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規律と創作の話

最近、規律とか秩序とかルールとかそういうものと、創作についての関係性を考えてる。最初に言ってみると、この話は仕事でやってることでも当てはまるし、人生とか教育とか子供時代とかとも関係があると思う。

見たことがないモノを作る

自分は展示の仕事をよくやってる。例えば科学館や博物館での展示を企画したり制作したりする。メーカーなどの企業の展示もある。

企画して制作するわけだが、制作といっても開発に似たこともある。テクノロジーを活用するようなモノをよく作るので、そうした開発が必要になる。

つまり、ある面では「見たことがないモノを作る」という仕事である。少なくとも自分たちは過去に作ったことがないモノを作る仕事の方が多い。

オーダーとして、「新規制のあるモノをお願いします」と言われることもある。もし明確に言われてなくても、目を惹くモノを作るというのは基本的に暗黙の期待としてあるわけで、どこかで見たことがあるモノを作るのはあまり良くない。

仕様の確定、工程の組み立て

そうやって何かを企画して作り始めるわけだが、クライアントワークであるので、合意形成をしながら進める必要がある。

これが厄介で、「どういうものができるのかみたい」と企画時点で言われることが多い。正直にいうと「作ったことがないモノを企画してるので、我々もどういう感じに仕上がるかわかりません」ということなんだが。

いや、もちろんある種の確信をしてるから企画提案してるのだけど、仕上げ作業を経てないプロトタイプやなんかをいくら見ても完成状態の素晴らしさは見せることができない。だから作るんだし、作る前に見たいというのは矛盾がある。

あえて力強くいうと、こういう見たことがないような価値を模索する作業は「不安との戦い」なのだ企画した意図通りに完成物を見た時に心が動くかはぶっちゃけわからん。

仕様の確定と工程の組み立て

普通は、合意形成があるので、その時点で企画や仕様を確定させて、それを実現するための費用を算出し、合意をとって制作を開始する。なので、この時点で工程も確定させてその計画通りに進んでるかを報告したり管理したりする。

これがこういう制作業務のルールになってると思う。クライアントもそのルールでこちらに経過報告やなんかを求める。

ただ、我々がよく取り組む見たことがないモノを作る工程は、計画通りに進むことは少ない。

もちろん大枠では計画通りになるようにするが(つまり納期は守る)、途中の工程やなんかは臨機応変。むちゃくちゃ組み変わる。その上で、進めていく中で意図した効果が得られないことがわかれば、企画も修正する。企画通りの意図の範囲に収まる場合も作っていく中でもっと良くする余地が見つかれば修正したい。

そうした修正なくして安定したクオリティは出せないと言っておきたい。

我々は、いつも作ったことがないモノを作ってるが、毎回一定のクオリティ以上を出し続けるのは、そうした軌道修正やチューニングによるモノで合って、計画通りに進めたからではない。

別に計画を手抜きでやってるわけではないが、未知のものを作る工程とはそういうものなのだ。

ここまでの話

ここまでの話と「規律と創作」の関連を説明する。まず規律は、通常の制作業務の工程のセオリー(ルール)だ。なんなら見積もりを最初に作って上振れを暗黙的に嫌う空気とかそういうものも含める。

創作については、前に作ったものをもう一回作る場合は、製造や制作であって、未知のものを作る我々のスタンスは創作だと言えるだろう。

前に作ったものを全く同じく作るのであれば、工程は管理できるし予定通り作れないとしたら問題だろう。だが、創作的なものを作る我々においてはわからないことばかりなんで、そこんところを理解していただく必要がある。

日頃の業務ではこうした話をしながらも信頼を獲得し、「私に任せてください。必ず良いものを作ります」と大口を叩き責任を背負って進めていく。

子供の世界について

話は変わって、娘たちのことを思い出すと、ある日突然規律の世界に放り込まれる。

それは幼稚園や小学校である。習い事もある意味そうだ。

どこかに通うというのは、時間の規律があったりする。マナー見たいなこともたくさんある。つまり、規律を学び、社会のルールを学んでいくのだ。

私は自分自身が創作的なことに傾倒してることもあり、娘たちにもその創作の喜びを知ってもらいたいと考える。その時に、この規律を教え込むことと創作で広がっていくことの相性の悪さみたいなものを感じる。

つまりこうだ。一方では「今は友達と話す時間じゃないよ。静かにしなさい」「集会なんだから綺麗に整列しなさい」などの規律の波がくる。人間関係の波もくるので、相手の話を適度に聞いて共感しないと相手は心を開かないなどのセオリーを知りながら、自分の感情をコントロールすることを学ぶわけだ。

だが、創作はそうではない。枠を超えて発想を広げるべきものなので、枠を作りすぎると狭くなる。枠を作ることと枠を取っ払うことを行ったり来たりすることになる。

極端なことを考える

もし、自分がルールを全く無視するスタイルで自由すぎる創作をしたら、もっとすごいものが作れるのではないか?規律というものをインストールしたことで、暗黙的に脳の至る所にロックがかかってないか。

アンインストールは基本的に難しいので、取り返せないことなのか?

まとめ

実際そんな極端なことを考えてもしょうがないが、規律に対する意識をコントロールすることが発想や創作のヒントになる可能性はあるのではないかと思う。

規律は重要なことだし、計画的に物事を進めることもとても重要。でも柔軟に考えを更新していくことも重要。

おそらく相反するような対向することではなく、交互に来るような同時に考えるようなことなのかも?

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