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運動会の中途半端さを楽しむということ

運動会のような学校行事は外国ではめずらしいと聞く。例えばアメリカの人などからすると、とてもユニークな行事に見えるようだ。

子供の頃から当たり前のように参加してきたので、疑問を抱くこともなかったが、よく考えてみると、確かにかなり変わった行事だと言えるかもしれない。今になって振り返ってみると、その競技はどれもクリエイティブである。

大玉転がし、障害物競走、ムカデ競争、玉入れ、騎馬戦、組体操...。

どれもこれも、オリンピック種目になるほどしっかりとした競技ではないが、かと言って、子供の遊びと言うには大掛かりなものばかりである。言わば、スポーツと遊びの間にあるのがこれらの競技だと言うことができるだろう。

これは、大人と子供の間にいる時期である、思春期と重なるものを感じる。

小学校時代の遊びではもうつまらない。自分の持ち味を活かして、もう一歩発展した何かをしたい。しかし、大人がやるような仕事としてやりたいわけではない。それが思春期という時期である。

何かと何かの中間にあるもの。ある時期にだけやってくるもの。他にはない、独特の雰囲気を持ったもの。突き詰めて考えると、何のためにあるのかよく分からなくなってくるもの。それが運動会と思春期の共通点である。

しかし、それらは確実に私達の人生の1ページなのである。そこにいた、中間体としての自分の存在。そして、中間体的な何かをしていたという事実。これらが積み重なって今の私を作っている。

自分がどこにいるのかがはっきりしていないときはとてもきつい。何かと何かの間でふらついているときほど、苦しいときは無い。しかし、それが人生である。どこかに到達するまでの不安定な道中。これを楽しむことができるかどうかに、人生を楽しめるかどうかはかかっている。

しかし、私達は安心して良い。

運動会のような中途半端な行事も、なんだかんだ楽しんできた。そのことを思い出しさえすれば、私達には、中間地点を楽しむ素養が十分に備わっているということに気づくことができるだろう。

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Takumiのessay
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