風評被害
先日の『喉元過ぎれば熱さを忘れる!?』の記事に続いて、今回も福島原発の汚染処理水による風評被害の問題を取り上げたいと思います。
以下は、東日本大震災から4年後、今から8年前に、当時、風評被害に苦しむ福島の農業者、漁業者を支援したいとの思いから、私が参加したバスツアーのレポートです。
福島復興支援・相馬買い物バスツアー
バスは常磐自動車道を北に向かって快適に飛ばしていた。朝から陽の光がまぶしい。抜けるように澄んだ青空が、こんもりとした里山の緑や、収穫を待つ稲穂の黄金色を際立たせている。初秋の東北は長閑だった。
2015年10月3日、東日本大震災の復興に少しでも役に立ちたいと、私は早朝から、少し大きめのリュックを背負い、NPOが主催する買物ツアーのバスに乗り込んだ。参加者は30人ほどだろうか。思い思いに買物袋を抱え、一様に緊張した表情で座っている。
バスは南相馬市に向かってひた走った。朝6時半に横浜を出発して、まもなく4時間になろうとしていた。
楢葉町辺りからだろうか、それまでの長閑な車窓の風景に、黒いしみのような点がポツンポツンと目立ち始めた。森林の茂みの中や水田の隅、家の軒先にも、異様な黒い袋が積み上げられている。
「あれは、除染作業で出た廃棄物が詰まっているフレコンバッグです」
と、NPOのスタッフが教えてくれた。やがて、その黒い袋は、点から線へ、線から面へと、次第に黒い塊となって連なり、まるで大きな砦のように、緑の田園地帯を取り囲んでしまった。ひときわ大きな塊の上には、全面にグリーンのシートが被せてあった。
「あれは、仮置き場に運ぶ前に置いておく仮“仮置き場”です」
現状では、最終処分場はおろか、中間貯蔵施設も完成していない。こうした仮置き場さえ不足しているという。仮置き場や、さらにその仮の「仮“仮置き場”」は、いつまで「仮」のままでそこに放置されるのだろうか。原発事故の後始末に苦しむ福島の今を象徴する風景に、私は心が痛んだ。
これは福島だけの問題ではない。
「原発の電気は関東の人が恩恵を受けているのだから、廃棄物も責任を負うべきだ。恩恵だけ受けて責任を負わないのは身勝手だ」
福島に住む友人の言葉が、胸に突き刺さる。今回のバスツアーに参加すると知らせた際の、彼からの返信メールだった。福島ではなく、首都圏にこそ仮置き場を造るべきだという彼の主張はもっともだと思う。
バスは、高速道路を降りて、南相馬市内に入った。
ふと見ると、市役所の前に、『脱原発都市宣言』と書かれた大きな看板が立っていた。原発事故をきっかけに、南相馬市が全国、いや、全世界に向けて訴えているのだった。
市のホームページでは、以下のように宣言されている。
『2011年3月11日、東日本大震災により南相馬市は未曾有の被害を受けた。
さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴い6万人を超える市民が避難を余儀なくされ、多くの市民が避難の中で命を落とした。
家族をバラバラにされ、地域がバラバラになり、まちがバラバラにされ、多くの人が放射線への不安を抱いている。
南相馬市はこの世界史的災害に立ち向かい復興しなければならない。
未来を担う子どもたちが夢と希望を持って生活できるようにするためにも、このような原子力災害を二度と起こしてはならない。
そのために南相馬市は原子力エネルギーに依存しないまちづくりを進めることを決めた。』
(平成27年3月25日 告示第29号)
はたして、この国と世界に、この南相馬市民の悲痛な決意が届く日が来るのだろうか
午前11時、最初の訪問先となる『JAそうま農産物直売所』に着いた。朝採りした農産物を地域に提供する、地産地消の直売所「旬のひろば」だ。いよいよ本日のメインイベントが始まる。
さあ、買いまくるぞ!
