映画「TAR ター」:②個人という幻想の問題

この1週間、映画のTAR ターのことをずっと(あ、ちょっと言い過ぎです、しばしば、くらいかな)考えていた。
久々に見た映画であり、そのうえnoteをはじめたばかりで最初の記事で、しかも長々と書いたというせいもあった。ある言葉を見つけると、次の言葉を呼ぶんだよね~。
でも、何よりもこの映画がすごかったせいかもしれない。たしかに手放しでほめるという感じではなかったし、そうした類の映画でもないと思うが、噛めば噛むほど様々な味がわき出すような、深みのある豊かな映画であることに気づいてしまったのである!

というわけで、そうした別の「味」にかんする思いについて、少々メモっておこう。
なお、この記事を書くに当たって、前の記事にもナンバーを振ってサブタイトルもつけることにした。また、全体的に、ネタバレというか、内容込みの文章ですので、あしからず。


ターという「突出した個人」

この映画の主軸は、主人公のターという指揮者個人の生き方にあることは間違いない。
先の記事では、彼女がレズビアンであるという設定にかんして綴ったが、そもそもこの映画の主人公はターであり、ターという個人の物語として進んでおり、それをレズビアンという見方だけで論ずるのは(重要であることは間違いないが)矮小化になりかねない。

実際、先の記事でも述べたように、ターを演ずるブランシェットの演技が圧巻であることも相まって、この映画は、いわば「突出した個人」の物語として私たちの目に映るし、実際、そのことが監督の意図の中心にあったとも考えられる。聞くところによると、監督がブランシェットを主演に選んだというが、それは「突出した個人」が最大のテーマであったことを意味しているだろう。

ターは、きわめて能力のある指揮者である。
立ち居振る舞いも実に堂々としており、自信満々で、また、美しい。
しかし同時に、人を人とも思わない自分勝手で高圧的な言動、性格も顕著であり、それが原因で、いつの間にか足をすくわれていくという物語だ。

とするならば、この物語の背景には、単純化してしまえば、天才的な個人と、周囲(社会)との関係(横暴で周囲を理解しない個人、突出しているが故に周囲から理解されない個人等々)について問いが見えてくる。

こうした構図自体は、それほど目新しいテーマではないだろう。せいぜいそこに、レズビアンという要素が加わっただけだ。
でも、何度かこの映画を反芻していくと、さらにもう一歩先の問いが見えてくるような気がしてきた。
つまり、突出した天才的な個人の物語(その生き方の是非)だけでなく、そうした突出した個人の物語を通して、そもそも個人とは何か、という問いがあるのではないかと思われるようになってきたのである。

屹立する/孤独な存在としてのター

ところで、この映画で印象深かったことの一つは、実は、ターという存在の孤独さである。

この孤独とは、感情的な意味のそれではない。
彼女は最初から(転落が始まる前から)、じつは誰とも本質的な意味での関係を築けていないように見える。
助手との関係、仕事上のパトロンや仲間との関係から、パートナーとの私的な関係まで、彼女は実質上いつも一人で動いており、何よりも、自分自身の認識として、誰にも影響されずここまで来たという自負を(実際はどうであれ)極めて強く意識している様子が、随所で描かれているのである。
それがターという存在の根本的な特徴であるとも言える。

具体的に映画の中を見ていこう。
たとえば、冒頭のインタビューの中で、音楽の影響関係にかんして、ターは自分に影響を与えた人物として、直截師事した人物の名をあげることはない。また、先代の指揮者などへの尊敬の念も極めておざなりで、ビジネスライクというか、ドライな関係が描かれている。

こうした様子は、独立独歩、情実を排した能力第一主義者として積極的に評価することもできるが、その一方で、自分自身への過信、傲慢さにもつながり、自分の判断だけで決定しようとする独善的な姿勢となる。
よってそれは、副指揮者やチェロのソリストの選出をめぐる場面のように、外から見れば、情実的で依怙贔屓をする人物のように見えてしまう。そのとき、ター自身の、自分は能力で判断しているという主張は、むしろ、情実を糊塗する言い訳としてしか見られなくなってしまう。

