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CANCER QUEEN ステージⅠ 第4話「幸運の女神」



 さすがに5泊6日も入院するのは時間と費用の無駄だと思ったのか、キングはドクター・エッグに頼んで、精密検査の日程を1泊2日に変更してもらった。
    そうよね。いくら土日は入院手続きができないからといって、2日で終わる検査に6日も入院させるなんて、どう考えてもおかしいわ。そんな病院側の事務的な理由で患者に負担をかけるなんてとんでもない。
    とまあ、わたしがむきになって怒ることではないけれど、ドクター・エッグがキングの頼みを快く引き受けてくれたのでよかった。やっぱり、ドクター・エッグはわたしの見立てのとおり、優しいドクターね。この先生になら、安心して彼キングを任せられそう。

  検査入院の日は、朝食を軽めにしなくてはいけないのはわかるけれど、いくらなんでも、野菜サラダとフルーツが少々、それに牛乳とヨーグルトだけじゃ、食いしん坊のわたしはとてももたないよ。キングはわたしを兵糧攻めにするつもりかしら。

    キングはそそくさと朝食をすませると、いつものようにワイシャツとズボンに着替えた。今朝は出勤するわけじゃないんだから、もっとラフな格好でもいいのにと思っていたら、病院に行く前に、近くの病院に入院しているお母さまの病室に寄ったの。お母さまはちょうど朝食の最中だったわ。

「あら、早いわね。どうしたの?」

    いつもは会社帰りに寄るのに、朝から顔を出した息子を見て、お母さまは変だと思ったのね。

「いや、なんでもないよ。このところ仕事が忙しくて、しばらく来れないかもしれないから、ちょっと寄っただけ」

    と、彼は噓をついた。それで、会社に行くような格好をしたんだわ。
    お母さまは少しがっかりしたようだけど、いつものように優しく微笑みながら、

「そうなの? あまり無理しないように。体に気をつけなさいよ」

    と言ったの。キングは胸が詰まって、それ以上なにも言えなくなったわ。 

     キングは予約時間ぎりぎりに病院に着くと、エスカレーターを駆け登って2階の呼吸器科の受付に駆け込んだ。滑り込みセーフ。と思ったら、入院の受付は1階だというから、あわてて反対側のエスカレーターを駆け下りた。ハアハアゼイゼイ。彼の息が上がると、わたしまで苦しくなる。ああ、しんどい。

 入院受付のカウンターの前には、大勢の患者や家族が列を作っていた。
    受付時間には間に合ったはずなのに、なによこの混雑は。これじゃ、予約の意味がないじゃない。とまあ、わたしが文句を言ってもしょうがないわね。
    キングは落ち着かない様子で、周りを見回していたわ。ここは総合病院だから、いろんな病気で入院するんだろうけど、なかにはいかにも重病という感じの人もいれば、まるで旅行にでも来たみたいに、鼻歌交じりにカラフルなキャリーバッグを引きずっている人もいる。この人たちはどんな生活をして、どんな病気になって、ここに入院することになったのかしら。人生いろいろ、病気もいろいろね。
    今回は検査入院なので明日には退院できるから、この人たちよりは気楽なはずだけど、キングはさっきから浮かない顔をしているの。きっと、検査の結果が心配なのね。

    ようやく受付が終わって病室まで行こうとしたら、案内スタッフが来るまで待つようにと言われた。案内スタッフがいるなんてホテルみたいね。それじゃ、ベルボーイもいて、荷物も持ってくれるのかしら。
    しばらく待っていると、グレーの地味な事務服を着た女性スタッフが大きな声で、「大王だいおうさん」と、彼の名前を呼んだの。
    え!? 声、大きくない。これじゃ、個人情報がばればれだ。
    彼が手を挙げて返事をすると、女性スタッフは荷物を持つこともなく、

「こちらです」

    と言って、さっさと歩き出した。彼は黙って、女性の後をついていったわ。
    エレベーターホールでは大勢の患者さんが待っていたけれど、女性スタッフはそこをやり過ごして、“入院患者・スタッフ専用”と書かれたエレベーターの前に立った。専用エレベーターだなんて、まるでVIPになった気分ね。
    わたしたちの後ろから、白衣を着た若い女性のお医者さんが、ポケットに両手を突っ込んだまま、エレベーターに乗ってきた。まるでテレビドラマにでも出てきそうな、いかにもドクターって感じの、かっこいい先生よ。わたし、こんな先生に診てもらえるといいな。