と意気込んだのだが、その前に、店舗の裏側にある倉庫に案内された。学校の体育館ほどの広さで、中はひんやりとしていた。入いるとすぐに、真新しい装置が目を引いた。米の放射能検査のための装置だった。ここで、持ち込まれた米を一袋ずつ、全て検査しているとのことだった。最近は、ほとんどが合格だという。
ところが、検査には合格しても、生産量自体が激減しているらしい。今朝持ち込まれ、検査を終えた米袋が、広い倉庫の片隅に忘れられたように、ぽつんと積まれている。
早く米袋いっぱいの倉庫になれ!
ガランとした倉庫を眺めながら、私はそう願わずにはいられなかった。
店舗前に戻ってから、地元の農家の女性リーダーから説明を聞いた。日焼けした顔に、優しい笑みを湛えている。柔らかな福島弁が、耳に心地よかった。
ここでは季節ごとに旬の野菜を揃えて、様々なイベントを打っているという。
説明のあと、ツアー参加者から、風評被害について質問が出た。
「ここでは全て検査していますので安心ですが、それでも以前は『これはどこで採れたもの?』と聞く人もいました。今ここに来る人は、地元の生産物だとわかって買いにくる人です」
そう答えて、女性リーダーはキュッと口元を引き締めた。
直売所には、旬の野菜や果物が所狭しと並べられていた。売り場の中ほどに、梨の試食コーナーがあった。さっそく口に放り込む。シャキッとした歯ごたえが旬を感じさせる。上品な甘さが口いっぱいに広がった。中玉の豊水が4個で300円。
「これ、安いですよね?」
私は、ちょうど隣に居合わせた女性の参加者に聞いてみた。彼女は一口放り込んだあと、にっこり頷くと、ためらうことなく買物かごに二袋入れたのだった。それを見て、私も一袋。
それから辺りを見回すと、壁際の地酒コーナーが目に入った。
そこに並んでいた『夢そうま』という銘柄は、どうやら相馬ブランドの日本酒らしい。値段もちょっと高めのようだ。しかし、この先、どこで買えるかわからない。
えい、買っちゃえ!
レジの列に並びながら、目の前の米粉のパンにも手を伸ばす。隣にあったイチジクのジャムもおいしそうだ。これも迷わず、かごに放り込む。
バスに戻って、買った品物をリュックに詰め込むと、早くもはち切れそうになった。
正午過ぎ、予定の時間より少し遅れて、『報徳庵』に着いた。相馬市の仮設商店街が経営する復興レストランだ。名前のいわれは、神奈川にもゆかりが深い二宮尊徳から来ているそうだ。
ここで昼食を取る。朝食が早かったせいで、胃の中はとっくに空っぽだ。
若い女性スタッフが、「私は人前で話すのが苦手です」と、恥ずかしそうに話し始めた。
「今日のランチはアジフライです。震災以降、捕れなかったアジが、相馬でも捕れるようになりました」
と、いかにも嬉しそうだ。大ぶりのアジフライは見るからに食欲を誘う。一口かじると、カリカリっとした衣から柔らかな白い身が顔を出した。うまい!
