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CANCER QUEEN ステージ Ⅱ 第6話 「血栓」


 

    今日は2月2日。もう2月よ。早いわね。わたしがキングの肺のなかで産声をあげてから、3ヵ月になる。彼にとってもわたしにとっても、この3ヵ月は驚天動地、波乱万丈の毎日だったわ。でも、これからが正念場なのよね。

    今日の午後、キングは予定通り入院した。
    じつは昨日、彼は入院前に歯を診てもらっておこうと思い、いつもの歯医者に行ったら、いきなり、奥歯を抜いたほうがいいと言われた。抜くには何回か通わないといけない。彼は歯科医に、明日から抗がん剤治療で入院する予定だと話すと、その前に抜いておいたほうがよいので、主治医と相談するようにと言われた。

    今日、受付でそのことを伝えると、その場でスタッフが病棟の看護師に電話をした。ひょっとすると今回の入院は延期かもしれないと思ったけれど、あとで主治医と相談するということで、とりあえず予定通りの入院となった。

    病棟は前回と同じ7階だった。キングはまた幸運の女神のラッキーちゃんに会えるかもしれないと期待したけれど、ナースステーションには彼女の姿はなかった。

「こんにちは。また来ちゃいました」

  彼は前回の入院で、ここの病棟のスタッフとはすっかり顔なじみになっていた。

大王だいおうさん、すぐに病室に案内しますね」

 スタッフの女性が笑顔で応えた。今回は窓側ではなかったけれど、病室も前回と同じ704号室だった。
    あの時の患者さんたちはもういないだろうと思いながらも、彼が入り口のプレートを見ると、新田という名前があった。

    もしかして、抗がん剤と放射線治療を受けていたあの新田さんかな……。
    退院の挨拶をしたとき、
「絶対に戻ってきてはだめですよ」
    と言ってくれた安藤さんは、今頃どこで、どうしているだろう……。
「私もすぐに追いかけますから」
    と言った石田さんは、無事に退院できただろうか……。

    キングはまるで戦友を偲ぶように、彼らの安否を気遣っていた。

 キングが荷物をロッカーにしまっていると、すぐに、主治医のドクター・エッグが顔を出した。てっきり抜歯の話かと思ったら、

「今回、入院前の検査で心臓に血栓が見つかりました。そのまま放っておくと、脳に飛んで脳梗塞を起こす危険があるので、まず血栓を取る治療をしましょう」

    と言うの。入院期間も予定していた4週間ではなく、1週間か2週間程度になると。
    キングは困惑した表情を隠さなかった。
    なにそれ? 寝耳に水とはこのことね。血栓ってただの血のかたまりでしょ。がんのわたしより先に治療するほどたいへんなことなのかしら。

「すると、今回は抗がん剤治療はやらないということですか?」

「はい。抗がん剤のほうは予防的な治療なので、まだ時間的には余裕がありますから、今回はやはり、血栓の治療を優先したほうがよいと思います」

「そうですか。先生がそうおっしゃるなら仕方ないですね。すると、抗がん剤治療のほうはあらためて入院し直しですか?」

「そうなります」

 冗談じゃないわよ。そしたらまた休まないといけないじゃない。いくらキングでもそこまでずうずうしく休めるのかしら。それって、わたしが心配することじゃないわね。
    ところで、奥歯の治療のほうはどうなるの?
    キングも気になって聞いたわ。

「そうですね。最近は施術前に口腔ケアをしっかりやるという方針になっていますから、抗がん剤治療の前に抜歯しておいたほうがよいでしょう」

    と、ドクター・エッグはさらっと答えた。
    というと、まず血栓を治して、退院してから奥歯を抜いて、それから再度入院して、ようやく抗がん剤治療ってわけね。なんだか、ドタバタ騒ぎね。
    結局、お嬢さまが望んだように、抗がん剤治療はしばらくお預け。まったく拍子抜けだわ。
    でもよく考えたら、彼は命拾いしたのよね。だって、血栓を見落として、このまま抗がん剤治療を始めていたら、脳梗塞で死んでいたかもしれないわ。
    よくぞ見つけてくれました。ドクター・エッグって、なんかぼうっとしていて頼りなさそうだけれど、今回のことで少し見直しちゃった。 

