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【心を照らすレンズの地平】我が映画偏愛記「ベニスに死す」
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監督: ルキノ・ヴィスコンティ
原作:トーマス・マン
音楽:グスタフ・マーラー
出演:ダーク・ボガード、ピョルン・アンドレセン
製作国:イタリア・フランス・アメリカ
公開日:1971年
原作と映像と音楽の三位一体が織りなす究極の名作。
[あらすじ]
舞台は1911年、ペストの影が忍び寄るヴェネツィアの街。
主人公グスタフ・アッシェンバッハは、静養のために水の都に滞在する。
しかしそこで彼は、美の化身とも言うべきポーランド人少年タジオに出会い、その存在に心を奪われる。
タジオの容貌は、アッシェンバッハにとって永遠の美の理念そのものであり、彼はその姿に一種の崇高なる狂気を覚える。
やがて彼の心は、次第に芸術家としての高みを目指す純粋な憧憬から、老いゆく肉体と退廃の中で燃え上がる執着へと変貌する。
街にはペストの危機が迫るものの、彼はそこにとどまることを選び、やがてリド島の砂浜で、タジオの微笑みを見つめながら静かに命を終える。
その死は、崩れ落ちる肉体が美という幻想を追い続けた果てにたどり着いた、冷たくも崇高な結末だった。
[鑑賞後の印象]
私が最も尊敬する小説家、それはトーマス・マンである。
彼の作品はもちろんのこと、生い立ちや家族構成、ナチスドイツへの抵抗と亡命、愛するドイツを離れて講演や執筆活動に明け暮れる晩年を、私は調べ続けたことがあり、当時の本棚には額縁に入ったトーマス・マンの写真を置き、日々目にしていたものである。
彼の代表作は別記事でご紹介するが、おそらく代表作の「魔の山」とともに本作の原作となった「ベニスに死す」であろう。
その中編小説をイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティが映画化。
その全篇に渡り、美と死、老いと芸術という普遍的なテーマが鋭利な刃物のように描き出されている。
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私は、原作と映画を幾度も行きつ戻りつしながらもこの映画に酔い痴れた。
この作品において、ルキノ・ヴィスコンティは映像美という名の詩を編み上げた。
マーラーの交響曲第5番「アダージェット」に彩られた映画は、単なる物語の展開を超え、観る者を主人公の内面世界〜美への欲望、老いへの恐怖〜へと引きずり込む。
その音楽は、アッシェンバッハの心の揺らぎを象徴するかのごとく波のように押し寄せ、また引いてゆく。
特に注目すべきは、アッシェンバッハを作家から作曲家へと改変した点である。
この変更は、芸術家の内なる苦悩を視覚的、聴覚的に具現化することを可能にした。
タジオを演じたビョルン・アンドレセンの中性的な美しさは、映画そのものを美の象徴へと昇華させる役割を果たしている。
しかし同時に、その静謐で緩やかなテンポは、全ての観客が耐えうるものではないかもしれない。この映画は視覚的な華やかさの裏に、観る者の感性を試すような深遠な問いを隠している。
だが批判もまた免れ得ない。
アッシェンバッハのタジオへの執着が倫理的な不快感を呼び起こすとする声や、原作に比して主人公の内面描写が希薄であるという指摘もある。
ヴィスコンティの手腕が視覚美に傾きすぎた結果、マンの原作が持つ哲学的重層性がやや損なわれているとの見方もあろう。
それでもなお、『べニスに死す』は、芸術の不滅性と人間の有限性を描き切った一大叙事詩である。
ペストに蝕まれる街の空気の中、最後まで美を追い求めた男の姿は、観る者の胸に消え難い余韻を残す。
まるでその美が、決して手に入れることのできない神の贈り物であるかのように。……
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[原作と映画の相違点]
トーマス・マンの小説「べニスに死す」とルキノ・ヴィスコンティが手掛けた映画は、その深層において共通するテーマを有しながらも表現の方法において著しい相違を示している。
これらの違いは、映像という媒介がもたらす感覚的な力と原作が内包する哲学的な深みの間に横たわる溝を物語る。
主人公の職業の変更
原作: グスタフ・アッシェンバッハは作家として描かれ、その芸術的探求は言葉を媒介にした知的な営みとして位置づけられる。
彼の内的世界は、言語と思想の交錯により構築されている。
映画: ヴィスコンティはアッシェンバッハを作曲家に変えることで、音楽という視覚的かつ感覚的に表現し得る芸術形態を選んだ。
この変更によって主人公の美と芸術への執着は、音楽という普遍的で感覚的な体験を通じて観客に迫ることとなる。
タジオの描写
原作: タジオは純粋な美の象徴として登場するものの、その外見や具体的な描写は極めて簡潔であり、読者の想像力に多くを委ねている。
映画: ヴィスコンティはタジオを神秘的かつ圧倒的な美の具現化として描くため、ビョルン・アンドレセンを起用し、その中性的な美貌を徹底的に強調した。
タジオの存在は映画版において、まさに「美の偶像」として観客の視覚と感覚を強烈に支配する。