次の訪問先は、水産加工品の『センシン食品』だ。有名な相馬のおんちゃま(おじさん)こと高橋永真氏の話しを聞く。
話し出したら止まらないという前評判どおり、彼の口からは言葉が弾丸のように飛び出してくる。震災と津波、そして原発事故を乗り越えて、何とか加工場の再建にこぎつけるまで、おんちゃまは淀みなく語り続けた。
「世界一厳しい放射性物質の安全検査をしていても、いっこうに風評被害がなくならない。みんな添加物には無頓着なのに、放射能にはあまりにも敏感だ」
そう熱く語るおんちゃまの顔からは、悔しさが滲み出ていた。
福島県の漁業は、原発事故で大打撃を被った。今も操業自粛を余儀なくされている。漁業再開への道のりは険しい。
「今日は特別だ。3個で1000円!2袋2000円で持ってって!」
おんちゃまは威勢よくそう言ってから、素早く銀色の保冷袋をみんなに配って回った。
卓球台のようなテーブルに並べられた冷凍の水産加工品は、どれも試験操業で捕れた魚介類だ。福島県が実施している2万5千を超えるモニタリングの結果、安全が確認されている魚種に限って、小規模な操業と販売を試験的に行っているのだった。
「試験操業でようやく64種類まで捕れるようになった。そこにあるシラスは最高だよ!江の島のよりうまいよ!」
おんちゃまのユーモアたっぷりの語り口に、つい引き込まれる。全国に彼のファンが増えているというのも頷けた。
彼の話が終わると同時に、ツアー参加者が一斉に陳列台に群がった。私も競うように、刺身用のタコ、ごはんにかける浅漬けの漁師料理、アジフライ、塩辛など、手当たり次第に掴んだ。配られた保冷袋は二つとも、あっという間にいっぱいなってしまった。
センシン食品の隣にある『カネヨ水産』は、予定された最後の買い物場所だった。ここのボイルダコやボイルツブ貝がお目当てで、このツアーに参加した人も多いと聞いた。
そのちょっと古びたコンビニのような構えの店に入った途端、私は店員に呼び止められた。
「このもずく買ってって!これで100円だよ!」
見ると、年配の女性が、みかん袋のような赤いビニールの網袋をぶら下げて、人懐っこそうに笑っていた。袋の中には、茶色のもずくが詰め込まれている小さな透明のカップが4個入っていた。
私は、もずくはそれほど好きでもないし、すでにリュックも満杯だったから、そのまま素通りしようとも思ったが、
「これで100円? じゃ、もらいます」
と、言葉が口をついて出てしまった。すると、女性は、
「都会の風を運んできてくれて、ありがとう」
と言って、白い歯を見せたのだった。私は「都会の風」という言葉が妙に気に入った。
「こんな風でよかったら、いつでも運んで来ますよ」
そう言って、店を出た。店の前には、道路を隔てて、松川浦の入江の海が間近に迫っている。大小の島が浮かぶ風光明媚な景色は、「小松島」とも称されているらしい。
だが、ここも巨大津波に襲われていたのだった。この道路も、その後、修復されたのだという。今は、小さな波が静かに岸壁と戯れている。この穏やかな海の景色からは、当時の大津波の惨状は想像もつかない。
もしも津波が来なかったら、私がここに来ることもなかっただろう……。
私は複雑な思いのまま、レジ袋をぶら下げ、バスのステップを上った。
帰路は、国道6号線を南下する。常磐自動車道よりさらに海側を走るこの道は、福島第一原発のすぐ近くを通っている。途中、避難指示解除準備区域、帰還困難区域、居住制限区域を通過することになる。
この道は2014年9月から、双葉町、大熊町、富岡町の帰還困難区域内の14キロメートルも通行できるようになったが、被爆を避けるため、許されているのは自動車のみで、バイクや自転車、徒歩では通れない。
バスは南相馬市の避難指示解除準備区域に入った。津波で流され、今は雑草にびっしりと埋め尽くされた水田跡が、無残な姿をさらしている。
やがて、市街地の小高区に差し掛かった。ここは、立ち入ることはできても、住むことができない町だ。人の気配がしない街並みには、不気味な静けさが漂っていた。
街中には、住宅の軒下にも、がれきやフレコンバッグが放置されている。道路沿いの家には、閉まったままのカーテンが、まるで主人の帰宅を待っているかのように、ひっそりと垂れ下がっていた。この地区は、来年4月には、規制が解除されるという。
