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面倒くさいことが実は面白い。チェスとか、noteを書くとか。

週末の午後、子どもたちは勝手に遊んでいて、居間で夫が洗濯物をたたんでいた。

わたしは、キッチンでアイスコーヒーを飲み終わって、ふうっと一息ついたところだった。

「チェスでもしようか」

と、夫が言った。

「いいね」

と、わたしは答えた。

チェスは、アメリカに来てから、夫の手ほどきで覚えた。

要は、西洋版の将棋だ。相手から取った駒を使えないとか、多少の違いはある。でも、将棋を知っていれば、チェスを覚えるのは難しくない。

チェスはおもしろい。

こうやったら相手がこうきて、それに対してこう出たらきっと相手はこうくるから……という先の先の先の先くらいまで、頭の中でシナリオを構築する。そして、それを頼りに一歩ずつ進んでいく。

でも、自分の手は自分で決められるが、相手の手は当然ながら決められない。だから、相手がこちらの読みを裏切って、違う手を打ってくるなんてことはしょっちゅう起こる。その度に、こっちの予定が狂う。狂うけれど、仕方がない。そこを起点に、またシナリオを作り直す。その繰り返し。

めちゃくちゃ頭を使う。集中力もいる。

AIが生活の中に入りこんで、人間が頭を悩ませる代わりに、テクノロジーが問題を解決してくれるような時代に、まだこんな面倒くさいことをしている。

でも、こういう面倒くさいことこそが面白かったりする。こんな時代にも、あえて文章を書こうという人なら、わかってくれるんじゃないかと思う。

簡単には到達できないからこそ、高みを目指す過程に意味がある。うっかり足を踏み外しそうな落とし穴があちこちにあるからこそ、それらを回避して、あるいはそこから立て直して、どこまでいけるかに価値がある。

……ような気がする。

でも、こんな大仰なことが言いたかったわけではない。

わたしはいつも、夫に先手を打たれて、守っているうちにどんどん攻め込まれて、ゆっくり時間をかけて負けていく。その過程で、悔しいとかやり返したいとか、さっきの一手をなかったことにしたいなどと気持ちが揺れる。

今回も、夫の華麗なるナイト・フォーク(ナイトが同時に2つの駒を攻撃して、そのうちの一つを確実に取ること)を食らって、クイーンを失うという大きなミスをしてしまったわたし。

クイーンは一番強力な駒である。これを失うことは、戦力の大幅ダウンを意味する。

ため息が漏れる。ゲームを巻き戻したかったが、夫はそこは厳格にノーという。

仕方ない。残った駒で戦うしかない。クイーンを失ったことで、もう背水の陣である。攻めなければ負ける。

最短距離でチェック(キングを攻撃すること)をした。夫はひらりと逃げる。ナイトとビショップといくつかのポーンを組み合わせて、執拗にチェックを繰り返した。途中でナイトを失ったのが痛かったが、攻め続けるためには致し方ない犠牲だった。

そうしたら、ついにチェックメイト(キングが逃げ切れない状況に追い詰めること)。夫に勝った。通算すると勝率は10%くらいなので、わたしにとっては、かなり価値のある勝利だ。恥ずかし気もなく、「イエーイ!」と言ってしまった。

攻め続けること。

勝因をあげるとしたら、これしかない。

(おしまい)


読んでくださってありがとうございます。

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