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【人生最期の食事を求めて】脂質欠乏の体内になだれ込む芳醇な肉の贅。

2024年7月4日(木)
YAKINIKU和牛ラボすすきの店(北海道札幌市中央区)

中島公園からすすきのへと続く横断歩道を歩き過ぎようとした時だった。
濃紺の高級外国車が私の横断を無視し、私の目前を通り過ぎようとした。
少し歩を早めれば車に轢かれていてもおかしくはない。
もちろん、自ら轢かれにいくような犯罪行為はしなかったが、運転手を確認するといわゆる輩風の若い男性がスマートフォンを弄り続けていて、私の存在や様子すら気づいていないか無視しているようだった。
自動車免許を持っていない私にとって、横断歩道を歩く際の自動車の侵入は不安と恐怖あるいは運転者への嫌疑が常に満ち溢れている。
信号機を待っていても、運転手の不注意により突如として歩道に取り上げてきて轢かれるのではないかと妄想によって、私は常に歩道の奥で立ち尽くすようにしている。

不条理文学の騎手だったフランスの小説家アルベール・カミュは、運転手のてんかんによって交通事故死した。
まさに不条理な死である。
私が自動車免許を取得しなかったのは、16歳の時に出会ったアルベール・カミュの不条理文学と不条理な死を知ったのも要因のひとつである。
さらに病気もある意味で不条理だ。
健康に配慮していても、病気は死の存在を知らしめ時に誇張する。

アルベール・カミュ(1913〜1960)

最近の高尿酸血症と脂質異常症という生活習慣を物語る象徴的数値は、私の食生活を大きく変えた。
出張や旅以外は料理はせずとも豆腐、野菜、スープといった日々を過ごし、自宅においては禁酒という、いわば出家者のような食生活も慣れてしまうとどこか心地よい。

ところが、人間は時に悪も欲する。
悪と言うと肉に失礼な話なのだが、現状の数値で言えば牛肉は悪の側になる。
つまり必要悪ということだ。
それにしても、悪の誘惑はなんと魅力的なのだろう。

7月の夕刻はまだまだ明る過ぎる。
蒸し暑さが漂うすすきので、待ち受けているものは和牛焼肉の再来だった。

開店時間に合わせて入ると、案内されたのは店の最奥といってよい個室だった。
さっそく生ビールを頼むと、極冷のジョッキに浸るビールが運ばれてきた。
およそ2週間振りの極冷ビールは、ひと口で半分ほど消えていった。
それまでの私の自制心は脆くも崩壊し、高尿酸血症も脂質異常症も泡の中に忘却し去り、悪の誘惑に身を投げた。

特選牛タン塩

まずは、「特選牛タン塩」が運ばれてきた。
その姿は特選というふさわしく、目を瞠るほどの極厚の肉をプレートに載せると脂が浮き立ち始め、豊かな光沢を纏って私の咀嚼を待ち受けた。
その大きさからひと口で噛み切れそうもなく、食べやすくするために鋏で3片に切って、肉そのもの、次いで塩、ついでタレで咀嚼を繰り返した。
この牛タンだけで愉しめる味わいのバリエーションは多彩だというのに、「和牛の宝箱」の登場によって早くも誘惑の最高潮を迎えようとしていた。
チョレギサラダとキムチの盛り合わせで冷静さを保ちながら、「和牛の宝箱」を覗き込んだ。
金粉を被った三角バラ、イチボ、ランプ、肩ロース、カメノコという5種は、深みのある赤色を宿し黙ったまま私を待ち望んでいるようだ。
これまでの抑止の反動から3杯目の生ビールを飲みながら、それぞれをプレートに載せる。
私の体内には次々と濃厚な肉と脂がなだれ込み、チョレギサラダとキムチで姑息な火消しに回るのだった。

和牛の宝箱
ネギ巻き俵牛タン

「ネギ巻き俵牛タン」が運ばれてきた時、私は再び目を瞠った。
どこかグロテスクながら好奇心を刺激する牛タンらしからぬ外貌をプレートに載せると、激しい炎が上がった。
丁寧に焼いたところで思いのままに噛みつくと、私の中でひとつの失敗を認めざるを得なかった。
それは、肉の厚みでネギにまで火が通っていないことであった。
2個目はネギをくるんだ肉を解き丹念に焼いてから食すると、ネギの焦げ目と牛タンの旨味が同時に押し寄せて来る。
それは特選牛タン塩とは異なる咀嚼を促し、ネギの歯切れ音がいつまでも心地よく続くように思われた。

和牛トモサンカク

さらに、「和牛トモサンカク」が到来した。
希少部位のそれは、おそらくこの日の頂点となる肉になるだろう。
それは予想を超えた味わいながら、ネギ巻き俵牛タンで疲れた咀嚼を癒やすように溶け入る。
そうして「トリセセリ」と「牛上ミノ」、そして「海老塩焼き」という選択は、芳醇な和牛の脂からの逃避にふさわしい。

店長らしき男性スタッフがこまめにプレートを替える気遣いを見守りながら、ハイボールを切り替え、真新しいプレートにトリセセリ、牛上ミノ、海老塩焼きを次々と載せてゆく。
もはやこれ以上、というところで悪の誘惑のひとときは終わりを告げた。
私が自分自身に制限をかけていたおよそ2週間の抑制は、ほんの2時間で制圧されたのだ。

18時30分を過ぎていた。
少し酔った体に、夜というには明るすぎる初夏のすすきの湿った空気が包んだ。
それはどこか背徳の薫りが漂うような気がした。……


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