【人生最期の食事を求めて】伝統と現代が交錯する江戸前蕎麦の新風。
2024年1月26日(金)
蕎肆 穂乃香(東京都墨田区緑)
歩き疲れていた。
昼前に天丼を平らげたものの、ひたすら歩いているとやはり空腹が訪れるのも早い。
大横川親水公園のベンチで午後の穏やかな陽光を浴びながら、ミネラルウォーターを体内に流し込んだ。
その陽光は春に間違いなく、草花は早々に息吹を取り戻し桜は前のめりに咲こうとしている。
私は再び腰を上げて再び歩き始めた。
街の光景は下町の住宅街から次第に喧騒と殷賑を増し、外国人観光客の姿も散見し始めた。
高校の校舎や高層ビル、工事車両が犇めく工事現場、そして両国国技館に出くわした。
しかもちょうど一月場所が行われている模様で、国技館に入っていく関取たちの姿が現れると待ち侘びていた群衆の歓声と拍手が見果てぬ青空に吸い込まれていくように見えた。
といって、相撲には興味のない私にとってどうでもよいことだった。
それよりも再び押し寄せる疲労に耐えて、両国に不慣れだからこそ私は意思を強くして歩き続けた。
ビルやマンションが犇めく路地に入ると、午後の安穏とした日差しを浴びた蕎麦屋を見つけた。
それを見ると新たな空腹に身悶えしながら暖簾を潜った。
すると、入口の前には待合席があった。
雑談をしながら入店を待つ男女の客の隣に座ることにした。
私が座った場所からは店内の様子を伺うことは不可能であった。
だが、その雰囲気が放つ肌感覚からすれば、短い時間で蕎麦を啜ってすぐに店を後にするという空気感はないように思われた。
その時、私の身体と意思とが分離する感覚に襲われた。
それは、歩き疲れた身体はここに留まろうとしたいのに、待つ時間を拒否しようとする意思が私の疲れて心許ない脚力を違う店へと鼓舞しているのだ。
そうして、私は再び慣れない街を歩くことにした。
心のどこかで
『もう牛丼だってラーメンだって、何だっていい』
と思った時、暖簾に揺れる店に出会った。
店構えこそどことなく洒脱な風格を備え、凛とした空気感を放っている。
その店もまた奇しくも蕎麦屋だった。
蕎肆とは“きょうし”と読む。
蕎は“蕎麦”を意味し、肆とは“店”あるいは“勝手きまま”を意味する。
つまり勝手きままな蕎麦屋ということか?
とまれかくまれ店に入ると、女将さんらしき女性スタッフの柔らかく弾む声音が出迎えた。
「カウンター席にどうぞ」
勧められた席は入口からすぐそばの席だった。
隣では女性客がひとり蕎麦をすすり、背後のテーブル席では常連風の奥様達のお喋りが響いていた。
お茶を啜りながらメニューを確認すると、一風変わったメニューに目が釘付けになった。
私は女将さんらしき女性スタッフを呼び、
「北斎せいろ二段冷たいそば、お願いします」(1,550円)
と心躍りながら言った。
目の前に置かれた石臼挽きの上にもレリーフがあり、そこいは“すみだモダン2017認証書”とある。
まさしく、この店の象徴であるとともに墨田区の認証を得た蕎麦を注文したことに、勝手ながら自己満足も高まっていった。
待つ間にもメニューを眺めていると、充実した日本酒とつまみがラインナップに目が止まった。
それは、モダンな佇まいでありながらも江戸前蕎麦の嗜み方を継承するという矜持の現れとでも言えようか?
そこに、北斎せいろ二段冷たいそばが現れた。
均等な細さに切られた二八蕎麦と色とりどりのだし汁のコントラストは、絵に書いた俯瞰図のようだ。
まずは二八蕎麦そのものをだし汁につけることなく1本啜った。
二八蕎麦らしい歯ごたえと跡を引かない風味を確かめた後、私は目をしばし目閉じて葛飾北斎の代表作[富嶽三十六景]を脳裡に浮かべた。
雪をかぶった富士山を遠景に、船をも飲み込むように幾重にも折り重なった荒波の躍動。
[富嶽三十六景]の構図に照らして、次はある程度まとまった麺をつけ汁とともに啜った。
鴨肉とねぎの溶け合った絶妙な香りを纏った麺が口内で躍動する。
麺を噛む毎にその香りは緩やかに溶け合って私の体内に忍び込んでいった。
続けざまに、なすやししとうの絡め、さらにつくねを食した。
二段目に入ると、だし汁と残り少なくなった具材とを絡めて食べ進めた。
それでも飽きが来るどころか、勢いにまかせて三段目を追加したくなるほどだったが、程良い頃合いで具材はなくなり、だし汁からも[富嶽三十六景]のような荒波は消えて凪となった。
そのタイミングを見計らっていたかのように蕎麦湯が置かれた。
蕎麦猪口に注ぐと、[富嶽三十六景]に描かれた富士山に被る雪のような淡い白さが滲んでいる。
濃密な蕎麦湯を飲み干すまでの間、[富嶽三十六景]が描かれた江戸時代から令和時代にまでの時を一気に手繰り寄せたような気がしながら、北斎モダンの余韻に浸った。
外は一点の雲もない、まさしく日本晴れだった。
私はふと思った。
『現代に葛飾北斎が生きていれば、どんな風景を描くだろう』と……。