    病室は7階の713号室。ラッキーセブンの7と、不吉な13が並んでいて、運がいいのか悪いのか。でも、キングはキリスト教徒じゃないから13は無視して、やっぱり、ラッキーセブンよね。
    キリスト教といえば、彼のご両親はなにを思ったのか、親戚に勧められたと言って、ずいぶん前に、突然、二人で洗礼を受けたらしいの。どおりでお母さまは、マリアさまのようだと思ったわ。でもそのあと、二人とも教会にも行かず、聖書も読まず、お祈りもしなかったそうだから、本気でクリスチャンになるつもりはなかったみたい。

「なんで洗礼まで受けたの?」

    と彼が聞いても、お母さまは黙って、にっこりと笑うだけらしいわ。
    それでも、普段は支障がなかったけど、お父さまが亡くなった時は、葬儀をどうするかで困ったみたい。まさか、仏式ではできないし、かといって、キリスト教式も馴染みがないから、結局、無宗教にして、牧師さんもお坊さんも呼ばずに、身内だけで簡単にすませたそうよ。

     キングのベッドは窓側だった。大きなガラス窓の向こうに、横浜の港や丘陵が見渡せて、ほんとうにホテルのようだわ。やっぱりラッキーセブンね。
    4つのベッドのうち2つには、カーテンが引かれている。キングの隣のベッドは、今は空いているけど、すぐに埋まってしまうのかしら。
    キングがぼんやりと外を眺めていると、後ろから名前を呼ばれたの。振り向くと、若い看護師さんが立っていた。

「こんにちは。担当の倉田と申します。大王だいおうさん、よろしくお願いします」

    マスクで顔の半分は隠れているけど、目元がやさしくて、感じがいいわね。弾けるような笑顔と弾むような声は、まるで幸運を呼び寄せる女神のようだわ。これから、ラッキーちゃんと呼ぶことにしよう。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 と、キングはいかにもうれしそうに挨拶したの。ふん、どうせわたしは疫病神ですよ。
    ラッキーちゃんが行ってしまうと、彼は思い出したように、パジャマに着替え始めた。レンタルもあるけど、少しでも入院費を節約しようと、家から持ってきたの。
    パジャマ姿になると、いかにも病人らしく見えるから不思議ね。ベッドに横たわると、そのまま、うとうとと眠ってしまったわ。そうね、このあと、大変そうな検査があるから、今のうちに休んでおいたほうがいいかも。 
    でも、10分もしないうちに目が覚めたわ。やっぱり検査のことが気になるのね。ベッドから起き上がるとすぐに、さっきラッキーちゃんがテーブルの上に置いていった検査の説明書を読み始めた。

    口からのどを通して気管支鏡を気管や気管支の中に挿入して、直接内腔を観察、あるいは組織や細胞、分泌物などの検体を採取する検査方法で、……。

    病院の文章って、どうしてこうわかりにくいのかしら。つまり、目のついたメスを口から入れて、肺の中のがん細胞を引っぱがしてくるということでしょ。
    ああ怖い。わたし、どうしよう。か弱い乙女を傷つけるなんて、許せないわ!

     キングが説明書と格闘していると、また別の女性スタッフが検査着を持って迎えにきた。パジャマから検査着に着替えると、女性スタッフは車椅子を勧めたけれど、キングは自分で歩くと言って断った。女性スタッフと並んで、意気揚々と車椅子を押す検査着姿の彼を、すれ違った看護師さんが不思議そうに見ていたわ。 
    検査室が広いのには驚いた。いろんな機械が並んでいて、ドクターや看護師やスタッフが大勢いるものだから、いきなり手術になるのかと思ったわ。これには、さすがのキングも少し怖気づいたみたい。
    検査台に寝かされると、目隠しをされて、タオルで体をぐるぐる巻きにされてしまったの。彼はどうにでもなれと腹を括ったようだけれど、わたしのほうがドキドキして、心臓が破裂するんじゃないかと思ったくらいよ。
    え? がん細胞にも心臓があるのかって!?  
    もちろん、あるわよ! だから、こうして生きているんじゃない。