ペストの描写
原作: ペストというテーマはあくまで背景に過ぎず、主人公の精神的運命に直接的に作用するものではない。
映画: ヴィスコンティは、ペストの影を街全体に広げ、その腐敗と死の象徴を視覚的に徹底的に描写している。
黒旗や汚れた運河の映像を通じて、ペストはアッシェンバッハの命運を定める陰の存在として強く意識される。
アッシェンバッハの背景描写
原作: アッシェンバッハの過去や精神的葛藤は内面的な独白や深遠な思想に基づいて語られ、彼の芸術的探求が非常に哲学的な次元で描写される。
映画: 映画では、アッシェンバッハの内面の深層に立ち入ることなく、回想シーンを通じて彼の過去が断片的に描かれる。
妻や子供との関係、そして芸術家としての失敗などが、視覚的に暗示されるだけで、彼の精神的葛藤はむしろ余韻として残される。
美の追求と主人公の動機
原作: アッシェンバッハの美への探求はあくまで理想的な「観念」に基づいており、タジオへの憧れは高邁で哲学的な領域にとどまる。
映画: ヴィスコンティは、アッシェンバッハの美への執着をより官能的かつ情熱的に描き出す。
彼がタジオを見つめる姿勢は、あたかも美を所有したいという切実な願望に満ち、その眼差しは純粋な憧憬を超えて肉体的な欲望へと変貌する。
終幕の表現
原作: アッシェンバッハの死は静謐に描かれており、その瞬間には哲学的な余韻が漂う。
死の瞬間は詳細に語られることなく、暗示的に示されるのみである。
映画: 映画では、アッシェンバッハがタジオの姿を見つめながら力尽きるシーンがマーラーの音楽と共に壮絶に描かれている。
彼の顔に浮かぶ汗と崩れ落ちるメイクが老いと死の象徴として強烈に際立ち、視覚的・感覚的に観客に衝撃を与える。
ヴィスコンティは、原作の深層に潜む哲学的なテーマを尊重しつつも、映画という視覚的・聴覚的な媒体に適応させるため、感覚的な表現を重視した。
その結果、原作が内包する内面的な葛藤や思想的な深みは一部省略され、より直感的で感情的なアプローチが取られた。
しかし、映画が生み出した美的な高揚感や視覚的な衝撃は、独立した芸術作品としての魅力を持ち、観客に深い印象を与えることに成功している。
「べニスに死す」は、映画としての形態で新たな命を吹き込まれ、原作とは異なる角度から「美と死」のテーマを探求することとなったと言えるだろう。
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[原作、映像、音楽の奇跡的調和と効果]
私の知る限り、そして私の主観的観点から言っても、「べニスに死す」は、トーマス・マンの原作、ルキノ・ヴィスコンティの映像、そしてマーラーの音楽が、まさに奇跡的な調和を成し遂げた類まれなる総合芸術の結晶である。
この作品は単に三つの異なる芸術形式が共存しているのではなく、それぞれが深く絡み合い、互いを補完し、高め合いながら、唯一無二の表現世界を築き上げている。
原作:精神と美の探求
トーマス・マンの原作は、老作家グスタフ・アッシェンバッハが理想の美を追い求める中で、死と対峙する物語だ。
ここで描かれる美と死の緊密な結びつきは、単なる物語のテーマに留まらず、人生そのものの象徴であり、哲学的な問いを孕んでいる。
アッシェンバッハがタジオという少年に見出す美は、彼自身の芸術家としての追求そのものであり、同時に肉体的な崩壊を暗示する存在だ。
この原作の哲学的深遠さは映画全体の根幹を成す。
映像:視覚芸術としての映画
ルキノ・ヴィスコンティの映像美は、原作の哲学的なテーマを視覚化する上で欠かせない役割を果たしている。
ヴィスコンティは、ヴェネツィアという退廃と美が交錯する都市を舞台に、色彩、光、構図を駆使して、観客に詩的な体験を与える。
例えば、タジオを中心とした海辺のシーンや、アッシェンバッハが化粧で仮面のような顔を作り上げる場面など、すべてのカットが絵画のように構成されている。
こうした映像表現は、原作の内面的な問いを視覚的に具体化し、観る者に感覚的な衝撃を与える。
音楽:魂の共鳴
そこに流れるのが、マーラーの「交響曲第5番 アダージェット」である。
この楽曲は、物語全体の情緒やテーマを音楽で表現するだけでなく、アッシェンバッハの内面や作品世界そのものを音で語る役割を担う。
美しくも儚い旋律は、主人公の孤独、崇高さ、そして死への予感を観客に直接伝える。
この音楽が映画の中で繰り返し使われることで、原作の哲学的な問いや映像の詩的美が一つの巨大な感情的流れとして統一されていく。
総合芸術としての融合
原作、映像、音楽が独立して優れているだけでは、ここまでの調和は実現し得ない。
これらは互いに支え合い、一つの有機的な全体を形成している。
例えば、アッシェンバッハがタジオを見つめるシーンでは、マンの原作が示唆する「美の永遠性」、ヴィスコンティのカメラワークが描く「退廃の詩情」、そしてマーラーの旋律が響かせる「死の余韻」が一体となり、言葉に尽くしがたい深い感動を生み出す。
このように「べニスに死す」は、原作文学の精神性、映像美の詩情、音楽の魂の響きが三位一体となり、観る者に圧倒的な美的体験を提供する。
これは映画という表現形式の可能性を極限まで高めた作品であり、単なる文学の映像化ではなく、一つの総合芸術として後世に語り継がれるべき存在なのだと断言したい。