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【一瞬の永遠が描く音の風景】アルノルド・シェーベルク「浄められた夜」


作曲:アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)作品名:「浄められた夜」または「浄夜」作曲年:1899年演奏:小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ夜に漂うように奏でる、十二音技法の脆く儚い退廃美。

[楽曲印象]
この曲と出会ったのは、今から30年ほど前のことである。
FMラジオからたまたま聞こえてきたクラシック音楽が、私は思わず手を止めて聴き入った曲こそ、アルノルド・シェーンベルクの「浄められた夜」である。
それはいわば夜の闇に浮かぶ一瞬の光芒のようなものを放ち、唐突に私を貫いたのである。

この曲は、ドイツの詩人リヒャルト・デーメル(1863-1920)による同名の詩「浄夜」に基づき、月夜の下での男女の語らいがモチーフにして作曲したとされる。
作品の奥底には、恋人たちの内なる苦悩が幾重にも折り重なった音響の中に潜み、静寂を切り裂いて悲痛な叫びのように響き渡る。
だが、この叫びは無秩序なものではなく、彼の編み出す精緻な和声の秩序の中に潜り込み、激しい緊張とともにひそやかに燃え上がる。
シェーンベルクは調性の限界を試し、そこにあるべき明暗の構図を緩やかに崩しながら、彼のもつ独自の感性で夜の美を描き出しているのだ。

この「浄められた夜」はあたかも一つの楽章に凝縮された運命の詩であり、ロマン派音楽の到達しうる最後の頂にまで達した後、その重みを引き受け未来へと向かう暗示を秘めている。
物語性に富むこの作品は、恋人たちが抱く罪の意識とその赦しに至るまでの旅を描き、その過程で幾度も苦悩の影に覆われたが、最後には光の解放に包まれる。
五つの部分に分かれた構成は各々が内なる葛藤と和解への段階を示しており、音楽がゆっくりと闇から光へと変化していく様は聴き手の魂を浄化するかのように流れる。

演奏においても、「浄められた夜」は尋常ならざる技巧と表現力を必要とする。
とりわけ弦楽六重奏版でのアンサンブルは、各奏者が対話を重ねつつ互いの音色に影響し合うため、極度に繊細な統率が求められる。
緊張感の中で音が一つに融合する瞬間には、音楽がそのまま夜の息吹に溶け込み感情の奔流がふとした瞬間に解き放たれる。
奏者が精緻に構築するダイナミクスとフレージングは、この闇と光の対比を際立たせ物語を象徴的に響かせる。

この作品はシェーンベルクの後期ロマン派としての集大成でありながら、同時に未来への大胆な橋渡しでもある。
後に彼が歩む無調性や十二音技法の革命的な道へ続く踏み石ともなったこの作品は、ロマン派の終焉を告げると同時に、夜の闇から新たな音楽世界への夜明けを予兆する。
かつての秩序がほころび、新たな秩序が目を覚ますその瞬間こそが、「浄められた夜」という作品が果たすべき宿命であったと言えよう。

晩秋から初冬にかけての寒気が肌を刺す冬の夜、私は世紀末ヨーロッパに充満していたであろう退廃と不安、華麗と虚無が絡み合う不穏な空気を夢想しつつ、この曲を幾度も聴くことにする。
まるで時代の終焉を飾る頽廃美の幻影が、音楽の中に微かに立ち昇るのを感じながら。……

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