    キングはすぐに麻酔が効いてきたのか、気持ちよさそうに寝てしまったわ。わたし一人を置いてきぼりにして、ひどい人ね! 
    ドクターさん、お願いだから、あまり痛くしないでくださいね。
    いよいよ気管支鏡が喉を通って、肺の中に入ってきたわ。首をぐにゃぐにゃと回しながら、ゆっくりと近づいてくる様子は、まるでヘビのよう。わたしはできるだけ小さくなって、肺のすみっこに隠れていたんだけれど、とうとう見つかってしまったの。ヘビはわたしを見つけると、ヌーと首をもたげて、いきなりガブリとお尻に噛みついたのよ。その瞬間、わたしは気絶してしまったみたい。

     目が覚めると、ベッドの横にラッキーちゃんが立っていた。心配そうにキングの顔を覗き込んでいるの。どうやら、わたしもまだ生きているようね。

「ご気分はいかがですか?」

 いいわけないでしょ! てっきり死んだかと思ったわ。わたしのお尻を返してよ!

「はい、大丈夫です。いい気持で寝ていました」

 いい気なものね。彼は幸せそうにラッキーちゃんを眺めているのよ。まあ憎らしい。

 夕方、奥さまが見舞いにきたわ。そこに、たまたまラッキーちゃんがいたので、

「こちら、担当の倉田さん。とてもいい看護師さんだよ」

 と、彼はうれしそうに紹介したの。

すると、奥さまはなんと、  

「よろしくお願いします。うんと、いじめてくださいね」

 と言った。奥さまもなにかピンときたのかしら。

「え、どうやって?」

 ラッキーちゃんの目が点になったわ。そのあとは、3人で大笑い。

「まだ1年目の新米なので、いろいろご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」

 だめよ!新米だからといって、大切なキングに迷惑なんかかけたら、わたしが許さないわよ!
    そういえば、チェックシートを確認する手際は、どことなくぎこちなかった。さっきも先輩の看護師さんから、あれこれと細かい注意を受けていたわ。

「看護師さんになるなんて、偉いわ」

 わたしの心配をよそに、奥さまは新米看護師を褒めるのよ。

「そんなことはありません。でも、お話していただいて、うれしいです。早く一人前の看護師になれるように頑張ります」

 と言って、ラッキーちゃんはマスクを外して、ていねいにお辞儀をしたわ。初々しいのはいいけれど、ほんとうに大丈夫かしら。

「明日退院とは、残念だな。今度、また入院した時も、よろしくね」

 と、キングが言うと、

「またお会いできるのは、うれしいような、そうじゃないような、複雑な気持ちです」

 と、ラッキーちゃんはもじもじしながら応えたの。素直でいいお嬢さんね。悔しいけど、彼には、ラッキーちゃんのような幸運の女神が必要なんだわ。 

 翌日は朝から検査。午前中は胸のレントゲン、午後は専門機関に行って、MRIとPETの検査。忙しいわね。     
    夕べ、キングは眠りが浅かったみたい。同室の患者さんがトイレに起きる度に目が覚めていた。
    1泊2日の入院だからかしら、彼は同室の患者さんたちとまだ一言も話をしていない。カーテンが全部閉まっていて、どんな人がいるのかよくわからないけれど、声は聞こえてくるから、お医者さんや面会に来た家族との会話は、聞く気がなくても耳に入ってくるの。
    昨日入院してきた患者さんは70歳を過ぎたおじいちゃんのようだけれど、どうやらこれで2度目の入院らしい。キングと同じ肺がんで、お医者さんの話では、肺がんの中で最も多い腺がんという種類で、手術では取り切れずに、骨にも転移しているというの。これから、放射線治療と抗がん剤治療を並行して受けるらしいわ。
    肺がんは完治が難しいのよね。キングはお隣さんの話を、どうしても自分に置き換えて聞いてしまうみたい。お医者さんの言葉に、一喜一憂しているの。

    レントゲン検査が終わって、服を着替えて待っていると、ドクター・エッグとラッキーちゃんが病室に入ってきたわ。
    彼はドクター・エッグに丁寧にお礼を言ったあと、検査結果を聞く日を28日ではなく、奥さまも同席できる日に替えられないかと頼んだの。ドクター・エッグはいやな顔ひとつせずに承知したわ。 

「まあ、1日2日を争うわけではないから、いいでしょう。そうですね、午後からだと12月1日になりますが、どうですか?」

「はい、それでお願いします」

 それを聞いて、キングより先に、奥さまがお礼を言った。やっぱり奥さまは、いっしょに先生の話を聞きたかったのね。その間、彼ったら、名残惜しそうにラッキーちゃんを眺めているのよ。

