おととい
一昨日のことを、どのくらい覚えているだろうか?
私はたまたま友人と出かけたため、いくらか鮮明に覚えている。何時くらいに起きて、午前中は何をし、午後からは彼と何をしたか。いつ帰宅し、何時に寝たのか。何を食べたのか、何を話し、考えたのか。
昨日という一日の向こう側にある、広大な過去という世界の中で最も今日に密接しているものが一昨日である。
一昨日の反対には明後日がある。明日という一日によって隔たれている、これまた広大な未来の中で、最も今日に近しい場所に位置している。
何かに狙いをつけて放ったものが大きくそれたり、話の論点が急に変わったりすることを表すときに、「明後日の方向」という言葉を使うことがある。
ここには、明日はある程度予測ができるが、明後日はどうなっているか分からない、という無意識の内の了解が横たわっているのではないかと思う。
一方で、「一昨日来やがれ」という表現もある。相手にもう金輪際来てほしくないときに使う言葉だ。一昨日に来る、などということはタイムスリップでもしない限り不可能である。だからこそ、このような表現を使って不快感を表しているわけだが、不可能性を利用するだけならば「昨日来やがれ」でも問題はないはずである。
しかし、それでもわざわざ「一昨日」という言葉を使っているのは、その方がより不可能性が高そうに感じるからではないだろうか。今日と密接している昨日では、もしかすると「昨日来る」ということが今からでも可能かもしれないと感覚的に思ってしまうのではないだろうか。
このように、明後日や一昨日といった言葉を使った慣用句が生み出されていることから分かるのは、昨日と一昨日、そして、明日と明後日は一日しか違わないが、その一日の差を我々はとても大きく感じているということである。
さらに付け足せば、そこから更に一日離れた、一昨々日、明々後日という言葉を使った慣用句が見当たらないことからも、今日という日を中心とした2、3日間の隔たりが我々の感覚に訴えかけるものの大きさをうかがい知ることができる。
今日に目を向けることが大事だと言われることが多い。しかしながら、今日という草の根は昨日や一昨日に伸びて栄養を補給しており、その茎が太陽光と自重の支えを求める先には明日や明後日がある。
今日を大事に生きるためには、今日に密接した昨日と明日、そして、そこから少し離れたところにある、一昨日と明後日も大事にするべきではないだろうか。
昨日やったことを、なぜ一昨日にはやれなかったのか。明日やるはずだったことを明後日に先延ばしにしようとしているのはなぜか。こういった思考の先に、明日には昨日に、明後日には一昨日になる今日を生きるヒントが隠れているのではないだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!