風の谷のナウシカ(漫画版)は、ナウシカの実存主義宣言である(ネタバレ)
「風の谷のナウシカ」の漫画は全7巻である。第7巻の最後のコマには、物語を締めるにあたっての解説文を除けば、一言だけ言葉が書かれている。「生きねば」。宮崎駿の最新作、「風立ちぬ」のキャッチコピーと同じ一言が、その公開よりも20年以上も前に発行された漫画に書いてあるのだ。「風立ちぬ、いざ生きめやも」(風が吹く、生きようと試みなければならない)この言葉は、すでに当時から彼の心にあり、ナウシカ全体のテーマにもなっていたのではないだろうか。
この物語は、風の谷のナウシカが、トルメキア王国とドルク諸侯国との戦争に巻き込まれるところから始まる。彼女はその争いをなんとか止め、そこにいる全ての人間、また、腐海や王蟲などの虫たちを守ろうと身を挺して戦う。余談ではあるが、これは「もののけ姫」で、アシタカが森や神々、サン、タタラ場の人間全てを守ろうと奔走するという構造と通底するものを感じる。ナウシカもアシタカも、言葉を選ばずに言えば、「愚かな理想論者」である。しかし、そうであるからこそ、私は彼らの言動に心を動かされ、生命に対する差別なき慈愛に満ちた態度に目頭を熱くしないではいられないのである。また、物語のほぼ全体を通して、腐海(自然)と人間という大きな対立構造が取られている。映画版ナウシカで語られていることはこれに尽きると言っても過言ではない。
映画版の主なストーリーラインは以下である。過去に興った産業文明は地球の富を使い尽くし、残された資源を求めて、巨神兵という兵器を使った火の七日間という大戦争が起こった。それによって、文明は完全に破壊され、地球は不毛の大地と瘴気を発する腐海が支配するようになった。そんな世界で住む人間は、常に腐海やそこに住む巨大な虫たちに怯え、それらを忌み嫌いながら生活をしている。そんな世界にあって、ナウシカは腐海と虫たちを人間と同じように愛している。そして、腐海が、実は人間が汚してしまった世界を浄化してくれているという事実を知り、虫を戦争の道具に使ったり、腐海を焼き払おうとしたりする人間の愚かさに大きな悲しみを懐く。それでも彼女はそれを乗り越え、苦しみながらも双方が共存する道を切り開こうとするのである。
もし仮に、ここでこの物語が完結しているのであれば、そのメッセージは「自然は人類の犯した愚かな過ちの尻拭いをしてくれているのだから、そのことをしっかりと肝に銘じて、態度を改め生きていこう。」というものになるだろう。しかし、この内容だけでは、最後のコマに書かれている「生きねば。」という言葉からほとばしる強い意志が感じられない。この物語の全貌はそう単純では無いのである。というのも、実は上で述べた内容、つまり映画化されている内容は、漫画版では1巻と2巻の内容をドラマチックに改変したものであり、3巻以降では、映画では全く語られないさらなる真実が解明されていくのである。
その真実は、第7巻で、ナウシカが墓の主と呼ばれる存在と対話することでもたらされる。その真実とは大まかに言うとこうである。
昔々、世界の富がなくなり、大戦が始まると予感した一部の人間は、富を奪い合うような愚かな人間の姿に絶望し、そのような人間とは別の人間、闇を持たず、光だけを持つ人間を生み出し未来に残そうと考えた。さらに、その人間たちが住むための清浄な世界も、来る大戦の後に残したいと考えた。これらはどちらも、当時の科学技術によって達成された。まず前者。作中には、来たるべきときがくるまで、卵の中で保存されている清浄な人間たちが描かれる。また、巨神兵は、汚れた世界を一度リセットするために作られたものである。そして、後者。火の七日間で荒廃した土地を、産業が発展する前の清浄な土地に戻すために、腐海や虫たちは発明されたのである。腐海は大地の毒を吸い上げ、無害な鉱物に変えながら石化し、やがて崩れて砂になる。後には清浄な砂と水の世界が残るのだ。虫たちはそんな腐海を守るために作られた。そして、実は腐海には奥底の世界がある。ここでは、腐海が石化した後、完全に崩壊しており、かつての草木や動物が育ち、産業勃興以前の世界が再現されているのである。この世界が昔の人々(墓の主)が取り戻したかった世界なのだ。
つまり、彼らは破壊と再構築による浄化をこの世界にあらかじめプログラムしていたのである。そして、ここにはもう一つ重要なことがある。それは、この清浄な世界では、ナウシカら現代の人間は生きていけないということである。どういうことか。
実は、現代の人間はすでにこの荒廃した土地や腐海の瘴気にある程度耐えられるように進化してしまっており、逆にそれが全く無い土地には適さない体になっているのである。ナウシカが、人間のために働いてくれていると思っていた腐海は、実は過去の人間の、汚れた人間を駆逐するという希望を達成するために作られたものでしかなく、自分たち現代の人間は腐海に滅ぼされる運命しか持っていないということに気がついてしまうのである。
そんな絶望と虚無の淵に立たされながら、それでもナウシカは言うのである。「生きねば」と。
この言葉は、ナウシカの生命観から紡ぎ出されるのだが、その前に、まずは一度、墓の主の生命観を見てみたい。彼らは、生命をコントロール可能なものだと見ている。巨神兵、腐海の植物、虫たち、これらは全て彼らが作り出した生物であるが、彼らはこれらの生命を、計画通りに動く機械のように見ており、その上で、それらを駆使した世界の破壊と再建を企てたのである。
では、翻ってナウシカの生命観はどういったものなのか。それを物語るナウシカの思考を引用する。
どんなにみじめな生命であっても生命はそれ自体の力によって生きています
この星では生命はそれ自体が奇蹟なのです
世界の再建を計画した者たちがあの巨大な粘菌やオウムたちの行動をすべて予定していたというのでしょうか
違う
私の中で何かが違うと激しく叫びます
このセリフから、ナウシカの生命に対するリスペクトが伺える。文中のみじめな生物とは、王蟲などの、墓の主によって作られた生物のことである。そのような生命であっても、生命には自由意志があり、そこに生きている以上、彼らは彼らの尊厳を持ち、自らで歩を進めているとナウシカは感じている。
また、ナウシカと墓の主の生命観は、別角度からも違いを見せる。墓の主は、生命を本来は清浄なもの、光と闇でいえば光だけで構成されている(べき)ものであると主張する。それが、彼らが腐海を作り出し、現代の汚れた人間を駆逐しようとした理由である。そんな墓の主に対してナウシカは反発する。
清浄と汚濁こそ生命だ
命は闇の中のまたたく光だ
世界は美しく、かつ、残酷である。正義の裏には悪が潜んでいる。生命そのものもまた、光や闇といった一義的なものではなく、様々な要素が混じり合ってできている。ナウシカ自身でさえも、作中の言葉を借りれば、「破壊と慈悲の混沌」なのである。このような矛盾、また、光になりたくてもなれないという絶望と悲しみを背負いながらも、生きていかなければならないとナウシカは決意する。なぜならナウシカは、ナウシカの愛しい人たちは、今ここに生きているのだから。
始めから破滅の運命が定められていたとしても、この事実を手放すことはナウシカにはできないのである。これが、「生きねば。」に込められた想いなのだろう。真実ではなく、事実を抱いて、生きねばならないのだ。「実存は本質に先立つ」(実存主義者サルトルの言葉)。これは、ナウシカの実存主義宣言ではないだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!