まるでゴーストタウンのような街の一角に、新規開店を知らせる立て看板が出ていた。駐車場の奥に、平屋建ての店があった。屋根の看板には大きな文字で『東町エンガワ商店』と書いてあった。そこは今回のツアーで、急きょ、買い物場所に追加された店だった。
店長は4ヶ月前まで、サラリーマンだったそうだ。震災後、何度もボランティアに来ていたが、この町の復興を信じて店を開けたのだという。
今は、一時帰宅の住民や復旧工事の業者、ボランティアなどが利用しているが、来年4月には、戻って来るはずの住民のために、今からここで頑張るつもりだという。
話を聞いて、私もわずかでも売上に貢献しようと、さっそく財布の口を開けた。すでに財布はすっかり軽くなり、リュックはずっしりと重くなってはいたのだが。
バスはいよいよ帰還困難区域に入った。その少し手前からは、バスのエアコンが車内循環に切り替わっていた。放射線の被爆を防ぐためだ。
バスの窓から見る街には、人の気配がまったくない。ほとんど全ての住宅の前には、格子縞の鉄柵が設けてあった。立ち入り禁止区域なのに、なぜ柵など必要なのかと疑問が湧いた。
どの交差点にも、赤色灯を回したパトカーが止まっていて、周囲を警戒している。一般車が脇道に入ることは、まだ許されていないそうだ。
沿道には、地震と津波にはなんとか堪えたというのに、住民の長い不在には堪えられなかった家屋が、荒れ果てた姿で並んでいる。食料品店の陳列棚には、ガラス越しに、商品がそのまま放置されているのが見えた。
異様な街並みの中を、バスはスピードを落としながら、静かに通り過ぎる。車中には、重苦しい沈黙が続いていた。
「帰還困難区域とは、避難指示区域のうち、5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の区域である。同区域は将来にわたって居住を制限することを原則とし,同区域の設定は5年間固定する」
(平成23年12月26日 原子力災害対策本部方針)
沿道の放射性レベルを知らせる電光掲示板には、4.6マイクロシーベルトという数値が表示されていた。
その時、
「この値は、朝通った常磐自動車道と同じです」
と、スタッフがアナウンスした。
いったいそれは何を意味するのだろうか? そろそろここも、帰還困難区域から避難指示解除準備区域に変わる可能性があるのだろうか。それとも逆に、周辺地域の解除が早過ぎたということなのか…‥。
どちらにしても私には、帰還困難区域は、完全な廃墟となるのを待つだけの、言わば“廃墟準備区域”のように思えてならなかった。
避難指示区域を抜けてバスが楢葉町に入ると、私はどっと激しい眠気に襲われた。自分でも意識しないうちに、異常に緊張していたのかもしれない。すでに、陽はどっぷりと暮れている。
福島はいつ、地震、津波、原発、風評被害の四重苦から解放されるのだろうか。
私は、福島を忘れない!
ぼんやりとした意識の中で、私はこの言葉を何度も呟いていた。
以上が、当時の私のレポートです。今読み返してみても、あの時の記憶が鮮明に蘇ってきます。
あの原発事故後、福島県漁連は試験操業で捕獲した魚について、食品衛生法に定める基準値(1キログラム当たりの放射性セシウム100ベクレル以下)よりもさらに厳しい独自基準(50ベクレル)を設け、その基準を満たしたものだけを出荷するという、懸命の努力を続けてきました。
その間、国の出荷制限の対象となる魚種は、最大で44魚種に上りましたが、基準値を下回った魚種は徐々に解除され、2020年2月には、すべての魚種で制限が解除されました。
ところが、その翌年、2021年2月には、福島県沖でクロソイから基準値を超える放射性物質が検出されたため、福島県漁連はクロソイの出荷を停止するなど、福島の漁業者は未だに放射能汚染の被害に苦しめられています。
そんな中で、この夏、原発処理水の海洋放出が行われようとしているのです。福島の漁業者の風評被害に対する懸念は、察するに余りあるものがあります。
私は、これまでの漁業者の努力に対して心から敬意を表するとともに、その努力を無にしかねない海洋放出が、けっして強行されることがないよう、願うばかりです。
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