面倒くさいことが実は面白い。チェスとか、noteを書くとか。
週末の午後、子どもたちは勝手に遊んでいて、居間で夫が洗濯物をたたんでいた。
わたしは、キッチンでアイスコーヒーを飲み終わって、ふうっと一息ついたところだった。
「チェスでもしようか」
と、夫が言った。
「いいね」
と、わたしは答えた。
◇
チェスは、アメリカに来てから、夫の手ほどきで覚えた。
要は、西洋版の将棋だ。相手から取った駒を使えないとか、多少の違いはある。でも、将棋を知っていれば、チェスを覚えるのは難しくない。
チェスはおもしろい。
こうやったら相手がこうきて、それに対してこう出たらきっと相手はこうくるから……という先の先の先の先くらいまで、頭の中でシナリオを構築する。そして、それを頼りに一歩ずつ進んでいく。
でも、自分の手は自分で決められるが、相手の手は当然ながら決められない。だから、相手がこちらの読みを裏切って、違う手を打ってくるなんてことはしょっちゅう起こる。その度に、こっちの予定が狂う。狂うけれど、仕方がない。そこを起点に、またシナリオを作り直す。その繰り返し。
めちゃくちゃ頭を使う。集中力もいる。
AIが生活の中に入りこんで、人間が頭を悩ませる代わりに、テクノロジーが問題を解決してくれるような時代に、まだこんな面倒くさいことをしている。
でも、こういう面倒くさいことこそが面白かったりする。こんな時代にも、あえて文章を書こうという人なら、わかってくれるんじゃないかと思う。
簡単には到達できないからこそ、高みを目指す過程に意味がある。うっかり足を踏み外しそうな落とし穴があちこちにあるからこそ、それらを回避して、あるいはそこから立て直して、どこまでいけるかに価値がある。
……ような気がする。
でも、こんな大仰なことが言いたかったわけではない。
わたしはいつも、夫に先手を打たれて、守っているうちにどんどん攻め込まれて、ゆっくり時間をかけて負けていく。その過程で、悔しいとかやり返したいとか、さっきの一手をなかったことにしたいなどと気持ちが揺れる。
今回も、夫の華麗なるナイト・フォーク(ナイトが同時に2つの駒を攻撃して、そのうちの一つを確実に取ること)を食らって、クイーンを失うという大きなミスをしてしまったわたし。
クイーンは一番強力な駒である。これを失うことは、戦力の大幅ダウンを意味する。
ため息が漏れる。ゲームを巻き戻したかったが、夫はそこは厳格にノーという。
仕方ない。残った駒で戦うしかない。クイーンを失ったことで、もう背水の陣である。攻めなければ負ける。
最短距離でチェック(キングを攻撃すること)をした。夫はひらりと逃げる。ナイトとビショップといくつかのポーンを組み合わせて、執拗にチェックを繰り返した。途中でナイトを失ったのが痛かったが、攻め続けるためには致し方ない犠牲だった。
そうしたら、ついにチェックメイト(キングが逃げ切れない状況に追い詰めること)。夫に勝った。通算すると勝率は10%くらいなので、わたしにとっては、かなり価値のある勝利だ。恥ずかし気もなく、「イエーイ!」と言ってしまった。
攻め続けること。
勝因をあげるとしたら、これしかない。
(おしまい)
読んでくださってありがとうございます。
《ほかにはこんな記事も書いています》