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【人生最期の食事を求めて】地元民に愛され続ける長崎おでんの滋味深い懐。

2024年3月21日(木)
おでん桃若(長崎県長崎市本石炭町)

数分置きに往来する時刻表のない電車の轟音は、晴れ渡る春の空に向かって高らかに鳴り響く遠雷のようで、乗り慣れた市民はそんな轟音を気にすることもなく後方の入口から速やかに飛び乗っている。
私も市民然として電車に飛び乗った。

平和公園
浦上天主堂
原爆資料館

目指すべき場所は平和公園、浦上天主堂、そして原爆資料館だった。
世界が暴力の混沌に再び陥りつつある今、そこは多くの外国人観光客の姿で埋め尽くされていた。
その状況は、どこか意想外の安堵感で埋められた。
1945年8月のあの日は、まだ世界から忘却されてはいないのだ。

帰りの電車の中で、浦上天主堂の穏やかな光を放つステンドグラスと磔のキリスト像を思い返していると私にある想いが訪れた。
それは、私にとって大きな精神的支柱の一人である内村鑑三である。

内村鑑三(1861〜1930)

私が内村鑑三と出会ったのは、試験から大きく逸脱して日本史を猛烈に深く掘り下げて学んだ学生時代だった。
激動の明治期において、札幌農学校にてキリスト教に改宗した内村鑑三の無骨なまでのキリスト教精神への忠誠、形式主義への批判的姿勢から樹立した無教会主義。
さらに政府を弾圧にも屈しない非戦論に心を奪われた。
その後の数奇な人生の変遷、数々の政治的あるいは精神的危機を乗り越えた揺るぎない信念に、私は未熟ながらも異様なまでの感銘を受けたのだ。
聖書を読み、教会に通っては様々な質問を牧師にぶつけてはキリスト教と内村鑑三の齟齬に戸惑い、揺れ動いた頃を思い出す。
そして聖書を読破した時、私は内村鑑三への尊敬を捨てぬままにも、読書傾向は「神は死んだ」と記したドイツの鉄人フリードリヒ・ニーチェに辿り着いてしまったのだ。
私の精神的道標は、その時忽然と消えてしまったのだ。
そうして気がつけば、私は長崎の繁華街の中を彷徨っていた。

思案橋横丁
おでん桃若

夜の薄ら寒い風がよぎる思案橋横丁に出くわした。
どこかしら寂寥感の配した横丁を一巡りすると、おでんという文字を浮かべた赤提灯が煌々と灯りを発していた。
昼食時のおでんの光景が脳裡を訪れた。
私は店の中を覗くように恐る恐る縄暖簾をくぐると、外から垣間見ることのできない賑わいと熱気に一瞬躊躇を覚えた。
「おひとりさま?」
若大将風の男性が尋ねた。
肯定すると、1席だけある狭いカウンター席を案内された。

まずは瓶ビールとともに、わしかん、りゅうがん、だいこん、たけのこを注文すると、わしかんは時間を要するという。
瓶ビールを飲むや否や、女将さんが別の客に訪ねてきた。
「どこからおいでですか?」
私の後からすぐに入ってきたその男性客は東京から来たのだが、長崎が実家だと愛嬌を振りまきながらまるで常連客のような仕草で語った。
どうやら一見客にはそういった流儀らしい。
そこから見知らぬ客同士が、あたかも旧友に再開したかのように会話が盛り上がる。
薄いながらもしっかりと出汁の効いたおでんは夜の薄ら寒さを打ち消し、さり気なく優しく麗しい。
さらに、くるまぶ、あつあげ、ふくろとともに、焼酎ロックを追加した。
すると、隣の席が空席となったと思うと、すぐさま若い男女の客が座った。
女将さんや若大将と私の隣に座った男女客のやり取りは、かない仲の良い関係であることが窺い知れる。
ふしとしたきっかけで男女客が話しかけてきた。
2度目の長崎であること、訪問の発端、さらに長崎名物に関して話題が及んだ。
昨夜食べた刺身、昼に食べたちゃんぽん、謎めくトルコライスの話題は、その他の客も反応し、興味深い展開にまで及んだ。
隣の常連の男女客が時計に目を向けると私に満面を笑顔で、
「長崎を楽しんでくださいね!」
と明るい声音を残して帰っていった。

それにしても長崎は気さくな人が多いものだ、と感慨深げに芋焼酎ロックとねぎま、こんにゃく、ロールキャベツを畳み掛けた。
「お客さん、水のように飲むね」
若大将が酒のピッチの速さに驚き呆れてか、冗談交じりで言った。
「そんなことはないですよ」
と私は冷静になりながらも、
「お代わりをください」
と4杯目の芋焼酎ロックを頼んだ。
ともあれ、おでんというものは地域柄が出やすいものだが、このお店のそれはどれもが体に溶け入り、染み渡り、そして馴染むようだ。
何よりも初めて来た店と感じさせない温もり溢れる雰囲気作りは、長崎県民の有無を問わず惹きつけられることであろう。
いち早く外国との渡航によって異文化を受け入れた伝統は、こういった形でも継承されているのだろうか?
様々な歴史と重く刻まれた悲劇を乗り越えてきた気概が、その温もりを育んできたのだろうか?
5杯目のグラスを止め、会計をすることにした。
「またいらっしゃいよ!」
女将さんのその声は、私がこの街の住人かのような錯覚を招くかのように優しく響くのだった……。

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