【心を照らすレンズの地平】我が映画偏愛記「こうのとり、たちずさんで」
監督:テオ・アンゲロプロス
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、グレゴリー・カー
製作国:ギリシャ・フランス・スイス・イタリア合作
公開日:1992年
国境に立つ人間の孤独と歴史の重みを詩的に描く映像詩。
[あらすじ]
物語は霧深きギリシャの国境地帯を舞台に展開する。
主人公は名の知れた政治記者であり、彼は亡命者たちの運命を追う取材の途上、失踪したとされるある政治家の姿を幻視する。
静かに佇むその影は、荒廃した風景に異質な威厳を放ち、主人公の胸中に消し難い問いを投げかける。
それは単なる亡命者の生死を巡る謎解きではなく、国家、言語、そして個のアイデンティティに潜む根源的な矛盾を暴き出す旅への誘いであった。
主人公はその「言葉を失った亡命政治家」を追い、廃村や国境線の闇を彷徨う。
その道程は彼自身の内なる虚無に触れる巡礼のようでもあり、国境という見えざる線が国家という名の幻想と現実の狭間に生きる人々の悲哀を象徴する。
やがて彼がたどり着く結末は言葉による説明を拒み、沈黙の中に真理の一端を垣間見せるものとなる。
[鑑賞後の印象]
私は事前にこの映画や監督について何も知らずに観た。
それからというもの、私にとってその体験はひとつの異様な閃光であり、テオ・アンゲロプロスの映画が放つ世界に私を引きずり込んだ。そこには哲学性、思想性、さらには国境という地政学的問題が孕まれていながらも、そうした要素すべてが一つの秩序と調和の中に昇華され、究極の総合映像美学が構築されていたのである。
この映画はギリシャ映画である。
私にとってのギリシャは、煌々と輝く太陽、澄明な青空、アポロンのような荘厳な輝きを宿したイメージだったのに、テオ・アンゲロプロスの作品は、重苦しくて仄暗く冷たい雲に覆われた灰色の世界を静かに描写する。
『こうのとり、たちずさんで』もまた同様の映像詩であり**、国境という無機的な存在を人間の生と政治の本質をえぐる鋭利な象徴**へと昇華させている。
アンゲロプロス特有の長回しのカメラワークは、風景と人間の営みを一体化させ、時間という抽象的な観念に物質性を与える。
その緩慢で荘厳なリズムは、観る者の心に耐え難い静寂を植え付け問いを投げかける。
政治記者である主人公が亡命者の運命に憑りつかれる姿には、虚構と真実の境界が色濃く反映されている。
彼の追う政治家は実在の人物であると同時に、主人公自身の魂の残像でもある。
ここに描かれるのは政治的使命に殉じる人間の姿ではなく、言葉を失った存在が抱える無音の叫びである。
その叫びは、国家と個人の対立という近代の矛盾をひとつの無音の詩として結晶化させる。
もっとも、こうした崇高なテーマは同時にその難解さゆえに観客を突き放す危険を孕んでいる。
アンゲロプロスの作品に顕著な**「語らない美学」**は、ある者には深淵を覗き込む体験となり、またある者には理解の手掛かりを拒む高い壁となる。
しかし、この拒絶こそが本作の本質であり、問いの余韻を観客に委ねる姿勢が作品の強度を高めている。
『こうのとり、たちずさんで』は、時空を超えて人間存在の根源を見つめる孤高の映画である。
その静寂の中に宿る声無き叫びは、観る者の胸中に永遠の問いを残すだろう。