「じゃ、あっちゃん、頑張ってね!」

 苗字ではなく名前を呼んだの。いつのまに覚えたのかしら。

「ありがとうございます。名前を覚えていただいて、うれしいです。お大事にどうぞ」

    ラッキーちゃんの笑顔はかわいいわね。悔しいけれど、この次も彼女が担当ならいいなって、わたしも思ったわ。 

    午後からの検査は2時からだけれど、お昼を食べてはいけないらしい。検査だと、どうしていつもだめなの。地下鉄に乗っている間中、彼のお腹がグーグー鳴っていたわ。わたしもお腹が空いて、もう死にそうよ。
    これじゃ、キングはまた痩せてしまうかも。よせばいいのにダイエットなんかして、体重が65キロに減ったの。彼はそれがベスト体重だと思っているの。でも、この2、3日は、やっぱり減り過ぎが心配になったみたい。急に体重が減るのは、典型的ながんの症状だと言われているわ。

    検査機関は5階建ての大きな建物だった。どこにも窓がないから、倉庫かと思ったわ。
    でも、玄関はホテルのように立派だった。なかに入ると、紺のスーツ姿の女性が笑顔で出迎えた。ロビーには静かなBGMが流れていて、検査を受ける人たちが、ゆったりと長椅子に腰掛けながら順番を待っている。
    キングが受付の女性に、保険証と病院からの紹介状を渡すと、

「今日はお食事をされてから、5時間以上経っていますか? その間に、お水やお茶以外は召し上がっていませんか?」

 と尋ねたの。やっぱりホテルでも倉庫でもなくて、病気の検査機関ね。
    ロビーでしばらく待っていると、紺のスーツ姿の別な女性が迎えにきた。案内された更衣室で検査着に着替えると、今度は、また別の女性が診察室まで案内した。検査料が4万円もするというから、こんな手厚いサービスも当然かもしれないけれど、それにしても、スタッフが多すぎない。 
    診察室では若い女性医師が待っていたわ。白衣姿のお医者さんって、やっぱりかっこいいな。てきぱきとキングの健康状態をチェックしていくの。なんだか彼の血圧が少し上がったみたい。まったく、あきれちゃうわね。

     いよいよ検査開始。はじめはMRI検査。点滴で造影剤を入れてから検査台に横になる。トンネルみたいな丸い機械の中を潜るときに、カーン、カーンという大きな音がする。こんな機械で、ほんとにわたしのことがわかるのかしら。
    次はPET検査。もっと簡単な検査かと思ったけれど、意外に時間がかかったわ。なにか薬剤を注射されたあと、1時間ほど安静室で待つようにと言われたの。照明を落とした部屋にはリクライニングシートがいくつか並んでいて、横になると耳元から静かなクラシック音楽が聴こえてくる。キングは目を閉じて音楽を聴いているうちに、すっかり寝入ってしまった。 
    きっかり1時間後、今度は男性スタッフの太い声で起こされた。優しい女性の声では、みんな起きないからかしら。安眠を妨害されて、キングは見るからに不機嫌そう。
    検査室には、MRIと同じような丸いトンネル状の真新しい機械があった。台の上に横になると、台ごとスライドしながらトンネルの中を潜る。でも音はしなかったわ。
    キングは初めての機械に興味津々ね。20分ほどの検査の間、ずっと目を開けてあちこち見ていたわ。
    好奇心旺盛な彼は、検査室から出る前に、白衣を着た男性スタッフに、MRIとどこが違うのかと質問したの。

「MRIと形は似ていますが、原理は全く違います。MRIでは、磁場・電磁波を加えることによって体内を画像化しますが、PETは、ブドウ糖を多量に摂取するがん細胞の特性を利用することで画像化します。このため、放射線を出す、ぶどう糖に似た検査薬を体内に入れて、その取り込み具合によって、がんを捉えるのです」

 と、スタッフさんはていねいに説明してくれた。 
    がんに偽の食べ物を与えて、食いついたところを調べるなんてひどい話ね。そうとは知らず、わたしはすっかり騙されて、ぶどう糖に似た検査薬とやらを大量に食べてしまったわ。でも、それでお腹がいっぱいになったから、まあいいか。
    キングはさぞかしお腹が空いたでしょう。わたしは悔しいかな、もうなにも入らないけれど、キングはおいしいものをいっぱい食べてね。朝から検査づくめで、ほんとうにお疲れさまでした。わたしもしんどかったな。

 

(つづく)

前回はこちら。
第3話「ドクター・エッグ」

次回はこちら。
第5話「キングの望み」




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