け取り、駅前のスーパーで少し買い足しをしてからホテルの部屋に帰還。
ハンバーガーとフライドポテトのセット、そしてスーパーで買ったオレンジのファンタで夕食にする。ハンバーガーはがっつりサイズでとても美味しかった。
ご飯を食べたあと、しばらくソファに座っていたらそのまま寝落ちしてしまった。そして22時頃に目が覚めた時にはなぜか床に横たわっていた。カーペットのゴワゴワした感触が頬に染み込んでいる。
せっかくの豪華な部屋で何してんだ…と起き上がり、ダブルサイズのベッドに潜り込んで今度こそちゃんと眠りについた。
翌朝6時半。
日の出を見るために早起きした。といってもシャワーを浴びてる間にもう日が昇ってしまったけど。涼しい空気と静かな空に、朝の光が溶け出している。
朝日が崖の上から鋭い光線でこちらを睨んでいる。
人の少ないビーチ。海からやってくる冴えた風は、世界一爽やかな目覚まし時計だった。
せっかくだから、あの桟橋の上で朝ご飯を食べよう。一度ホテルに戻って、昨晩買ったサンドイッチを取ってくることにした。
7時頃に再び海岸へ戻ってくると、桟橋の影がさっきよりも短くなっていた。ビーチの上を歩く人影も増えている。
この時間帯は犬の散歩やランニングに来ている人たちが多いようだ。穏やかで幸せな休日の朝。
桟橋の先端でベンチに座る。太陽はもう見上げるほどの高さにまで昇っている。水面に反射して二倍になった太陽光が、容赦なく僕の目を突き刺した。
ホテルから持ってきたサンドイッチを取り出す。ただ呆然と海を眺め、冷たい海風を浴び、心を洗うような波の音を聴きながら、プリプリと歯応えのいいエビと柔らかいパンの食感を味わった。
サンドイッチを食べ終わったので、一旦ホテルに戻ることにした。というか寒くなってきたのだ。チェックアウトの前に荷造りもしないといけないし。
時刻は午前10時。荷物を全て持って、ホテルをチェックアウトした。
僕はもうすぐ、次の目的地に向けてこの町から去らなければならない。駅から列車に乗り込む前に、最後にもう一度だけ海を見に行こう。
溜め息が出るほど美しいっていうのは、こういうことなんだろう。この町に来てから、もう何百回溜め息をついただろうか。
僕が思う本当に美しい風景とは、どんな季節、どんな天候でも美しいものだ。それでいて、一秒の間だって同じ状態に留まることのない景色。さらに言えば、誰の目にもそれぞれ違って見える景色。
僕が愛してやまないこの風景だって、「まあ綺麗だな」ぐらいに思う人は沢山いるだろう。でもそれでいい。それはその人なりにもっと素晴らしい景色があるということ、世界は無限に美しいということだから。
それでは、名残惜しいけれど出発の時間だ。
海に背を向けて、駅へと足早に歩いていく。
ソルトバーン・バイ・ザ・シー、本当に素晴らしい場所だった。
僕はきっとまたここへ戻ってくるだろう。
次来る時は、できれば7泊ぐらいしてみたい。
つづく
【次回予告】
第18回はヨーク・国立鉄道博物館編をお届けします。お楽しみに。
それでは今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
↓第18回はこちら
(当記事で使用した地図画像は、OpenStreetMapより引用しております)
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