百舌鳥古墳群(大阪府堺市)ジオ探訪記
百舌鳥古墳群を訪れる
2024年5月27日(月曜日)、堺市の百舌鳥古墳群を訪れました。
この日は、午後から大阪市内の取引先への訪問があったため、あまり時間がありません。午前中に1時間ほど大仙公園周辺を散策し観察しました。
市街地にほど近い住宅地の中に点在する古墳のほか、博物館、植物園、散策のできる森や広場、カフェやBBQなどそろっており、一日いても飽きないところなので、いつかはゆっくり訪れたいと思います。
百舌鳥古墳群は、大阪府堺市にある日本の最大の前方後円墳の仁徳天皇陵古墳や3番目に大きい履中天皇陵古墳など大小数十基が現存している古墳群で、2019年に羽曳野市にある古市古墳群と合わせ「百舌鳥・古市古墳群」として世界文化遺産に登録されています。
大仙公園の第一駐車場に車を停めて散策開始です。
履中天皇陵古墳
まずは、公園の南側にある履中天皇陵古墳に向かいます。
地上からでは前方後円墳であることもよくわからないくらい大きいので、本来であれば堀の周囲を歩いて確認したいところですが、雨が降り続くなか時間もないので、あきらめて後円部の北側のビュースポットの説明板を見てその姿を想像します。
大仙公園
降ったりやんだりの小雨の中、履中天皇陵古墳を後にして大仙公園を散策しました。
昭和38(1963)年に整備事業が開始された大仙公園は。大芝生広場や植樹された森の周辺に、図書館、博物館、植物園、日本庭園などの様々な文化施設がある、市街地のそばにある総合公園です。
園内にある古墳たちを巡りながら散策を予定していたのですが、滞在できる時間も圧していたので断念。また、園内にある堺市博物館でこの辺りの遺跡や歴史の様子を見ようとしましたが、月曜の休館日のためこれも断念。仕方がないので、百舌鳥古墳群ビジターセンターに向かい展示物を見学し案内パンフレットを入手してひと休みです。
しばし休憩を取った後、仁徳天皇陵古墳の拝所に向かいました。
仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳の拝所までやってきました。
案内マップによると、古墳の周りを周回して歩けるようですが、やはり時間がないのでこれも断念。
この古墳の壮大さを実感するには、やはり空から眺めたいところですが、昨年から運行が計画されていたガス気球による「おおさか堺バルーン」はガス漏れにより運行延期となっているようです。
大仙公園を後にして、午後からの取引先での作業・打合せを終え、大阪市内に宿泊しました。
翌日は、羽曳野市の古市古墳群を見てから帰ろうと思いましたが、大雨のため断念。午前中に奈良の橿原考古研究所付属博物館に立ち寄り、古代の出土資料を見学して帰路に就いたのでした。
空から古墳を見てみよう
断層の上にある百舌鳥・古市古墳群
百舌鳥・古市古墳群は、4世紀後半から5世紀後半にかけて築造されたとされており、近畿地方を中心に勢力を拡大した大和政権の王たちの墓群です。
古墳が造られた当時の様子を知るには発掘してみるありませんが、造られてから千数百年も経っており、建造当時の様子がそのまま残っている古墳はまれです。
古墳群の分布や立地の様子は空から全体を見てみるとよくわかります。
古墳時代のころは、現在の平野部は湿地帯となっているところが多く、米作りの技術(水を制御する土木技術)が発達するにつれ、平野部に集落が広がっていったと思われます。
また、古墳(特に大型古墳)は、小高い尾根筋や段丘の上などに位置しているものが多く、なるべく大きく見せるように場所を選定したものと想像されます。
百舌鳥・古市古墳群は、世界遺産 百舌鳥・古市古墳群の紹介サイトにある「百舌鳥エリアと古市エリアの位置関係」のように、大阪平野の中にありますが、周囲より少し高くなったところに建造されているようです。
国土数値情報に基づいて引いた等高線を表示した古墳群周辺の地図を作ってみると(図1参照)、この高まりは活断層によるものであり、断層崖や段丘崖に沿って古墳が建造されていることがわかります。
応神天皇陵に残された活断層による地震の痕跡
図1右側の古市古墳群の地図を見ると、応神天皇陵古墳の直上を活断層が横断しています。応神天皇陵(誉田山古墳)のところを拡大して見てみると(図2参照)、墳丘の前方部が断層に沿って変形されているようです。
この活断層と変位の関係に気づいた地質学者の寒川旭氏は、周辺の変位量の調査を行い古記録などと比較して詳細に調べた結果、この変位は生駒断層の活動による1510年 の摂津・河内の地震により生じたものとしました(寒川(1986))。
この後、この地層・地表や遺跡に残された地震の痕跡と古記録を比較して地震の活動記録を明らかにするという手法を用いた「地震考古学」という学問分野が提唱され、古墳の調査が地震研究や防災研究にとって寄与することとなったのです(釜井ほか(2008)など)。
仁徳天皇陵の崩壊は地震によるもの?
図1左側の百舌鳥古墳群の地図を見ると、すぐそばに上町断層が走っています。
上町断層帯は、大阪平野の西部を南北に走る断層帯で、東側が西側に乗り上げる形(逆断層)の活断層です。歴史上この断層が明確に活動したという記録は見つかっていませんが、比較的活動度の高い活断層とされています。
仁徳天皇陵(大山古墳)の地図を見てみると、墳丘がところどころ崩れて等高線がゆがんでいるのが分かります(図3の左側参照)。
この墳丘の崩れも地震によるものと推定されているとのことですが、同じ上町断層の近くにある履中天皇陵古墳には墳丘の崩れは見られないため(図3 の右側参照)、大山古墳の墳丘の崩れは上町断層の直接の活動によるものとは思えません。
建造当時の事情(墳丘の盛土の土質や構造、建造期間や建造技術の差など)などの違いでしょうか?
このあたりを解明するのはなかなか難しそうです。
<参考資料>
寒川旭(1986)誉田山古墳の断層変位と地震.地震 第2輯(39).p.15-24
釜井俊孝・寒川旭・守隨治雄(2008)1596年慶長伏見地震による古墳の地 すべり.応用地質(48-6). p.285-298
国土地理院.基盤地図情報.
産業技術総合研究所.活断層データベースサイト.https://gbank.gsj.jp/activefault/
世界遺産 百舌鳥・古市古墳群紹介サイト.https://www.mozu-furuichi.jp/
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