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『観光客の哲学 増補版』読んだ

amazonの購入履歴によると、旧版のほうを読んだのは2年半前。僕の記憶ではもっと昔、5年くらい前に読んでいたような気がしていたので、意外だった。それくらい、この本を読んで人生観、世界観を揺り動かされたということだろう。

初めて東浩紀を知ったのは『一般意志2.0』。これもamazonの履歴によれば、読んだのは2015年末のことである。正直に言って、当時は全然よくわからなかった。というより、反感を覚えた。その頃僕は大学4年生で、ルソーについて研究したいなあと思っていて、参考書のつもりで読んだわけだが、「なんじゃこりゃ」と思った。ルソーと現代の情報技術を結びつけるなんてアクロバティックすぎるように思った。研究はもっと堅実じゃないと。なんて考えていたと思う。書名も気に入らなかった。2.0って! 大学の中にいるって恐ろしいですね。まだ学部生にすぎなかったというのに。まあ、僕の頭が硬かっただけかもしれない。

そんなわけで、『一般意志2.0』を読んだあとはしばらく東からは遠ざかっていた。
その次に東と再び出会ったのが、『観光客の哲学』だった。2020年末頃のことだ。刊行されたのは2017年で、当時も少し話題を聞いた気がするが、興味を持てなかった。観光客? ふんっ。て感じ。
それが、なぜ手に取る気になったのか。その頃には僕は大学院で研究するようになっていたが、一言で言えば行き詰まっていたのだろう。こんな堅実な研究やっていて何になるんだ! みたいなことを考え始めていた。いい加減な奴だ。昔は正反対のことを言っていたのに。

『観光客の哲学』。題名が急に輝いて見え出した。人生ってわからないものだ。まあどういう本を読むかは、そのときどのような人生を送っているかと密接に関係しているので、そんなものなのかもしれない。2020年末と言えばもう日本でもコロナ真っ盛りだったので、そういうこととも関係しているのかもしれない。観光なんぞもってのほか、という閉塞感の中で、僕は『観光客の哲学』を読み始めたわけだ(不思議なことに、マスクをしていた記憶が全くない。僕はもともとマスクしたくない派だったのであんまりしていなかったのだが、コロナの時代にこの本を読んだという記憶が全然ない。さっきも言ったが、もっと昔に読んでいたような気がしていた。『観光客の哲学』を読んでいたからこそマスクを堂々と外していたのだと思っていた。記憶って簡単に改竄されるものだ)。

で、まあ読み出したわけだが、今度は「すげえ!」と思った。一番衝撃を受けたのは、アーレントとシュミットを同列に置いて論じていた箇所だ。こんなことありえないと思った。大学の中とか学会とかでそんなこと言ったら、たぶん受け入れられないのではないか。特にアーレント研究者なんか絶対怒っちゃうよ。シュミットはナチスの御用学者。アーレントはナチスを逃れてアメリカに亡命した女性ユダヤ人。その二人が同じ問題意識を共有していたなんて、絶対言っちゃダメ!

しかし、東の整理は実に鮮やかだった。驚くべき明晰さでもって、アーレントとシュミットは一緒だと言っていた。

それから、文章が難しくなかった。哲学の文章にあまり慣れていない方はそれでも難しいと感じるかもしれないが、ある程度哲学書を読んだことのある人間からすると、こんなに平易な文章でここまでのことが語れるのかという驚きがまず来る。

クリアなんだけど、単にクリアなだけでもない。東の言葉は民主的なんだと思う。正確にいうと、哲学用語を民主化する能力に長けているのだと思う。
例えば東が用いる概念に「誤配」というのがあるけれど、これはもともとデリダというフランス現代思想わけわからん選手権No.1の哲学者が使っていた言葉らしい。東はそういうわけわからん哲学から上手くエッセンスを抽出してきて、それを民主化して人々に解放する。そういうのが途轍もなく上手い人だ。今ではみんな「誤配」っていう言葉を使うじゃん。ゲンロン・シラス界隈の人たちは。

「誤配」にしても、凡百の研究者だったら「間違った使い方をするな!」みたいなこと言っちゃうわけよ。一般人に対して。「脱構築」とかもそうでしょう。「みんな脱構築の本当の意味をわかっていない」とか言ってしかめっ面しちゃうわけだよ。「真の脱構築とは……」とか言っちゃうわけよ。

