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なぜ現代の世界は生きづらいのか
皆さんは、今の世界を"生きづらい"と感じたことはあるだろうか。
僕自身がそう感じることも結構あるし、上の記事に寄せられた反響を見るに、やはり特に具体的な要因のようなものが思い当たらないまま生きていくのが辛い、という風に感じてしまう人は一定数いるのだろう。
今回は、それに関する考察・・・と呼べるほど明確な根拠があるわけではないのだが、なぜ多くの人が現在の世界で生きづらいと感じてしまうのか、について個人的に思うところを書いていきたいと思う。
自殺の要因
まず一つ前提としては、日本では(というかこれは恐らく世界共通だと思うが)基本的に自殺率の増減は経済的な困窮の増減と対応する傾向にある。
(第二次世界大戦期間中はデータなし)
日本で他の時期と比べて自殺者数が増加しているのは、基本的に、第二次世界大戦後、バブル崩壊~2000年代前半や直近のコロナ禍(こちらはまだ具体的な数字が出ていないのであくまで推測だが)など、経済が停滞し、糊口をしのぐのにも困る人が増える時期だ。
別にこれらを軽んじるつもりはないのだけれど、今日の食事の目途もたたないような状況というのはは言うなれば、『生きていけない状態』であり、死ぬことを能動的に望んでいる、というよりもシンプルにどうせもう生きていけない、(借金があるなどして)良くなる見込みもないのだから死んでしまおう、というのは他人にとってもそこまで理解が難しい感情ではないと思う。
直接的な要因ではなくとも、経済的に困窮した状況に置かれた人にとって、色々な意味でストレスや不安が増えるのは間違いないだろう。
政策的な目線等から見たら、恐らくフォーカスするべきはこちらの自殺をいかに減らすか、ということなのだと思うが、今回の記事で僕が主題として取り上げたいのは、このような経済的な理由による自殺、ではなく、より漠然としたもの、自殺にまで至らなかったとしても、上の記事で触れたような、理由も判然としない生きづらさ、のようなものだ。
なぜ自殺は減らないのか
さて、ここでもう一度先ほどのグラフを見てほしいのだが、10万人当たり10人強~25人くらいの範囲で変動はあるものの、全体的には、10万人当たりの自殺者数は現代に近づくにつれて減少傾向にある、という風には特に言えない。
明治時代の統計の信頼度がどれくらいあるのかはよくわからないが、少なくとももし経済的な要因のみが自殺と関連しているのであれば、普通に考えれば、第二次世界大戦直後と現在を比べた際に、現在の方が圧倒的に自殺者率が低くなければおかしいはずだ。
また、これはあくまでイメージの話なのでどれくらい的を得ているかはわからないのだけれど、さらに時代を遡っても、過去の日本の自殺といえば、借金など生活苦、悲恋、そして武士の名誉を重んじる文化に基づく切腹などが主で、芥川龍之介のように"将来に対する唯ぼんやりとした不安"を苦にして命を断つケースというのは現代と比べて稀だったのではないか、という印象だ。
鬱という概念が生まれる前には、単なる狂人として処理されてしまっていたため表には出てこなかっただけ、という可能性もあるが、なんとなく、多くの人がぼんやりとした生きづらさ、みたいなものを抱えるようになったのは比較的現代的な現象なのではないか、という気がする。
(江戸時代の農民や町人たちもまた、毎日同じ日々の繰り返しだし、生きていても意味なんてないのかもなあ、などと思いを巡らしたりしたのだろうか?こればっかりは今となっては知る由もないが。)
定食屋の例え
ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ここからいよいよ本題の、ではなぜ物質的な豊かさや出来ることの選択肢は増した現代で生きていくのが辛く感じてしまうのか、という話に入ろうと思う。
これを考えるうえで、非常に示唆に富んでいると個人的に思うのが、プロ将棋棋士の羽生善治さんが時々講演などで話をする『定食屋の例え』だ。
この例えの肝となるのは、『選択肢が増えても必ずしも人はそれと比例して幸福にはならない』という点だ。
定食屋さんに入ってAセットとBセットの2種類しかなければ、どちらを注文したとしても、『あー、美味しかったな』とそれなりの満足感を得られるが、もしこれが、AセットからZセットまで、26個の定食のうちから自由に選べたとしたらどうだろうか?
