【人生最期の食事を求めて】カレーと餃子のオーソドックスが奏でる究極。
2023年10月4日(水)
みよしの中の島店(北海道札幌市豊平区)
会社を退職する以前から長い散歩は日課だった。
しかも退職してからというもの、その長さは日に日に延びている。
もちろん健康のためというのが最初の動機だったが、その目的は次第に変化し、孤独という自己との対話、または体と心を整え歩行禅にまで昇華している。
しかも長けば長いほど待ち遠しいほどの空腹が到来し、その矢庭に店を探すというのは、とてつもなく純粋で貪欲な行為そのものだ。
今年は秋の気配があまりに遅い。
忍び寄るかと思えば強い日差しが降り注ぐという日々で、10月に入っても秋の気分とはいかなかった。
公園を巡り、橋を渡り、陰鬱なマンションや古いビルが混在する道に沿って、私は午前の日差しを避けるように歩いた。
否応もなく襲来する空腹に私の足は一旦止まりかけた。
『ここで立ち止まったら、何もないのではないか?』
再び歩きかけ、地下鉄「中の島」駅に差し掛かった時、私の眼前にぎょうざとカレーの文字が並ぶ赤と白のツートンカラーののぼりが揺らいでいた。
私がこの地に住まうようになって、その存在の浸透力に圧倒されたのは「みよしの」だった。
1967年(昭和42年)創業という歴史を持つ「みよしの」のぎょうざカレーは、ラーメン、ジンギスカン、スープカレーという定番とは異なる、札幌市民にとっては声高に主張しないソールフードと言える。
コロナ以前ならば、夜の締めの選択肢として、観光客による長蛇の行列に並ぶ深夜のラーメンよりもぎょうざカレーを選択するほうが地元民らしい。
と聞くと、中国料理とインド料理を代表するメニューの合作と思われがちだが、その味といえば至ってシンプルでストレートと言える。
店内に歩み寄るとカウンター席しかない店内は、営業開始して間もないせいか客が2人しかいない。
躊躇なく「みよしのセット」(680円)と男性スタッフに口ずさんだ。
少なからず愛嬌があるとは言えない男性スタッフは調理に手間取っているようだった。
すると、一番奥のカウンター席に座っている男性客の前に大量のぎょうざとライスが置かれた。それが「大盛ぎょうざ定食」と見当がつくのは容易かった。
すかさず、醤油と辣油の用意された小皿に餃子を思い思いに付けて食べるその所作は、まるで貪欲な体育会系所属の学生のようだ。
そこで、私はソクラテスの格言を思い出した。
「生きるために食べよ、食べるために生きるな」
突如としてカレーライスが置かれた。
スパイスのパウダーを頼み、すぐさまパウダーを振りかけて餃子の登場を待った。
奥の業務用餃子焼機のタイマーが唸った。
皿に整えられた餃子がすかさずテーブルに置かれた。
まずは、餃子をカレーに載せ、いわゆる「みよしのカレー」にして食することにした。
オーソドックスなカレーのルー、それを纏うオーソドックスな餃子。
オーソドックスとオーソドックスが重なり合わさる時、オーソドックスは格別になる。
職業に貴賤なしというが、それは食事においても同様である。
A級やらB級やらというヒエラルキーは合ってはならない。
食材においてもまた同一なのだ。
さらに、餃子を単体で食し、カレーを単体で食し、再び餃子カレーにして食する。
そして、束の間に名物でもあるキャベツの浅漬けで味の変化を楽しみながら、ソウルフードについて想った。
そう、今やソウルフードは至る所にも存在するだろう。
だが、ソウルフードというものは煌びやかで別格なものではなく、ごくありふれた日常の味なのだ。
大盛のぎょうざ定食を食べている客は、あっという間に完食して何事もなく涼しげに外に出ていった。
私も淡々と完食へとひた走った。
すると、ソクラテスはまるで隣に座っているかのように再び耳元で囁いた。
「簡単すぎる人生に、生きる価値などない」と……。