また、パートナーとの生活についても、その関係性はきちんと描かれることはなく、全体的に描写は非常に曖昧で、そうした描き方自体が、ターの関心がそこにはないことを示しているものとも言える。

実際、ターは、練習部屋としてアパートメントを個人で借りているが、そこで過ごす時間の方が、パートナーとの家以上に長いようだ。そしてこのアパートメントは、たんなる仕事部屋だけでなく、愛人との関係が営まれている場だ。
ただしその愛人たちとの関係も、ターにとっては大した問題でないことは、助手がそこに泊まることを拒否されたり、前の愛人がストーカーになったり等々の描写からうかがえる。
彼女たちは、あくまでも、ちょっと気に入った愛人でしかなく、ターは、セクシュアルな関係においても誰からも影響を受けることはない存在として描かれているのである。

周囲のさまざま他者の存在からの「報復」

しかし、こうした状況にきしみが出てくる(というのが、この映画のストーリーの肝である!)。
そもそも、誰からも影響を受けずに、誰とも関わらずに存在している個人など、いるだろうか?

この映画は、興味深いことに、飛行機の中で寝ているターをスマホで撮影しながら、SNSを書き込んでいるというシーンで始まる。
これは、たとえ屹立した個人であっても、その周囲には様々な人がいることを、端的に示しているシーンだとも言える。
映画では、こうした盗撮めいたシーンやSNSの書き込みのシーンがしばしば挿入されており、それは、ターの転落の決定的な証拠にもなる。

これは、一つには、現代のSNSの風潮を描くものではある。
しかし同時に、私たちの周囲には、自分の思惑や視覚をこえたところにも常に確実に他者がいるということも示唆しているのではないか。

実際、この映画では、こうしたSNSのほかにも、ターの幻聴か否か不明なまま、さまざまな音が聞こえてきて、ターの神経を狂わせていくシーンがあちこちに挟まれている。
これらの物音は、そのいくつかは、同じアパートメントで暮らす病人の出す音だったことが後で明らかになったりするが、いずれにせよ、彼女の周りには、彼女が無関心だっただけで、さまざまな他者が確実に存在しているのだ。

そしてターが、それらの音に悩まされていくプロセスは、直接的には元愛人のストーカー騒ぎに神経が病んでいくというプロセスに重なるが、さらに言えば、ターが自分の周囲の他者に無関心で、自分だけで生きてきたという自負にどっぷりつかってきたことへの「報復」としても描かれていると考えられる。

その意味では、ターが指揮者を解雇されたにもかかわらずコンサートに乱入した際、そこでタクトを振っていたのはターが認めていなかった指揮者だったことは、皮肉でもある。
ターが見下し無視していた指揮者の人脈ネットワークは、実際には、確実に機能していたのだ!

しかも、これが男性たちのネットワークであることに着目するならば、さらに興味深いことも付け足しておく。
先の記事で記したように、彼女は自身では女性であることを問題としておらず、男女の区別はないと自負し、それが周囲にも認められていると思っていた。しかし、このシーンからは、そうではなかったことが突然明らかになる!
男性社会は確実に存在し続けていたのであり、ターはその存在と力を見くびりすぎていたのである!

個人というものが陥る悲劇

さてこうしてみると、この映画は、他から屹立した個人であるターの悲劇という、ある意味誇張された事例をとおして、個人という問題の本質を突きつけているようにも見えてくる。

実際、ターは、以上のように見えない(見てこなかった)他者の存在に報復された後でも、その存在を無視してきた自身のあり方を見直したり、他者との関係を真剣に考えたりすることはなく、自分という存在をこれまで通りの形でひたすら修繕しようとしただけだった。

