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就活の軸、喪失の真相 上

就職活動というものがある。学生生活が終わるその前に、私達の目の前に立ちはだかる大きな壁である。

いわゆる、意識が高いと言われる人たちの中には、大学に入るとすぐに長期のインターンシップに参加するなどして就職活動を始める人もいる。

もっと早く始める例もある。例えば、就職率の高さをアピールポイントとしている大学に入ることを目指して受験勉強をするというような場合は、実質、高校2、3年生くらいから就職活動を始めているということになる。

これらはかなり具体的な道が決まってからの就職活動の話である。一般的に就活というと、このことを指す。

しかし私は、もっと抽象的なレベルでの就活、いわゆる、「将来のため」というフワッとしたスローガンのもと行われる就職活動もあると思う。

なぜなら、この「将来のため」という言葉の真意は、「将来ちゃんと就職して、ちゃんとお金を稼いで、ちゃんと生きていくため。」であり、これは就職を意識したスローガンだと思うからである。

こちらの就活であれば、今までにやったことがない、否、やらされたことがないという人はまずいないだろうし、多くの人が、かなり小さいときからやらされてきただろう。

将来のために習い事をさせる。将来のために好き嫌いしないようにさせる。将来のために塾に行かせる。

このように、「将来のため」という言葉は事あるごとに文頭に用いられ、子供に対するあらゆる行為を正当化する。ほんの赤ん坊の頃から、私達は「将来のため」に生きることを余儀なくされる。

こう考えると私達の人生はずっと、その「将来」を見据えた「就職活動」だったように思えてくる。

なぜ小学校に入ったのか、なぜ友達を作ったのか、なぜ部活をしたのか、なぜこの音楽を好きになったのか...。

人生で行ってきたあらゆる行為、出会ってきたあらゆる人や物が、「将来のため」であったように感じてしまう。私達は、「ちゃんとした就職」をするために生きてきたのではないかと思ってしまう。

つづく。


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Takumiのessay
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