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【人生の道端微録】元プロ野球選手イチロー氏の“不完全”というコメントに見る仏教思想との関連性

私はスポーツ観戦を避けて生きている。
他者と競い合うという営みそのものが、私にとっては何とも厄介で、勝敗という二項対立の枠組みに自らをはめ込むことを好まないからだ。
ましてや、特定のチームの「ファン」として一体化するような情熱には、むしろ不快すら覚える。
だが、それにもかかわらず、アスリートという存在そのものには、ある種の興味を掻き立てられる。
彼らが競技に取り組む姿勢、そして発する言葉の端々に垣間見えるその人格や哲学は、競技の枠を超えた普遍的な人間の美、または思想性を示していることがあるからだ。
その中でも、私が特に注目している人物がいる。
元プロ野球選手のイチロー氏である。

その偉大な実績については、ここで列挙することを意図しない。
それは容易に調べることができるからであり、また、その表層的な成果が彼の本質を語るには不十分であると私は考えるからだ。

私が真に注目したのは、2025年1月22日、彼のアメリカ野球殿堂入りが発表された際のコメントにほかならない。
マスメディアは、彼の満票獲得に注目していたようだが、1票及ばなかった。
その直後の彼のコメントは

不完全な中で、自分なりの完璧を追い求めて進んでいくのが人生だと思う。

という私の想定を超えるものであった。

この言葉の持つ含蓄は、単なる謙遜や作り物の謙虚さを超えて、哲学的な深度を備えていた。
完全なるものを追い求めながらも、それが永遠に手の届かぬものであることを知る。
その不完全性の中に、自らの「完璧」を形作るという逆説
それは、競技者としての彼ではなく、一人の哲学者としての彼の肖像を浮かび上がらせたのだ。
と同時に、その響きには、仏教的な諦念と同時に日本的な美意識の深奥が潜んでいる。
その言葉の裏には、完全なるものなど決して存在しないという現実を鋭く見据えた眼差しがあり、そこからなお、己の中に「完璧」を見出そうとする人間の矛盾した営みが浮かび上がる。
これはまさしく、仏教が説く**「諸行無常」**の教えそのものだ。
完全を否定しつつも、その否定の中で精進を続ける。
これこそ、仏教的修行の核心である「正精進」にほかならない。

イチローは、誰もが手の届かぬ高みを目指しながらも、達成不可能なその頂きに苦しみを覚えぬ者ではない。
それでもなお、己の「道」を歩む姿は、禅の修行僧のような孤独と意志の象徴であり、精神の澄んだ無欲の美を我々に垣間見せる。
さらに言えば、「自分なりの完璧」という表現は、普遍的な価値基準を否定し、すべての存在が互いに影響し合う関係性の中で生まれるという「空(くう)」の思想に通じている。
そこには他者との比較などない。
評価も、賞賛も、むなしい幻影に過ぎぬ。
ただひたすら己の中に基準を持ち、その基準に従い行為を繰り返す姿こそ、「無」に達する者の潔癖な在り方を彷彿とさせる。

満票という外部からの評価を追い求めることなく、自らが歩むべき道に専念するその姿勢は、世俗の枠を超越した一種の自由である。
それは、禅的な静謐さの中に燃える強靭な意志の光でもある。
こうして見れば、イチローの言葉が内包する仏教的な真理は明らかだ。
「不完全」の中に見いだされる「完璧」。
それは人間が背負った矛盾であり、また美そのものだ。
人は完璧を得ることはできない。
しかし、それを求める営みの中にのみ、本当の精神の自由が宿るのだ。

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