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ジョゼと虎と魚たち、と私

アニメ映画、「ジョゼと虎と魚たち」を観た。

やはり人の心を打つのは、いつも絶望と希望の物語なのだろう。

絶望の淵に希望の光を差し与えた人物が、今度は自分がその人物に灯した明かりを受けて、絶望の淵から生還する。そんな物語だった。

この物語において、希望は「心の翼」と表現されていた。


ジョゼは身体障害を持つ女性である。生まれつき歩くことができず、移動は常に車椅子で行う。

彼女は心の翼を失っていた。

その不自由な足は彼女を外の世界から遠ざけ、用心深い祖母の助言は街を歩く人々を恐ろしい虎へと変えていた。

外界や他者に対して警戒心を持っていたジョゼ。しかし同時に、早逝した父との記憶や本で触れた言葉から、それらに対する興味も密かに持ち続けていた。

その中でも、ひときわ彼女の心を震わせていたのは海への憧れだった。

彼女が一日の大半を過ごす部屋は貝殻などで作られた海を連想させる家具や装飾品で彩られていた。

そして最も目立つ正面の壁には彼女自身の手による海の絵が飾られていた。

海はどんな味がするのか?

幼き日に父から出されたこの問いの答えを、いつかは自分の舌で確かめたいと思っていた。

そして、その答えを与えたのが恒夫だった。

恒夫は海が好きな青年である。ひょんなことからジョゼの世話役になった。

祖母の目を盗んで恒夫と海に出かけ、そのしょっぱさを知ったジョゼは、その後も彼とともに世界を広げていく。

外界は恐ろしいところではなく、人は虎ではない。

この気付きは彼女の心に翼を与えた。
そしてその翼は、彼女をもう一つの気づきへと導いた。

彼女には絵の才能があったのだ。

これまで、海への溢れんばかりの憧れを画用紙に詰め込んで来た彼女は、人の心を動かす絵が描けるようになっていた。

絵で食べていく。それが彼女の夢になった。心の翼は彼女に夢を与えたのだ。希望とは人に夢を与えるものなのだ。

一方で、恒夫にも夢があった。幼い頃にアクアショップで見たオレンジ色の魚の群れと一緒に泳ぐことだ。

小さい頃、彼は毎日のようにその水槽をじっと覗き込んでいた。両親が離婚し、仕事で留守がちの母と暮らしていた恒夫は、水槽の中で、本来は群れを成すにも関わらずただ一匹で泳ぐその魚に自分の孤独感を投影し、共感していたのだろう。

その魚はメキシコにしかいない上、群れを作ることは滅多に無い。大学で生物学を学ぶ彼がこの夢を実現するためには、メキシコに留学をするのが一番の方法だった。

アルバイトでお金をためながらスペイン語の勉強を続ける恒夫だったが、ある日、そんな彼を悲劇が襲う。

交通事故に遭ってしまうのだ。

命に別状は無かった。しかし、足に大怪我を負い一生治らないかもしれないという宣告を受けた。そうなれば、魚と泳ぐことなど到底できなくなってしまう。

長期のリハビリが必要になってしまったことから、留学も断念せざる負えなかった。恒夫の夢は途絶え、彼の心の翼は折れてしまった。

しかし、物語はここで終わらない。

恒夫の絶望を知ったジョゼが立ち上がるのだ。

恒夫にもらった心の翼を、今度は恒夫のために羽ばたかせたのだ。

ジョゼは絵筆を握った。そして、一冊の絵本を完成させた。

その絵本には、二人の登場人物が希望を与え合う物語が描かれていた。これは言うまでもなく、ジョゼがいかに恒夫に救われたか、そして、彼女がいかに彼を救いたいかということの比喩表現である。

ジョゼはその絵本を恒夫に読んで聞かせた。それを聞き終わった恒夫は思わず涙ぐむ。彼の頬をつたった一雫は、その心に再び翼が授けられたことの印だった。

恒夫は魚たちと泳ぐという夢を取り戻し、リハビリへと専念し始めた。



私は、希望は劇薬だと思っている。

絶望にさいなまれたとき、新たな希望ほど効果てきめんなものは無い。
しかし同時に、それを失ったときのことを考えれば、これほどまでに危険なものも無いのである。

この映画は、どこまでも希望を持てという映画だった。

登場人物は、

幼いときから絶望を背負い続けてきたジョゼと、
幼いときから持ち続けてきた夢を一瞬にして奪われた恒夫である。

しかし、

恒夫はジョゼに、この世には希望の光が残っていることを示し、
ジョゼは恒夫に、夢を諦めてはいけないと伝えた。

彼らの心の翼が羽ばたくのならば、私の心の翼もまた、羽ばたかせることもできるのではないか。

そう思ったことが、きっと、この文章を書いた理由なのだと思う。

劇薬の副作用を恐れない、心の翼が欲しいと思った。


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Takumiのessay
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