仮に自分の注文した定食がそれなりに美味しいものだったとしても、『でもDセットはもっと美味しかったかもしれない』『栄養バランス的にはTセットだったかな』などと考えてしまう、という人はある程度いるのではないだろうか。
これは生きることにおいても恐らく同じで、日常的に、こういう人生もありましたよ、何ならまだ今からでも遅くないですよ、こういう人生も生きられますよ、という選択肢を突きつけられ続けると、人は自分の今の人生への自信、その選択の正しさに対する自信が揺らいでしまうような気がする。
そして、今の社会ではまさに常にその選択肢を突きけ続けられている。
少し外を見れば、他人の人生に関する情報、転職の広告、自分の可能性を信じろ、的な疲れてしまうくらいポジティブなメッセージなどで溢れている。
この結果として、今の人生に満足している、と自信をもって言い切れる人が選択肢の増加とともに減っているという側面はあるのではないだろうか。
井の中の蛙は井戸を出ない限り幸せなのかもしれない
また、現代と過去を比べた際にもう一つ大きく違う点が、人と物、そして情報の移動の自由度とそのスピードだ。
もちろんこれは知識や娯楽という観点で見ると、ポジティブな点が非常に多いのだが、一方で、自己肯定感という目線から見るとマイナスの影響が非常に大きいように感じる。
いったいこれはどういうことか説明しよう。
まず、日本の江戸時代の農村でもいいし、中世ヨーロッパの山間の村でも何でもいいのだが、比較的外部との人の往来が少なく、年に数度旅人や行商人が訪れる程度の小さな閉じられた封建時代のコミュニティ、というような物を想像してみてほしい。
インターネットもなければ電話や新聞すらもなく、徒歩での移動しかないので引っ越しの自由などもほぼない。
恐らくだが、基本的にこれらのコミュニティの内部ではそれぞれの村人に役割が割り振られているだろう。田んぼを管理する農民、酒場の女将、家畜を育てる牧場の主、金物屋の店主、などなど。
僕の過去の時代に対する認識が大幅に間違っていなければ、恐らくこれらの役割は世襲制が多く、自分の望む仕事に就く、といった自由はあまりない。
例えば金物屋の次男に生まれたとしたら、あなたが選べる人生の選択肢は店を継ぐ兄を手伝うか、村の旅籠屋に奉公に出るかの二択、などといった感じだろう。
もちろんこれはこれで悲しいかもしれないが、上述のような『もし~をしておけば』『違う選択肢の可能性』のような後悔を感じる余地はあまりない。
さらに、より重要だと思うのは、他者と比較される機会が少なく、そして、彼らのコミュニティ内での役割は基本的に替えが利かないことが多いという点だ。
村に一軒しかない金物屋なら多少腕が悪くても村人はそこで商品を買うだろう。
江戸にはより高品質な品物を売るお店があるかもしれないが、そもそも江戸で売られている商品を入手する機会がほとんどないのだから。
そして、そういう意味では、仮にそこまで腕が良くなくとも、金物屋の店主は村にとって必要不可欠な存在だ。
彼が例えば病に倒れてしまえば、村で金物を作って売ってくれる人は誰もいなくなり、村人は非常に困ることになる。(もしどこか違う町まで買い付けに行くことになればより高価になってしまうことだろう)
同じことが他の職業に就いた人たちに関しても言えるはずだ。そういった意味では自分が今生きていることは何かの為になっている、意味がある、と感じることは今よりも遥かに容易だろう。
では、現在の場合はどうか?