だけど東はそういう態度を取らない。日常語の中で普通に「脱構築」という言葉が出てくる。そうすると不思議なもので、「あ、脱構築ってそういう意味か」となってくる。「脱構築の真の意味」とかにこだわるんじゃなくて、意味は日常の中で鍛えられていくのだ。

東はだぶん世界一喋る哲学者だと思うけど、トークの中にけっこう哲学用語もナチュラルに混ざってくる。そういう人ってたいてい嫌味ったらしくなるものなんだけど、そういうのを感じない。これもやっぱり、哲学用語が民主化されている感じなんだ。僕の見た感じでは。

「一般意志」もそうだろう。これはルソーが使った言葉だが、ルソーの意図を正確に読み取ろうとすると、これはもうドツボにはまるしかない。『社会契約論』100回読んだって無駄。だって、はっきり言って意味不明でいろいろ矛盾してるもん。
しかし、時代が追いつくというのか、確かに現代の情報技術の発展という観点から『社会契約論』を読み直すと、なるほどそういうことかという気がしてくる。不思議なものだ。それは東の手になるマジックのようなものかもしれないが、しかしそれを単なる誤解・曲解と切り捨てるのは間違っている。たとえ誤解や曲解であったとしても、哲学はそのようにしてしか更新されないものなのではないか。そもそもルソーの社会契約の概念自体が、主としてホッブズの社会契約説の「脱構築」なわけだが、見方を変えればそれはルソーがホッブズを「誤読」した成果のようなものだ。

僕は当初「2.0」みたいな言い方が嫌だったのだが、実際にはそれしかないのだ。一般意志の概念を解き明かすということは、「一般意志2.0」の概念を提出するということ以外に、おそらくないのである。

さて、今回『観光客の哲学 増補版』を読んでみて、特に印象に残った箇所について記しておきたい。旧版を読んだ時にはあまり気にしていなかった箇所だ。

「ドストエフスキーの最後の主体」と題された章である。

今回増補された章と合わせて読んだ上での僕の理解では、現代は郵便的不安の時代であるというのが東の時代診断である。
郵便的不安は存在論的不安に対置される概念で、一言で言えば運命の欠如への絶望からくる不安のことである。
正確かどうか自信がないが、僕の理解では、存在論的不安というのはハイデガーが人間の条件として見つけたもので、自分はいつか死ぬということへの不安である。それはそうだろう。人は誰でも死ぬ。怖い。でも、その死を覚悟するところから、君は本当に生き始める。そうやって、君は君の運命を自分の手に収める。
言うまでもなく、激ヤバの思想である。でも、どこかロマンチックでもある。
対して、郵便的不安のほうは、運命なんかないんだ、ということに気づいた時から抱え込むことになる不安である。これはコロナ禍を経験した僕たちにはわかりやすいはずである。僕は明日コロナにかかって死ぬかもしれない。でも死なないかもしれない。それは単に確率の問題である。コロナで死ぬ人は一定数存在する。その何パーセントに自分がなるかどうかは、自分の努力とはほとんど関係がない(ということは今となっては明らかなはずだ)。マスクをしようが、手を洗おうが、死ぬ人は死ぬ。マスクをしなくても手を洗わなくても、死なない人は死なない。残酷だが、要はそういうことだった。

そういう無力感からくる不安がある。
それはニヒリズムを生む。ニヒリズムは人をテロに走らせる。そういう状況が、現に今作り出されている。

ではどうすればよいのか。郵便的不安に対する処方箋はあるのか。
東は、ドストエフスキーの作品にヒントを探る。ドストエフスキーはまさにそういうテロリストをずっと描いてきた作家だった。しかし、『カラマーゾフの兄弟』の幻の続編では、その隘路を脱する物語を書こうとしていたのではないか、というのが東の(亀山郁夫などを経由しての)見立てである。