    キングはちょうどよい機会だと思ったのか、ドクター・エッグにまた難しい質問をした。

「もし再発したら、免疫チェックポイント阻害剤のキートルーダは使えますか?」

    キートルーダというのは、従来の抗がん剤と違って、がん細胞を直接攻撃するのではなく、がんが邪魔していた免疫細胞の活動を活発にする薬らしいの。簡単に言うと、免疫細胞を元気にして、がんを攻撃しやすくするのね。

    わたしもしょっちゅう免疫細胞に攻撃されているわ。あんまりうるさいから、かれらの武器に蓋をしちゃうんだけれど、キートルーダという薬は、せっかくわたしが被せた蓋を、憎らしいことに外してしまうらしいの。すごい薬ができたものね。 
    もちろん薬である以上、副作用はつきもの。歴史が浅い分、どんな副作用が起こるかわからないというの。なんだか怖いわ。

    わたしたちがん細胞は、人間の正常細胞が突然変異を重ねてできるのよね。だから、元々は同じ細胞から生まれた双子の兄弟のようなものよ。なのに、人間はわたしたちに兄弟喧嘩をさせて、がん細胞だけを殺そうとするの。それってえこひいきよね。
    それで、わたしたちがん細胞は喧嘩相手の正常細胞の能力も利用して、自分たちを守ろうとするの。どんな抗がん剤でも長く使っていると効かなくなってくるのはそのためよ。はじめのうちは抗がん剤にやられても、そのうちに薬に慣れてくる。ちょうど、ウイルスや細菌が薬に耐性を持つのと同じね。
    なにが言いたいかというと、キートルーダという新しい薬にも限界があるんじゃないかと思うの。だから、キングに効果があるかどうかはやってみないとわからない。もちろん、わたしは効いてほしいと願っているわ。その薬でわたしが完全に抹殺されるなら、自分でむりやりアポトーシスをしなくてすむものね。
    キートルーダ、効いとるだ? 
    キング、聞いとるだ?
     親父ギャグでした。失礼しました。

    キングはこの薬が近く保険適用になると聞いていた。
    ドクター・エッグは、再発したと仮定しての話だからと、慎重に言葉を選んだ。

「当病院では、保険診療以外の特殊な治療法以外は全て可能です」

    何だか役人の答弁みたいね。

「予防的な抗がん剤治療は2、3年先に再発するリスクを下げるために行うもので、どうしてもやらなければいけないというものではありません。ご心配なら、がんセンターのような専門病院にセカンドオピニオンを頼んでみるのもよいと思います」

    え! ここはがんの専門病院ではないの? パンフレットにはがんの拠点病院だと書いてあるけれど。
    キングもそれを聞いて、かえって不安になったみたい。セカンドオピニオンって、別なお医者さんの意見を聞いてみることよね。さっきはドクター・エッグが頼もしく見えたのに、なんだかがっかりだわ。

    キングはドクター・エッグに本音をぶつけた。

「じつは、副作用の程度によっては、抗がん剤治療を途中でやめようと思っています」

    ドクター・エッグはたいして驚いた様子もなく、

「それについては、治療を始める前にまたよく相談しましょう」

   と言った。

    入院して2日目になっても、ラッキーちゃんは現れなかった。キングは気になって、巡回に来た看護師さんに聞いてみると、

「彼女は、1月いっぱいで辞めましたよ」

 という答えが返ってきた。

「え、辞めたの。どうして?」

「さあ、詳しいことは聞いていませんが」

 キングはいかにも残念そう。あの素敵な笑顔がもう見られないなんて、わたしもがっかりだわ。
    まさか、いじめにあったわけじゃないわよね。新米看護師のラッキーちゃんは、先輩から厳しく指導されていたわ。
    これでキングの幸運が尽きてしまわないように、わたしがラッキーちゃんの代わりになれればいいけれど、悲しいかな、彼にとってわたしは、ただの疫病神なのよね。

