見出し画像

劇場アニメという「密室劇」(『トラペジウム』アドベントカレンダー2024・全25回の23)

劇場アニメ『トラペジウム』は、劇場アニメである。
「何を当たり前のことを」という話ではあるが、これは実のところかなり大事な点だ。

劇場アニメであるからには、映画館のレギュレーションに沿っての鑑賞が求められる。(少なくともパッケージソフトがリリースされていない現在においては、そうである。)

すなわち、鑑賞にあたっては「公開・上映している映画館に足を運ばなくてはならない」「映画館のスケジュールに沿ってしか鑑賞できない」「毎回料金を払わなくてはならない」といった、強烈な"縛り"が課せられる。

更に、原則として"そうである"ものを加えると、「スマートフォン使用不可」「自由な発声は不可」「録音・録画・一時停止・巻き戻し・早送り・倍速再生すべて不可」「鑑賞しながらの意見交換不可」「情報の持ち出しはメモ程度に限られる」「途中退出は不可能ではないが、退出している間も無関係に映画は進む」といった"縛り"も存在する。

もちろん、「大画面での鮮明な映写」「整った設備による大音響」「(たいていは)心地よい椅子」といった明らかなメリットも存在するが、先に挙げた"縛り"の大きさは、自由な視聴が可能なコンテンツが溢れている現在の世の中において、決して無視できないインパクトがある。

その結果どうなるか。「同じ映画を観ても、人によって全く違ったものを"観て"出てくる」ということになる。
これらは映画全般に言えることではあるものの、特に『トラペジウム』においては、画面が内包する情報量の多さ・絶妙に先が見えないシナリオ・概ね精緻に作り込まれているのに意外な所で穴のある設定などが相俟って、鑑賞後の感想が極めて「ブレる」ことにもなった。
その極端な発露が、映画公開当日に出回った「東ゆう、とんでもないサイコパス説」であり、またそれへの反論群といえる。(本当に未視聴なら、そのあたりを確認する必要は一切ありません。虚心坦懐に映画に向き合って、何が見えるか?というのが、初見の一番の面白さであり「特権」だと思っているので。)

劇場アニメの"縛り"に話を戻すと、これらは「身体的時間的な拘束」「情報の入出力の極端な制限」に概ねまとめられる。
まず「観る」と決めた上で、観られる場所に観られる時間に身を置かなくてはいけない、置き続けなければいけないし、「観る」際には(普段当たり前のように使っている)情報収集手段が使用できず、始めから終わりまで一気通貫の視聴が強要され、観客の都合による停止や巻き戻しや早送りなどは一切不可能。更に、その場からの情報の持ち出しは暗闇で手元不如意な中での「メモ」程度に限られる。

そうせざるを得ない中では、観客は95分の間、篠原正寛監督の作った「劇場アニメ『トラペジウム』」という「世界」と向き合うしかなく、「世界の流れ」に身を置き続けるしかない。
言ってみれば、これは紛れもなく「抑圧」に他ならないのだが、「抑圧」があるからには「解放」もある。
「解放もある」というか、理屈としても、世界の秩序としても、そうあらねばならない。
果たして実際に「抑圧からの解放」はある、あるのだが……
その「解放の理屈」や「世界秩序」のロジックは何なのか。そこの(いわば)「分かりにくさ」のようなものが、極めて掴みづらいというのも、劇場アニメ『トラペジウム』の面白さであるし、魅力と言える。

そしてその「抑圧と解放」に一役も二役も買っていたのが「劇場」という「密室」であったからには、パッケージソフトが出たり配信サイトで配信が開始された後、「劇場外で」初回鑑賞をした人たちの感想はどうなるのか、また、ひたすら「劇場という密室」で観ていた我々の感想はどう変容していくのか、今から楽しみなような、心配なようなところだ。



『トラペジウム』関連BDDVD・原作・サントラ:


いいなと思ったら応援しよう!