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うちのアメリカ人の夫は、子どもを褒めるのがうまい

常々思っていたのだけど、アメリカの人たちは褒めるのがうまい。

周りの人のいいところを見つけて、さりげなく「それいいね」とか、「そういうの好きだな」なんて言ってくれるのだ。

わたしの夫はアメリカ人なのだけど、彼もその例に漏れない。

今日一日だけでも、「おっ」と思った瞬間が2回あった。

一つめ。車で出かけたときのことだ。

夫が運転して、車内でわいわい話しながら行っていると、ある交差点を右折しなければならないのに、うっかり直進レーンのまま信号で止まってしまった。右折するには、レーンを2つも移らないといけない。

「あ、しまった」

夫は、それなりに車の流れのある中で、後方をさっと確認してから、ぎゅいんとハンドルを切った。そして、隣のレーンをほぼ直角に横切って、右折レーンに頭を突っ込んだ。ちょうどそのとき右折レーンに入ってきた車が、速度を落として、わたしたちを割りこませてくれた。そのおかげで、なんとかスムーズに右折できた。

この一部始終を、わたしは助手席で見守っていた。

「今のはわたしにはできないなあ。一旦右折をあきらめて、どこかでUターンすると思う」

そう言うと、夫がすかさず答えた。

「今のはやらない方がいいよ」

すると、後部座席から、息子が言った。

「どうして?」

「危ないからだよ」

「じゃあ、どうしてパパはしたの?」

「パパはちゃんと気をつけてできるから大丈夫なんだ」

これを聞いて、息子は間髪入れずに答えた。

「ママだって気をつけて運転できるよ」

夫もまた、間髪入れずに言った。

そうやってママを擁護するところ、いいね

わたしは、心の中で「あっ」と声が出た。

ここにそういう褒めポイントがあったのか、と思って。

わたしだったら、気をつけて運転していても、やっぱり危ないという説明を始めていたんじゃないかと思う。

褒めるといっても、エクスクラメーションマークが付きそうな大袈裟なトーンではない。雨が止んで、「あ、雨が止んだね」と言うときと同じくらいさりげない。

それにこれは、「すごい」とか「えらい」といった評価とも違う。「それいいね」という軽い肯定である。それでいて、息子がわたしの側に立って自分の考えを述べたことを、ちゃんと認めている。

もう一つ。みんなでランチを食べていたときのこと。

出かけた先で、ベトナム料理のレストランに入った。フォーを食べていた娘は、夫に勧められて、小皿にこんもり盛られていたもやしの中から一本つまんで、パクっと口に入れた。

野菜は、食べ慣れたものしか口にしない主義だったのに、最近は、普段のレパートリーにないものも試しに食べてみることができるようになっている。

娘が草食動物みたいに細かく咀嚼している横で、夫が言った。

「歯ごたえのある水って感じだろ?」

娘は、本当にそのとおりだという顔で、うんうんと頷いた。でも、少し考えてからこう言った。

「水なんだけど、ちょっと後味が残るね」

ああ、確かにもやしっぽい後味ってある。わたしが相づちを打っていると、夫がすかさず言った。

いまのは、うまく説明できたね。本当にそのとおりだよ

わたしはまたもや、心の中で「あっ」と思った。

これも褒めポイントか。でも、確かにそうだ。

子どもに食べた感想を聞くと、「おいしい」「まずい」とか、「好き」「嫌い」で終わってしまうことが多い。こういう回答は、たいして考えなくても瞬時にできる。

でも、感じたことや心にあることを言葉で詳しく説明するには、物事をよく観察しないとできない。このとき娘は、口の中にあるものが、味覚にどう訴えかけてくるのか、それにじっと神経を集中させたのである。そして、どの言葉を使えばそれが表現できるのかを考えた。

夫は、そのプロセス全体を肯定した。

我が夫ながら、褒めるポイントがいい。

(おしまい)


読んでくださってありがとうございます。

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