【孤読、すなわち孤高の読書】太宰治「人間失格」
作者:太宰治(1909〜1948)
作品名:「人間失格」
刊行年:1948年刊行(日本)
ニヒリズムと自己憐憫に終始した感傷的な告白。
[あらすじ]
ひとりの男が己の存在そのものを否定し、破滅へと向かう生の悲劇を冷徹に描いた作品である。
大庭葉蔵という人物は、他者との交わりにおいて自らを欺き、仮面をかぶり続けることでしか生きられぬ卑小な存在である。
彼の心には社会との隔絶と自己嫌悪が絶えず巣食い、その結果として酒、女、薬物といった享楽に溺れながら魂の堕落を深めてゆく。
葉蔵は常に逃避を試みるが、その先に待ち受けるのは社会からの孤立と破滅しかない。彼の内なる虚無は、終わりなき自己否定へと導き、ついには精神を崩壊させるに至る。
精神病院に収容された彼はもはや人間としての尊厳すら喪失してしまう。
この物語は、自己崩壊を通じて人間の脆さと生の無常を暴き出す冷酷なまでの人間存在の解剖である。
[読後の印象]
この小説を初めて読んだ時は、まだ幼かったせいか、強烈な不快感がずっと残り続けた。
自己憐憫に浸り切った感傷の塊に過ぎない大庭葉蔵という主人公は、終始自らを哀れむばかりで、人生に対して何ら前向きな行動を取ることなく、破滅へと沈みゆく。その姿には共感の余地はなく、むしろ不快感を抱かせるほどである。
それ以来、私は太宰治への苦手意識が拭いきれず、ずっと遠ざけてきた小説家でもある。
そのせいで、太宰治読者とは随分言い争ったものである。
三島由紀夫がこの作品を嫌っていたという事実は、全く理解に難くない。
三島は太宰治のように「弱さ」を崇拝し、堕落を美徳とする態度を何よりも忌み嫌っていた。
のちに三島と太宰には共通の精神的禍根のようなものがあることを認めているが、三島の思想には、自己鍛錬によって己を高める美学と強さに対する崇拝が根底にあった。
したがって、『人間失格』に描かれた葉蔵のような人物は、三島の美学においては堕落の象徴であり、軽蔑すべき存在であったに違いなかった。
この作品には、三島が追い求めた強靭な精神や美的完成が一切感じられず、ただ虚無と絶望だけが際立つ。
自己憐憫に終始し破滅を甘受するこの物語は、三島の理想とは真逆の地点に立つ弱さと無力感の賛美に他ならない。
ただ不思議なことに、幼い頃に読んで嫌悪した一冊を40年以上を経た今でも記憶に刻まれていることは、揺るぎのない事実である。
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