解雇されたターが、生まれ育った家に戻るシーンがある。短いが印象的だ。
すでに映画の前半で、ターが自らの英語を正統的な発音に矯正しているシーンがあるように、彼女は自分のルーツからも自立したいと考え、自分自身をプロデュースしてきた。そうしたターに、兄弟は「おまえは自分の人生が分かっていない」という言葉を投げかける。
ただし彼女は、家に残されていた、幼い頃(?)に見たと思われるバーンスタインの録画ビデオを見るだけで、兄弟や家族という問題には向き合おうとしない。この行為から見えてくるのは、誰かと改めて関わっていこうとする姿勢ではなく、相変わらず一人で(過去の残骸を寄せ集めながら)乗り越えようとするターの姿である。

そしてラストは、例の東南アジアのシーンだ。
ここでのターは、ベルリンの楽団でのターと何ら変わりない、というか、表面上変わりのないように見える。そしてだからこそ、滑稽さや情けなさ、さらには哀れささえも滲み出てくる。

彼女は何も変わっていない。この最後のシーンを、再起にかけた情熱とみるか、芸術家の性とみるか・・・・色々と解釈はあるだろうが、いずれにせよ、自分は自分だけで人生を歩んできたし、これからも一人で歩んでいくという彼女の自意識のあり方は、何ら変わっていないのである。

個人という幻想からの脱却は、どこに向かう?

こうした個人というものへの強いこだわりをめぐる問題は、ターが天才的な能力をもつ圧倒的にユニークな個人であるがゆえに、一見、能力を持つ者の業というか性のように見える。
しかし、この映画は、ここまで徹底的に、ターの人間関係の不全というか、彼女が自分しか見ていない様を描き出し、最終的には、その愚かさで終わっていることを考えれば、そこで問われているのは、やはり、「個人」という考え方というか概念そのもの(の根本的な不全)についてであると思われる。

個人という概念は、一見、推奨されており、重視すべきものだろう。
社会に流されずに、自分の意見をもって、自分の足で立っている個人って、素晴らしいよね、という具合だ。

しかし、それもまた「幻想」でしかなく、文脈によっては、むしろ、周囲との関係を無視しても良いなどという、都合の良い言い訳にも使われてしまうこともあるのではないだろうか。
しかも、それはしばしば、強者の側の言い訳として使われることも看過できない。

個人という考え方は重要だが、私たちは、当然、一人で生活している訳でも、自分だけで自分の人生を紡ぎ出している訳でもない。周囲の様々な他者から、程度や質の差こそあれ、影響を受け、影響を与え、様々な関係を結んでいるはずだ。
この映画は、そのことを無視し、見えないこととしてしまっている個人のあり方に警鐘を鳴らす。
(このことは、先の記事で考えた、女性であること/レズビアンであることにかんする問題にもつながると考えられる。)

実際、映画のなかでは、ターの幻聴か否かが分からないまま音や叫びが聞こえたりして、ターを追い詰めていくが、彼女の感ずる恐怖とは、見えない他者の存在に発するものであるというよりも、他者抜きに作りあげてきた自分が浸食されていくことにあると考えた方が適当だろう。

では、この恐怖を乗り越えるにはどうすればいいのか。
その答えは、これまで述べてきたことを繰り返せば、自律する個人とは幻想であること気づき、そうした幻想に問われていた自分を他者との関係の中で作り替えていく以外にはないのではないだろうか。

しかし、ターはそうはできなかったし、しなかった。彼女は、最後まで他者抜きの、これまで通りの自分にしがみつき、その姿が、あのゲーム音楽のコンサートでタクトを振るターである。
もちろんここで、ゲーム音楽を下に見ているのではないかという批判もあるだろうが(私の第一印象もそうだった)、ターの中では、そうした問題にすら関心がなく、ただ指揮者であることの幻想にこだわっているような形骸化した表情が顔に張り付いており、私にはそのことが最もホラーだった・・・。

さてさて、なんだか、また話がとっちらかって、うまく収拾できなかったけど、映画って、そうした複雑なものですよね。
このテーマに関してもまだまだ考えてみたいことはあるけど、また、それは別の機会にしよう。別の映画や思いを書く中でも、このテーマが出てくるかもしれないし。
では、ちょっと疲れたので、今日はここで筆を置きます!


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