【一瞬の永遠が描く音の風景】ヨハン・ゼバスティアン・バッハ「オルガン作品全集」
作曲:ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)
作品名:オルガン作品全集
演奏:ヘルムート・ヴァルヒャ(ドイツ)
盲目のオルガニストが照らすバッハの魂の輝き。
[楽曲印象]
この文を書き始めようとしたら、突如として訃報が届いた。
日本を代表する詩人の谷川俊太郎氏の訃報である。
92歳。
御冥福を祈る。
唐突だが、私の最期が訪れる時に聴きたいと思う曲は、若い頃から決めている。否、あたかも生まれた時からすでに決められているようで、ずっと変わることがない。
それはバッハのオルガン曲である。
バッハを演奏するために生まれてきたと言っても過言ではないカール・リヒターも深く敬愛してきたのだが、盲目のオルガニストであるヘルムート・ヴァルヒャも欠かすことができない。
当時、私は小遣いを握りしめてレコードショップに向かい、ヘルムート・ヴァルヒャのオルガン作品全集というCDを予算オーバーしながらも購入した。
その分厚いCD集を、私は小遣いの元を取り返すかのように幾度となく拝聴した。
ヘルムート・ヴァルヒャが奏でるバッハのオルガン作品全集は、まるで精密に彫り上げられたゴシック建築かのように、その冷厳な美と調和の極致に達している。
盲目でありながら彼が作品に捧げた精神と労苦は、単なる技巧を超えた畏敬の念すら抱かせる。
そこにはバッハが神に捧げた音楽の厳粛な祈りが、ひとつの音も曖昧にせぬ完璧な形で顕現している。
ヴァルヒャの解釈はひたすら端正で余白を許さない。
たとえば「オルゲルビュッヒライン」に収録されたコラール前奏曲の一つ一つが、聖書の句読点にすら意味があるかのように一音たりとも無駄にせず紡がれる。
彼の演奏においては、音はもはや音ではなく、光と影の交錯する建築そのものに変じ、バッハの精神そのものを聴く者の前に立ち現わらせる。
そのテンポ感は鋼鉄の鎖のような精緻さを保ちながら、決して硬直には陥らない。
「トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565」の冒頭の和音が響き渡る瞬間、聴き手は気高い建築物の大扉が開かれる幻影を目にするだろう。
そして、フーガへと移行する部分に至っては、音が建築的秩序に従いながらすべてが一つの壮麗な調和に溶け込む。
ヴァルヒャはその録音において、歴史的オルガンを巧みに選び抜いた。
各楽器の個性を最大限に活かしつつ、それをバッハの作品に溶け込ませた彼の手腕は、まさに熟達の極みといえよう。
それは単なる音楽の再現ではなく、バッハの時代の空気と精神を蘇らせる試みであり、結果としてバッハの音楽は冷たい記念碑ではなく、命を吹き込まれた生きた存在となる。
ただし、その克明さゆえに冷たさを感じる者もいるだろう。
彼の演奏は過剰な感情の流露や劇的な効果を排し、ひたすら純粋な構築美に奉仕する。
これを「冷静すぎる」と評する向きもあるが、果たしてそれがヴァルヒャの美徳ではなくて何であろうか。
この全集はバッハ演奏における一つの到達点であり、同時にヴァルヒャという孤高の芸術家の魂の証明でもある。
現代の録音技術に比べれば粗さを感じる部分もあるかもしれないが、それでもなおそこに響くのは単なる音の連なりではない。
神と人間、その架け橋としての音楽の厳粛さが、いまなお聴き手の心に問いかける。
二十億光年へと旅立った谷川俊太郎氏によって、私の脳裡には不意にメメント・モリ(Memento Mori)という言葉がよぎった。
メメント・モリとは、「死を忘れるな」という意味を表すラテン語である。
2024年も終盤を差しかかった。
つい先日まで“季節はずれの暑さ”が枕詞のように言い尽くされていたが、それが嘘のように寒さが増してきた。
私は、あらためて自己のメメント・モリを見つめ直し、ヴァルヒャのバッハをダウンロードしようと思う。