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【心を照らすレンズの地平】我が映画偏愛記「カミーユ・クローデル」
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監督: ブリュノ・ニュイッテン
出演:イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュー
製作国:フランス
公開日:1989年
狂おしいほどの愛と孤独の狭間で苦しむ天才彫刻家の悲劇。
[観賞後の印象]
リルケ作「ドュイノの悲歌」の印象批評を書いていた際に、オーギュスト・ロダンを想起したことをきっかけに、私はふと心に様々な感情を刻んでいった映画の印象を記していくことにする。
ロダンといえば、フランスを代表する大彫刻家の名は「考える人」でご存知の人も多いだろう。
それ以外にも、「地獄の門」や「カレーの市民」など数々の大傑作を残しているが、彼の傍らには弟子であり愛人でもあるカミーユ・クローデルの美しくも狂おしい影が投影する。
映画『カミーユ・クローデル』は、19世紀末のフランスを舞台に、ひとりの女性彫刻家の情熱と苦悩、そしてその芸術的天才の悲劇的な運命を描いた作品である。
カミーユ・クローデル(イザベル・アジャーニ)という人物は、まさにその時代の芸術界における不遇の天才であり、彼女の心の内面は暗くも鮮烈に描かれることになる。
彼女は、師であり恋人であるオーギュスト・ロダン(ジェラール・ドパルデュー)との関係に翻弄され、その愛と芸術に対する渇望が次第に彼女を破滅へと導いていく。
この映画は時折猛烈に重苦しく、また激しい感情の波を伴ってカミーユの内面を掘り下げてゆく。その情熱はまるで死を凌駕するほど強烈で、ロダンに対する盲目的な愛がその全てを支配している。
しかし、ロダンの冷徹な態度と彼女の芸術が世に認められない現実は、カミーユをますます追い詰めていく。
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彼女の才能は決して隠れたものではなく、それが周囲の人々を圧倒し、しかし社会はそれに気づくことなく、むしろ彼女を疎外していく。
その孤独感と絶望感は、あまりにも深く痛ましく描かれている。
イザベル・アジャーニの容姿も演技もまさにカミーユの内面の暗闇を具象化するもので、彼女が表現する激情や狂気は目を背けることができないほどに鮮烈である。
ロダンを愛し、その愛にすがるがゆえに、カミーユはその矛盾に悩み堕ちてゆく。
アジャーニがその苦悩を具現化する様は何とも切実で、彼女の美しさがその悲劇性を一層引き立てている。
だが、映画は時折その重さが過ぎ、カミーユの芸術が持つ力強さや美しさを視覚的に伝えることに失敗しているように感じられる。
彫刻という形態の美術がスクリーン上ではその存在感を十分に伝えきれず、観客に彼女の作品に対する深い理解を求めることが難しい。
カミーユの芸術的衝動とその破壊的な美しさを映画は描くことに成功しているものの、その詳細にはやや欠ける部分も見受けられる。
それでも「カミーユ・クローデル」は、芸術と愛がどれほどまでに人を狂わせることができるかを深く問いかける作品であり、カミーユの悲劇的な生涯はその象徴的な存在である。
彼女が自己を破壊し精神的な崩壊に至る過程は、観る者に強烈な感情を呼び起こし、単なる映画としてではなく芸術そのものとして観るに足るものだと言えるだろう。