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うちのアメリカ人の夫は、子どもを褒めるのがうまい
常々思っていたのだけど、アメリカの人たちは褒めるのがうまい。
周りの人のいいところを見つけて、さりげなく「それいいね」とか、「そういうの好きだな」なんて言ってくれるのだ。
わたしの夫はアメリカ人なのだけど、彼もその例に漏れない。
今日一日だけでも、「おっ」と思った瞬間が2回あった。
一つめ。車で出かけたときのことだ。
夫が運転して、車内でわいわい話しながら行っていると、ある交差点を右折しなければならないのに、うっかり直進レーンのまま信号で止まってしまった。右折するには、レーンを2つも移らないといけない。
「あ、しまった」
夫は、それなりに車の流れのある中で、後方をさっと確認してから、ぎゅいんとハンドルを切った。そして、隣のレーンをほぼ直角に横切って、右折レーンに頭を突っ込んだ。ちょうどそのとき右折レーンに入ってきた車が、速度を落として、わたしたちを割りこませてくれた。そのおかげで、なんとかスムーズに右折できた。
この一部始終を、わたしは助手席で見守っていた。
「今のはわたしにはできないなあ。一旦右折をあきらめて、どこかでUターンすると思う」
そう言うと、夫がすかさず答えた。
「今のはやらない方がいいよ」
すると、後部座席から、息子が言った。
「どうして?」
「危ないからだよ」
「じゃあ、どうしてパパはしたの?」
「パパはちゃんと気をつけてできるから大丈夫なんだ」
これを聞いて、息子は間髪入れずに答えた。
「ママだって気をつけて運転できるよ」
夫もまた、間髪入れずに言った。
「そうやってママを擁護するところ、いいね」
わたしは、心の中で「あっ」と声が出た。
ここにそういう褒めポイントがあったのか、と思って。
わたしだったら、気をつけて運転していても、やっぱり危ないという説明を始めていたんじゃないかと思う。
褒めるといっても、エクスクラメーションマークが付きそうな大袈裟なトーンではない。雨が止んで、「あ、雨が止んだね」と言うときと同じくらいさりげない。
それにこれは、「すごい」とか「えらい」といった評価とも違う。「それいいね」という軽い肯定である。それでいて、息子がわたしの側に立って自分の考えを述べたことを、ちゃんと認めている。
◇
もう一つ。みんなでランチを食べていたときのこと。
出かけた先で、ベトナム料理のレストランに入った。フォーを食べていた娘は、夫に勧められて、小皿にこんもり盛られていたもやしの中から一本つまんで、パクっと口に入れた。
野菜は、食べ慣れたものしか口にしない主義だったのに、最近は、普段のレパートリーにないものも試しに食べてみることができるようになっている。
娘が草食動物みたいに細かく咀嚼している横で、夫が言った。
「歯ごたえのある水って感じだろ?」
娘は、本当にそのとおりだという顔で、うんうんと頷いた。でも、少し考えてからこう言った。
「水なんだけど、ちょっと後味が残るね」
ああ、確かにもやしっぽい後味ってある。わたしが相づちを打っていると、夫がすかさず言った。
「いまのは、うまく説明できたね。本当にそのとおりだよ」
わたしはまたもや、心の中で「あっ」と思った。
これも褒めポイントか。でも、確かにそうだ。
子どもに食べた感想を聞くと、「おいしい」「まずい」とか、「好き」「嫌い」で終わってしまうことが多い。こういう回答は、たいして考えなくても瞬時にできる。
でも、感じたことや心にあることを言葉で詳しく説明するには、物事をよく観察しないとできない。このとき娘は、口の中にあるものが、味覚にどう訴えかけてくるのか、それにじっと神経を集中させたのである。そして、どの言葉を使えばそれが表現できるのかを考えた。
夫は、そのプロセス全体を肯定した。
我が夫ながら、褒めるポイントがいい。
(おしまい)
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