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【人生最期の食事を求めて】人生屈指の麻婆豆腐との予期せぬ逢会。

2024年11月17日(日)
南京町 花梨麻婆飯店(兵庫県神戸市南京町)

休日、大阪駅に辿り着いた。
平日を呑み込む出勤ラッシュの狂騒は東京と寸毫の差異もないが、関西の玄関口たるこの地は休日になると異様な熱気を帯びる。
人々は観光の目的地を目指して散り、再び集う。

私は一瞬、雑踏の只中で足を止めた。
空海が高野山に刻んだ宗教の源流を訪ねるべきか?
それとも、谷崎潤一郎の芳醇たる文学の息吹が今も漂う神戸を目指すべきか?

前者であれば2時間以上を費やすことになろう。
後者なら、快速に乗れば30分と経たずに辿り着く。
迷いを風に散らし、私はJR神戸線の列車へ身を委ねた。

三ノ宮駅。
その周囲では例のごとく工事が進行中で、迂回路は訪れるたびに姿を変える。
神戸を訪れたのは、およそ10ヶ月ぶりだ。
今年元旦、金沢行きを計画していた私の旅程は未曽有の地震により翻弄され、名古屋、京都、そして神戸へと流転した。

この日はまだ10時であった。
三宮駅から元町方面へと続く商店街を歩み進める。
人影は次第に増え、南京町に差し掛かる頃には長蛇の列が至る所に現れる。
無秩序に伸びる行列を見て、私は思わず足を海の方角へ向けた。

メリケンパークの一隅にあるコーヒーチェーン店に腰を落ち着けた。
この窓辺からは大阪湾の穏やかな景色が広がり、私が特に愛する場所である。
店内に若者たちの長時間の占拠はなく、代わりに東洋系観光客らしい一群が声高に話し合っている。
その喧騒を遮るべく、私はノイズキャンセリング機能を駆使して静寂を取り戻し、しばし仕事に集中した。
コーヒーを飲み干し、店外へ出て海の香りを深く吸い込む。
流れる雲間から現れる日差しが、大阪湾の水面に煌めきを宿していた。
ふと胸中に浮かんだのは谷崎潤一郎の言葉であった。
“たとへ神に見放されても、私は私自身を信じる。”
その信仰の有無を問うことなく、ただ自己を信じ、前へ進む。
それ以外に何ができようか。

谷崎潤一郎(1886〜1965)

私は空腹を覚えた。
脳裡を駆け巡るのは炒飯の幻影である。
炒飯は中華料理店を選ぶ際の試金石であると、私は常々考えている。
しかし南京町の喧騒に再び巻き込まれ、波間を漂うようにその熱気に苛まれていた。
そのとき、路地裏に目を惹く鮮烈な赤い看板が現れた。
麻婆豆腐の専門店と記されている。
炒飯への欲求は瞬時に霧散し、代わりに私の中で麻婆豆腐への渇望が湧き上がった。
並んでいる客は5名ほどだ。
待つ価値はあるだろうと確信した。

南京町 花梨麻婆飯店

10分程して若い女性スタッフが現れ、私を店内へと促した。

入口傍の券売機に目を遣り、「四川麻婆豆腐」の辛さを試すべく「2辛」を選択する。
それに加えて、お薦めの「牛すじ」のオプションを選び、ライスは大盛とした。
選択の一つ一つが、この後に訪れる未知の味わいを予感させる。

案内されたのは入口近くのハイカウンターとハイチェアの席だった。
無骨なテーブルの上には紙エプロンが置かれている。
周囲を見渡せば、厨房とカウンターの間には半透明のビニールシートが垂れ下がり、その向こうで店主らしき男が熱気と油煙の中、黙々と鍋を振っている。
どこか劇場的な光景に目を奪われていると、背後から女性スタッフがトレイを慎重に運び、私の前に置いた。
土鍋の蓋が開けられると、夥しい湯気が立ち上り、一瞬視界が奪われる。
その後に現れたのは、赤褐色に光る麻婆豆腐だった。
まるで烈火のごときその姿に、私は本能的な戦慄を覚えつつも興味を抑えきれずひと口を運んだ。
その瞬間、辛味の奥に潜む深い旨味が口中に広がり、私を圧倒した。
辛さだけに頼らないこの巧緻な味わいの構築を、私は初めて体感したのである。

四川麻婆豆腐(2辛)

さらに花椒を振りかけることで、麻婆豆腐は新たな次元へと昇華する。
加えて、麻辣酢、トマト酢、パイン酢を順次注ぎ入れることで味覚の変遷を楽しむ。
この変化の妙こそが、この料理の真骨頂であると言える。
時折、牛すじの柔らかい食感や刻みザーサイの歯触りが混ざり込み、単調さを許さぬ展開が続く。
気がつけば私は土鍋を空にし、満ち足りた表情で顔を上げていた。
厨房を背に立つ店主に向かい、私は意を決して声を掛けた。
「本当に素晴らしい味でした。」
その言葉に彼は一瞬驚きの表情を見せ、次いで快活に応じた。
「ありがとうございます! また来てください!」

店を出ると、辛味とコクの余韻がまだ舌に残り、微醺のような幸福感が心を包んでいた。
その中で、谷崎潤一郎の精神が不意に蘇る。
彼が愛した関西の地、その豊饒なる文化に対する憧憬を私は確かに共有しているのだと感じた。
足は自然と芦屋へ向かう。
谷崎潤一郎記念館ーーその静謐な空間で、彼の精神にさらに近づくことを望みながら。……

谷崎潤一郎記念館


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