 キングは毎日暇そうよ。前回は手術でたいへんだったけれど、今回は点滴と服薬だけだから、気楽なものね。
    数えてみると、入院は今回で3回目。初めは1泊2日の検査入院、次が11日間の手術入院。3回目の今回は、抗がん剤治療のはずが血栓治療に変わってしまったから、これで4回目の入院も確定。この先、いったい何回入院することになるのかしら。キングじゃなくても、いい加減にしてほしいわ。

    今回は気楽だとは言っても、点滴と飲み薬は両方とも血液をさらさらにして血栓を溶かすための薬だから、万が一転倒して出血したりすると、血が止まらなくなってたいへんなことになるらしい。そう看護師さんに脅かされて、彼はなにをするにも恐る恐る。なんだか笑っちゃうわね。

    食べ物は薬と相性が悪い納豆とグレープフルーツ以外はなにを食べてもいいらしい。もっとも、病院では納豆なんか出ないから、関係ないわね。

    それ以外はなにをしても自由だけれど、煩わしいのは点滴用のスタンド。洗顔やトイレに行くときもスタンドを押して歩かないといけないの。それに、手首に点滴の管がついたままだから、長袖の服を着替えるときは、いちいち看護師さんを呼んで、管を外してもらわないといけないの。朝晩の着替えとシャワーの度にナースコールをするのは、さすがに、ずうずうしいキングでも気が引けるみたい。

 本来なら、血栓治療の患者は循環器病棟に入院するのに、キングは成り行き上そのまま呼吸器病棟にいるので、ここでは彼は、言わば、場違いの患者なの。
    そのせいか、看護師さんたちはほかの患者さんにはちょくちょく声をかけるのに、キングはほったらかしよ。看護師さんにしてみれば、彼はたまに点滴を取り換えればいいだけの、手間のかからない患者さんなの。 
    でも、キングはそれがおもしろくないみたい。さっきからご機嫌斜め。まるで子どもね。患者のひがみ根性というのかしら。人間という動物は狭い世界で生きていると、ひがみっぽくなるようね。呆れちゃうわ。

    キングは暇に任せて、同室の患者さんたちを観察し始めた。ここには、がん闘病の過去と未来が同居している。
    前回、彼が寝ていた窓側のベッドには、抗がん剤治療の真最中の内山さんがいる。その隣は、肺の手術を終えたばかりの木村さん。窓側の新田さんは、やっぱり前回もいた人だった。今は放射線と抗がん剤治療も終わって、そろそろ退院になるらしい。

    がん治療は進行具合に応じて、標準治療として、手術、抗がん剤、放射線治療が行われるのが一般的だけれど、この病棟はまさにそのオンパレード。
    そのなかで血栓治療中のキングは、いかにも場違いね。過去から未来へと続くがん闘病の長い道のりの途中で、彼だけが回り道をしているようなものよ。彼がなんとなく疎外感を感じてイライラするのも無理はないわ。

 今日はいつもの静かな朝と違って、9時ごろから、ざわざわと大勢の声が聞こえてきた。どうやら院長回診という行事らしい。キングは以前テレビドラマで観たシーンを思い出したみたい。ぞろぞろと若いお医者さんを従えて、いかにも偉そうな院長が入院患者一人ひとりを診て回るの。
    てっきりドラマの中だけの話かと思っていたけれど、実際にもあるのね。
    その白い巨塔の一団がベッドをぐるりと取り囲むと、まるでドラマと同じように、院長先生らしき白髪頭のお医者さんが彼に声をかけた。

「血栓の治療の最中でしたね。お変わりありませんか」

「はい、おかげさまで」

 なにがおかげさまなのかよくわからないけれど、キングは適当に相槌を打っている。ドラマの患者役でもやっているつもりかしら。どうせなら、院長役のほうがよかったのにね。
    わたしもかっこいいドクター役をやりたかったな。それで、院長先生と並んで颯爽と歩くの。やっぱり、切られ役じゃなくて、切るほうが断然いいわね。
    こんな平和な入院生活が送れるなんて、血栓に感謝しなくちゃ。じゃなくて、それを見つけてくれたドクター・エッグに。そういえば姿が見えないわね。ドクター・エッグはこういうドラマが苦手なのかしら。


(つづく)

前回はこちら。
第5話「5年生存率」

次回はこちら。
第7話「逡巡」




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