そこで見出される「最後の主体」とはどのようなものか。
「不能の父」であると、東は言う。

ここからはまた、僕は正確に理解しているかどうかだいぶ怪しい。しかし、ともかく僕なりに考えたことを記すことにしよう。

「不能」というのはここでは精神分析の用語で、父殺しに失敗し去勢された者のことである。
そしてそれは、僕なりにすごく乱暴に整理すると、自分の運命を自分のものにできなかった者のことを指している。
そういう人は、いろいろ拗らせる。それでも運命を自分のものにしようとしてロマンチックな死を夢見るか、その裏返しでニヒリズムに落ち込み、テロリストになるか。

ドストエフスキーは空想された続編において、そのどちらにもならないための「最後の主体」を書こうとした(はずである)。この最後の主体は、不能ではあるが無力ではない。なぜなら、不能であっても「父」であることはできるからである。彼は子どもたちに囲まれている。それは疑似家族であるが、そもそも家族とはフィクショナルなものである。この父は、自分の運命を自分のものにすることができなかったが、そもそもそういう考え方自体が間違いなのだ。運命は自分だけで完結するものではないからだ。「世界は子どもたちが変えてくれる」「運命を子どもたちに委ねることで……ニヒリズムを脱することができる」(p. 358)

これはどう理解すれば良いのだろう。子ども任せとは随分無責任じゃないか、という感じがしないでもない。これは別の言い方をすれば、責任放棄して次世代に丸投げするということでもある。非倫理的な態度だ。

不能の父は無責任で非倫理的である。東は直接そう書いているわけではないが、たぶん理解としてはそう間違っていないと思う。観光客という存在がまさにそうだからである。
そもそも自分のことについて完全に責任を持ち、世界に対して完全に倫理的な人間(あるいは世代)などというものは存在し得ないし、これまでも存在しなかった。多かれ少なかれ、親は子に対して負の遺産を残して死んでいくものであり、子はそれを相続しなければならない。責任や倫理の問題は、その認識から出発して論じなければならない。世代間の問題として言えば、環境破壊などがそれである。

とはいえ、それは問題の所在を示したものであって、問題の解決を示したものではないだろう。
東は、親になることは誤配を起こすことであると言う。
子どもに運命を委ねるとは、未来の可能性に賭けるということであり、偶然に賭けるということである。少なくとも、偶然が生じる条件を閉ざしてしまってはならないということである。

ここまできて、僕はよくわからなくなってしまった。以上のような僕の理解が正しいとして、その意味はわかるし、そういうことが大切だということもわかるのだが、やはりまだぼんやりした感じが残る。東自身がこの章を「草稿」と言っているのだからそれはそうなのだろうが、別に東の文章がぼんやりしているということが言いたいのではなくて(極めて明快だと思います)、自分なりに引き受けて考えなければならないことが残っているような気がしただけだ。

一つは、それでも多くの人は親になること(文化的な意味も含めて)を選ばないだろうと思ったということ。このニヒリズムの時代に「今ここ」性から自分を引き剥がすことは至難の技だろう。僕自身はこの文章を読んでとても勇気づけられる思いがしたが、それでも何か、あと一歩必要な気がする。それが何なのかわからないが……それを今考えている最中です。なんだろう。いや、むしろ考えないことが大事なのか……?ぐるぐるぐるー

僕が最近思うのは、誤配って恐ろしいなということです。ゲンロン・シラスに慣れ親しんでいる人は「誤配万歳!」と言うかもしれないが、普通の人にとってはやはり、「誤配?は?」という感じじゃないだろうか。出会うはずのなかったモノや人に出会うことは素晴らしいと思う感覚は、実はそれほど一般的なものではない。多くの人にとって「誤配」とは単にミスマッチのことだからである。

誤配は運命である。それは起こそうと思って起こせるものではない。誤配は向こうからやってくる。にも関わらず、僕たちはそれを拒絶することができない。僕たちは誤配をあたかも必然として引き受けなければならない。その意味で、誤配とは厳しいものである。はたから見れば誤配とはミスマッチなのだから、それを引き受けるなんて無思慮だということになる。

なぜ誤配を受け取らなければならないのか。なぜ返送しないのか。それを他人に理解してもらうのはとても難しい。
最近はそういう、誤配の厳しさについて考えるようになった。

『観光客の哲学』の続編とされる『訂正可能性の哲学』の刊行を待ちながら、もう少しこの問題について考えようと思う。


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