端的に言えば、地元のお店がなくなれば、アマゾンで商品を買うので、何も問題はない、ということになる。
形のないサービスでも同じで、ネット上で受けられたり、あるいは電車で隣町までいけばよい、という話になるし、基本的には同業他社がゼロという業界はほぼないはずなので、とある職業が絶対的に存在価値がある、というケースは非常にレアだろう。
かくして、現在の人々は、明日自分が死んでも世界は特に困らず回っていく、自分がこの世界にいる価値は何かあるのだろうか、という問いに頭を悩まされることになるわけだ。
また、情報が非常に容易に入手可能なのも重要なファクターで、例えば村で一番米を育てるのがうまい農民は村人からの尊敬と、なかなかの自尊心をもって生きていけるだろう。
だが、今の時代は例えば他の町や都市にも数えきれないほど自分と同じくらいの仕事ができる人など腐るほどいる、ということがわかってしまうし、村一番なら誇れるが、東京で27万番目に腕の良いサラリーマンです、ではそれに対して実感として誇りを抱くのは難しい。
こうやって考えると、かつては各コミュニティ単位で自己肯定感を保てる人がいたはずだが、現在は日本単位、世界単位でかなり上位にいなければ、自分はすごい、という気持ちを持つことは難しくなっている気がする。
そういった意味では、視野に入る世界が広がったがゆえに、その広すぎる大海に自分の足場を見つけられず溺れそうになってしまう例があるのではないかと思うのだ。
井の中の蛙は大海を知ることで自らの見識の狭さを恥じるかもしれないが、もし一生大海に出る機会がないのであれば、それはそれで幸せな人生(蛙生?)を送れるのだろう。
資本主義的効率の追求と自己肯定感の減少
最後にもう一つ、上の話と繋がるところで言うと、これはもう多分マルクスあたり言っていて、使い古されている話なのだが、やはり今の社会にも当てはまると思うことがある。
シンプルに言うと、資本主義とオリジナリティや代えの利かなさは馴染まない、ということだ。
例えば仕事というものに関して、資本主義的観点から見ると、他の誰にもまねできないようなスキルを極めるやり方は非常に効率が悪い。
もし誰にもまねできないような仕事をこなせる人がいたとしても、その人が退社してしまえば同じ業務を行うことが出来なくなるし、彼/彼女が風邪を引いたとたんに会社がストップ、では困るからだ。
基本的に現在の社会での仕事の効率化、最適化、というのは達人たちの技術をマニュアル化・自動化し、できるだけ多くの人に彼らの代わりを果たせるような状態にする、あるいはそもそも人の手を使わずとも業務が回るようにして、達人の手を借りずに同じクオリティのものを作り出す、という方向に進んでいく。
したがって、企業が資本主義的な競争力を求めれば求め、その枠組みの中で最適化を進めれば進めるほど、必要不可欠というわけではない人材・補充可能な人材が増えてしまうというからくりだ。
そして、当然ながらこれは自己肯定感の減少を招く。
会社にとっては一部の達人に依存するような体制は望ましくないが、一方で、個人の人生という目線で見ると、『あなたがいないと困る』と思われるほうが充実感は得られるに違いない。
また、同じく資本主義という枠組みでの効率化が自己肯定感の減少を招くケースとして、分業の推進ががある。
例えば、僕の父親は町工場を少し大きくしたような中小企業で働いていたが、何を作っているの?と聞いても、とある機械に使うバネ、であったり、とあるエンジンの扉のこの部分、と非常に細かい答えで子供ながらによくわからなかったのを覚えている。
これはものづくりに限った話ではないと思うが、今の社会では基本的に会社や個人は一つの物やサービスを生み出すのに最初から最後までかかわるということはあまりなく、特定の業務を専門とし、協力して一つの成果物を製作する。
もちろん実際にはその一つ一つの工程は重要なものなのだろうが、人間というのは直感的に、出来上がったものの1/100の役割に対して充実感、達成感を感じる(出来上がったものには1000の価値がある、だから私の仕事には10の価値があった、などという風に)、というのは難しい生き物であるように思う。
どうしても、私はこの成果物のうち1/100の貢献しかしていないのだから別にいなくてもいい、と考えてしまうだろう。
また先ほどの封建時代の例に戻ると、例えば時計職人なら材料の買い付け、加工から販売まですべて自分で行うだろう。自分のこの世界に対する貢献は明らかで、成果物であるこの時計はすべて自分が作ったものだ。
その出来の良しあしとは別に、自分がいなければこの目の前の時計は存在しないのだから、その存在価値を直感的に感じるのは遥かにこちらのほうが容易だろう。
まとめ
さて、ここまでずいぶん長く書いてきたがいかがだろうか。
現代も自殺が減らない、経済的な不安を抱えていなくとも生きにくいと感じる人今も多くいるのは
・人生においてもっと良い選択肢があったのかもしれない、と常に思わされ続け
・自分よりもっと優れた人が数多くいるという認識から逃れ続けられないこと
・分業や専門性のマニュアル化によって社会の仕組みとして替えの利くパーツ化が進行していること
あたりが理由ではないか、という僕の仮説だ。
もちろんこれらは誤った認識のもと過度に過去を美化したノスタルジックな中世・封建時代観に基づいた意見である可能性も大いにある。
そして、仮にこれがある程度的を得ていたとしても、今更情報や人の流れを遮断するわけにもいかないし、ではどのような対策をとればいいのか、というのは正直全くわからない。
ただ、人というのは基本的に未知なるものを恐れたり、不気味に感じたりするものだ。
もしこれを読んで自分の気持ちに説明がつく、と思ってもらえたり、なんとなく理由がわかった気がする、という風に思ってくれる方がいたら幸いだ。